第四講習

 休憩が終わって四つ目の部屋に移動している時、俺たちには緊張感が漂っていた。最初の散策でオフィスのセットを見ていた為、より実践的な講習になることを予感しており、その為のマスコットの演技を絶やさないことを各々が意識していた。


 四つ目の部屋に到着すると、職員はまた、「ヒガムカセ」を黒板に書き、そしてカとセに丸をした後、ヒとガに○を付けた。しかしムには△が付けられた。


「ヒ」

「人当たりが良い!」

「ガ」

「ガツガツしない!」

「ム」

「無邪気!」

「カ」

「可愛らしい見た目!」

「セ」

「清潔感!」

「そうです」


 今度は、「そうです!」というお茶らけの反復はなかった。


「この講習では、皆さんにより実践的なトレーニングをしていただきます。ちなみに今日のやっていただく講習はこの部屋で終わりとなります。そして今日だけで皆さんは『可愛いおじさん』の基礎を学ぶことができます。その仕上げとしての講習となりますので、しっかりと取り組んでいただきたいと思います」


 参加者が威勢の良い返事をしたところで、職員は俺たちに再び目を瞑って各々のイメージを固めるよう促した。そしてその暗闇の中で、


「皆さんが眼を開けた時、ここは皆さんが働く職場となっています。そこには皆さんと一緒に働く若い女性が、当然のように居ます。私は口出しをしません。皆さんはあくまでも本日お教えしたことを元に振る舞ってください」


 しばらくの時間が開いた。俺はイメージを固めることに専念していた。暗闇の中で、キーボードを打つ音と紙が擦れる音が聞こえて来た。


「それでは目を開けてください」


 開けると、二人の若い女性が事務社業をしていた。職員が最前列の参加者を黙ったまま立たせ、テープで目印を付けられた位置まで移動させた。そして一呼吸を置いた後、そのラインを越えさせた。


「お疲れ様です」と職員がその参加者に言った。少し硬いところはあるものの、自然に参加者は返事をし、作業に入った。


 若い女性たちは特別多くその参加者に話しかけることはしなかった。そしてその参加者も自分から業務外のことで話しかけることはなかった。俺は内心で「ガ、ガツガツしない」と呟いた。その参加者は若い女性たちとやり取りする時、非常ににこやかに接していた。「ヒ、人当たりが良い」。


 数分間のトレーニングの後、参加者は席に戻った。そしてこちらの緊張感を察してか、ラインからこちら側に戻って来てからも、緊張感から解かれたことによる弛緩を大体的に表すことをしなかった。二つ目の講習による周囲の目への意識が生きていることが分かった。俺は自分の身が引き締まるのを感じた。


 緊張感により引き伸ばされた時間は、俺が自身に纏わせたイメージを屈強にすることに役立った。


 俺の番が来た。ラインに立った時、そのラインを目印にそこにある透明な壁の向こうで若い女性たちは平然とした様子で事務作業をしている。俺はトレーニングをより効果的にする為にその内の一人に吉沢さんをイメージしていた。


 職員に促されラインを越えた。


「お疲れ様です」


 吉沢さんともう一人の女性が黄色い熊の赤ちゃんに挨拶してくる。そのマスコットは張り付いた笑顔でそれに返した。気のせいか、いつも現実世界の女性社員がそうする以上の微笑みが返って来る。


 キーボードを打っている時も、丸いふわふわの背中を意識する。


「これにチェックお願いします」


 振り返ると、吉沢さんじゃない方だった。しかしマスコットはそれらしい対応をする。次に声をかけて来たのは吉沢さんだった。「お茶どうぞ」と脇に置いてくれる。心からの嬉びが溢れそうだったが、「ガ、ガツガツしない」と自分に言い聞かせることによってその喜びはマスコットを越えて外部に発せられることはなく、寧ろその意識がマスコットとしての心からの喜びと変わった。


 吉沢さんからは手ごたえ通りの好意的な表情が返って来た。俺は微笑みがニヤけ顔にならないように注意することに必死だった。思惟が悟られてはいけない。


 トレーニングが終わってラインを越える時、俺はその線が現実と非現実の境界とならないように、それを越える際の歩調を特別なものにしなかった。この感覚を持ち帰る為にトレーニングが終わってからも緊張は続いた。


「本日の講習は以上です。この後皆さんには今回の内容を持ち帰っていただき、各々の生活に役立てていただくわけですが、初めから上手く行くとは思わないでください。先ほどやっていただいたトレーニングで実感されたことと思いますが、今回受けていただいた『可愛いおじさん』の技術の基礎講習は一朝一夕で身に付くものではなく、また技術を発揮できたからといって直ぐに効果を得られるものではありません。しかし焦ってはいけません。そこは大人の余裕を持って悠然と構えていただきたいと思います。また皆さんそれぞれでケースは違いますから、次回いらっしゃった時に個別でご質問いただいても構いません。ちなみに次回はより実践的な応用編となります。次回も参加されたいという方はまたHPからご連絡いただければと思います。それではまた機会がありましたらよろしくお願いいたします」


 職員の挨拶が終わった後、早速職員の周りに人だかりが出来た。それぞれがそれぞれの職場の詳細を伝え、なるべく多くの利益を持ち帰ろうとしていた。


 私も「気になる女性がいるのですが、世代が違う為共通の話題が見つからないのですがどうすれば良いでしょう?」と質問しようとその人だかりに加わったが、職員が、


「皆さん、お気持ちは分りますが、ご質問も応用編も基礎を試してみてからでないと意味がありません。本日お教えできることはお伝えしたつもりですので、とりあえず本日の内容をやってみてください」


 と宥めるので、人だかりは解散した。


 しかしふと気になったので、私は職員の方を向き直った。


「そういえばこの施設に対する個人的な興味による質問なのですが・・・」 

「どうぞ」

「ここの運営費用はどのような組織が出しているのでしょうか?講習が無料ですからこの講習が広告塔の役割でも果たすのかと思ったのですが、チラシ一枚配られていませんし・・・」

「それに関しては、すいません、色々と事情は何となくお察しください」


 職員は、講習の時とは印象の違う、年相応の表情を見せた。私はその貌と、擦り寄って来るような口調によって、


「なるほど、お互いに色々とね」


 と言って質問を止めた。


 荷物をまとめて職員に挨拶をして帰ろうとした時、職員が「特別ですよ」ととある秘策を教えてくれた。俺はまだ△に留まっていた「ヒガムカセ」の「ム、無邪気」を達成する一方法をウキウキとした心持で自宅に持ち帰った。

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