腐ったサルの仲間になるのはごめんでね

「おお、ちょい、主役が危険なことするんじゃないアリス!」

「トカゲはここにいな」

「命綱! アリス命綱つけて!」

 ジャックの口に手を当てて黙らせてから、あたしは慎重に立ち上がった。

 スタッフたちも緊張して動けない。

 だけどあたしは歩き方を知ってる。

 下層界は根っこの塊だ。宙に浮いてるったって、しょせんそれが細くなっただけ。ここでブルってたらジャングルのご先祖様に顔向けできないでしょ、なんてね。

 円錐になった樹根の塔に差し渡された細い橋を渡って行くシンデレラ。

 わお、これでまた一曲書けちゃうんじゃない?

 

 深々とした灰色の霧があたしのまわりで渦を巻く。

 緩やかな上昇気流が霧に勝てるのは真ん中の方だけ。樹の側に来たら樹の吐き出す水分を貪欲に吸い込んで、霧はますます深くなる。

 ここのボスは樹なんだ。もう人間なんていてもいなくてもそう変わらないんだよ、このニューヨークって街には。

 濡れた樹根は予想以上に滑りやすい。

 あたしは靴を脱いで裸足で歩いてた。

 ゴリラの脚はこういう時に役に立つ。

 腕をぷらぷらさせながらもう片方の端に向かって歩き続けると、誰かの声が聞こえる。

 それは不愉快で不愉快だった。

「ひゃあひゃあ。これもっとしゃぶりたい」

 霧の中で影が痙攣するように動いた。

 がちゃんがちゃんとライトスタンドを振り回す音。

「向こう側にいったらもっとあるって兄弟。お仕事だよ」

 なあんだ。ホセと一緒に見た、タクシーを壊しちゃうようなモンスターとは別口だわ。

 あたしは頓着せずに霧を突き進む。

 ただの馬鹿がふたりいてライトを倒した。

 それは確実みたいだったし、声はあたしの下の方から出てたってことは小さいやつだってことで、怖がる理由は特にない。

 何故って、こんな近くで銃を抜かれてもぶん殴るほうが速いからね。

 

 霧の中にスタンドの足が突き出ている。

 あたしはそれを思いっきり引っ張った。重い。

「ひい、兄ちゃんおれ浮いてる! 兄ちゃん助けて!」

 持ち上げて振り回すと、ハイエナがしがみついてた。

「あんたさあ、何してくれてんの」

「きんぞく」

「ええ?」

「きんぞくなめるの好き」

「やめな。中毒になっちゃうよ」

「なってるよ。でも食べ物ないもん」

「どっかで働きなよ」

「はたらいてるよ、今ね」

 霧の中からぐるぐると唸り声がした。

「兄ちゃん助けて! ゴリラがおれをいじめる」

「ぐるぐるがあ!」

 すねめがけて跳びかかってきたやせぎすのハイエナを、あたしは踏みつける。

 蹴飛ばすと落ちるじゃん?

 一応は優しいのよ、これでもさ。


 きゃひきゃひと情けない声を出す兄ハイエナと、しくしく泣く宙づり弟ハイエナを、あたしはどうしたもんかと代わる代わる見た。

「助けて助けて」

 兄ハイエナが言う。

「機材をこれ以上壊さなかったらね」

「弟だけでも」

「壊さなかったら助けるってば。聞いてる?」

 あたしは弟を樹根に下ろしてやる。

「逃げ、逃げ」

 手足をじたばたさせながら兄が言ったその時、霧がぶわりと揺れた。

 あいつ。

 直感する。

 ホセのタクシーに乗ったとき、霧の中にいてタクシーを潰したモンスター。

 怯えて尻もちをついた弟ハイエナの上に、そいつの拳が落ちた。

 弟ハイエナの首はかくんと変な方に曲がった。

 その体は樹根の上で眠りにつくように倒れて、動かなくなる。

 兄が絶叫する。

 霧が震える。

 悲鳴が出た。

 あたしの喉からだ。


 巨大な影が笑い始めた。

「いい声で鳴くじゃねえかアリス」

 あたしは数歩よろめき下がる。

 弟のもとに駆け寄った兄ハイエナを、霧のモンスターの長い脚が兄弟ともども宙に蹴り出した。長い長い恐怖の叫びが霧に呑まれる。

 止められなかった。動けばあたしが殺られるから。

 霧の中から伸びた脚、その黒い毛並みをあたしは良く知っている。

「アーサー」

 脚に続いて腕が、そして全身があたしの前にそそり立つ。

「そうとも。パーティー会場に下種がいるって聞いたからなあ、お引き取りいただこうと思ったんだが。だいたいハイエナは根性無しでだめだ」

「あの子たちを脅したのね」

「あの子たち!」

 唾を飛ばしてアーサーが笑った。

 胸糞悪くなる乱杭歯がむき出しになる。


「あの子たちだってか! いつから繁殖用になったんだアリス。そんなら俺にも教えなきゃいけなかっただろ? ええ?」

「あんた、言葉ってものを知らないね」

 歯の隙間から洩れるアーサーの笑いはいつも気味が悪い。

 自分が上であることを刻みつけたいみたいな笑い、実際そうなんだろうけどさ。

「そんなら教えてやろうかアリス。俺はな、ある有力者にやとわれてんだよ。試合しなくても金はどっさり入ってくる。それは力があるからだ」

 回した肩の筋肉がえぐいくらいに盛り上がって見えた。

 昨日より断然凄い。

 こいつ。

「プリチャックス」

「良く知ってるじゃねえか」

 アーサーが一歩踏み出す。

 あたしは一歩下がる。


「ボクシング協会はあんたを追い出すよ」

「は、それが何だって? 骨を折ったときの快感を知ってるかアリス? 頭を引きちぎって血が噴き出したときのいい匂いを知ってるかアリス? チャンピオンってのはな、教えてやろうか、それは最強に許された暴力のことなんだぜ。俺がそれを実行できなかったのはお前にだけだよアリス」


 血走ったアーサーの目があたしを覗き込む。

 また一歩あたしは後退する。

「今日はボスがご立腹でな。ボスの息子ちゃんのたーいせつな溜まり場に、臭いやつらがいるってんで。お前がもう来てるとは思わなかったが好都合だ」

 吐き出す息はヤクにおぼれたやつの香りがする。

 甘ったるい、人間じゃない臭い。

 馬鹿。

 とんでもない大馬鹿。

「ア・ア・リ・イ・イ・ス」

 猫なで声でアーサーが言った。

「こっちへ来いよ。仲間になったら楽しいぜ? 金も男もより取り見取りだ」

「ごめんだね、腐ったサルの金玉野郎」

 あたしは背を向けて駆け出した。

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