フライドチキンになるのはあなた

 つるつる滑る樹根の皮を足の裏で必死で掴む。

 その時、樹根の対岸からおーいおーいとジャックの声がした。

「おーい、何やってるんだアリス。聞こえてるかあい」

 あたしは向こう側にいる撮影班の事をようやく思い出す。

 ここから逃げ出すなんてもっての外だったわね。

この馬鹿を何とかしなきゃ。何とか……何とか。

 ふんふんと鼻をうごめかせたアーサーは、残忍な形に唇を吊り上げた。

「こいつあ傑作だ。今日の昼飯はイグアナにしようぜ、アリス」

「二度とあたしの名前を呼ぶな」


 中ごろまで走って行くと、どうやら撮影班にも状況が伝わったみたい。

 あらゆるスタッフがわっと一気に喋り出した気配がある。

 逃げて欲しいとあたしは願った。

 この狂ったくそゴリラは、あたしを始末しただけじゃ終わらない。全員の頭と胴をお別れさせるまで暴れ続けるだろう。

 あたしが殴り合いで勝てる見込みは薄い。

「おいおいアリスどうしたんだよ。爬虫類に目覚めてんのか?」

 大股でゆっくりと、自信満々な足取りでアーサーが近づいてきた。

「そんなわけないでしょ」

 アーサーは駄々っ子を呼ぶ父親のように両手を広げて、

「俺のところに来いよアリス。今ならそのくだらないラップよりもいい思いをさせてやるよ。このヤクは最高だしな」

「感性が死んでる馬鹿を、あたしが好きになると思う?」

「お断りだね」


 あたしは拳を構えた。

「アリス!」

 ジャックが叫んでいる。

「アリスやめるんだ、そいつプリチャックスを入れてる!」

 ははははは、とアーサーが胸を反らせて笑った。

「来いよ」

 あたしはその胸にどすんと一発ストレートを放つ。

 真っすぐに吸い込まれた拳は、しかしアーサーを揺らすこともできなかった。

 お返しのパンチがあたしの耳元で唸る。

 すさまじい拳圧で鼓膜が死にそう。

「蚊みたいなパンチだな、アリス?」


 ジャブが降った。

 あたしは両腕を構えてガードする。

 一撃一撃、腕が悲鳴を上げた。

「こないだの挑戦者はつまらなかった。もう少し粘れよお前は」

 アーサーは笑いながら殴ってくる。

 その拳が重い。

 昨日の重さとは比べ物にならない。

「どうしたアリス、どうしたああああああああ!」

 大音量の咆哮があたしの脳みそを揺さぶる。

 あたしのリズムを不快に壊す。

 一歩下がるたびに足元がつるつると滑り、命綱がないことを後悔する。

 真っすぐにしか退けない。

 ただ起死回生の手はひとつだけある。


 あたしよりも体格で勝るアーサーは、樹根の上じゃ小回りが利かない。

 これは試合じゃないんだから、ボクシングスタイルを捨ててタックルすれば。

 アーサーの丸太のような腕が突き出された。

 風より速い右ストレート。

 あたしはここぞとばかりに身を屈めて、拳を避けてアーサーの腰に頭からぶつかろうとする。

 でも、それはアーサーに読まれてた。

 ストレートはおとり、見事な左フックがあたしの腹に沈む。

 体が折れる。

 目の前で赤い樹根がモザイクを描いて回っている。

 例えその拳が見えなくても、アーサーの次の動きはすさまじいプレッシャーで感じ取れた。

 背骨めがけた全力の叩き潰し。

 あたしは、だけどまだ立ち直れない。

 来るぞ来るぞこれで死ぬんだ。

 そう思ったとき、あたしの背中の上を小さな何かが走り抜け、アーサーが奇声を上げてよろめき、退く。

「アリス! しっかりしろよ」

 気づけば緑色の物体があたしの周りをちょこちょこ走ってた。

「踏みそう」

「おっと」


 あたしがようやく体を真っすぐに戻すと、ジャックが目の前で小さな銃を構えてる。

 アーサーは樹根の上に膝をついて体を震わせていた。

 黒い巨体が筋肉で膨れ上がる。

 怒りが、プリチャックスの増強効果の限界を超えようとしてるみたいだ。

 右手の甲から血が滴って樹根に吸い込まれる。

「窮鼠猫を噛む。ヒーローイグアナはゴリラを撃つ。カッコいいだろ、っておおおい!」

 あたしはふんぞり返ったジャックをコートごと掴むと後ろに放り投げた。

「今のは感動するところだよお」


 次の瞬間、予備動作無し、弾丸のようなアーサーの突進が来る。

 四つ足になったアーサーは野蛮な本性をさらけ出してた。

 牙でも指でも頭突きでも、どれかにつかまれば死ぬ。

 瞬きするよりも速く、本能が命じた通りにあたしは跳んだ。

 すかを食ったアーサーの体を跳び越しながら、やつの頭を突き飛ばす。

 巨体は勢いそのまま、顔から樹根に激突した。

「ごおあっ!」

 と、アーサーが驚愕した声を上げ転倒する。

 だけど落ちはしない。

 あたしを支えるゴリラのバランス感覚は、アーサーの体も支えてる。


「このメス――」

 ゆらりと立ち上がるアーサー。

 全身から湯気を立ち上らせ、ますますモンスターのようになったアーサーは、異様に光る据わった目であたしを真っすぐに見た。

 どう止めればいい。

 今のこいつは多分、ライフルの弾がめり込んでも死なないだろう。

 おびえるスタッフたちが背後にいることにはアーサーはまるで無頓着だった。あたしは少しでも時間が稼げないかと樹根を逆戻りし始める。

 誰かひとりでも冷静だったら、警察を呼んでくれるかもしれない。

 だけどあたしはそれを口に出すことが出来なかった。警察にコールし始めた誰かはアーサーの標的になるだろうから。

 そうなったら残念だけど、あたしが駆けつけるよりも、このくそゴリラが勇気ある通報者の頭蓋骨を凹ませる方が絶対に速い。


「アリス」

 アーサーはあたしを追う。

「この雌犬」

「あんたのボスは、さぞかし頭が空っぽなのね」

 ふうふうと息を吐く度にアーサーの体は筋肉で風船みたいに膨れ上がるようだ。

 血管が蜘蛛の巣みたいに浮かんでるのが毛深くても分かるくらい。

「遅かれ早かれあんたがここで働いてる悪事はバレたでしょうに」

「それがどうしたアリス。どうしたって、言うんだ、アアアアアアアアアリイイイス!」

 怒号が樹海を揺るがせる。

「ホセを殺したのはあんた?」

「誰だよその野郎は。お前と寝たのか。寝てないのか」

「キバタン。ここでタクシーを運転してた」


 あたしは樹根の半ばまで後退する。

 アーサーが足早に近寄ってきた。

「昨日のことも忘れてんの?」

 ジャックに撃ち抜かれた拳を痛みなど感じないようにごきりと鳴らし、アーサーはドラミングする。

「殺したのかって聞いてんのよ!」

「フライドチキンにした」

 アーサーの、にちゃりと歪めた唇からよだれが垂れた。

「鳥ってなあ生きたまま油に浸けるとすげえ旨いんだぜ、知ってたかアリス」

 こいつだけは、あたしは刺し違えても殺してやると決めた。

 アーサーは拳を構え、ぐいと自分の方へ引き付ける。

 黒々とした毛並みが脈を打って震え、堕ちたケダモノの筋肉が全身を鎧う。

 その時、ふうっと風が吹いた。


 霧が身もだえし、その上から霧よりも白いものがふわりと舞い落ちる。

 場違いに優雅な純白。

 大小さまざまな鳥の羽。

 演出用に使われるはずの大量の羽がアーサーの頭上に降り注いでいる。

 混乱したアーサーは手を振り回してそれを払おうとした。

「ホセは復讐をするの」

 あたしは叫んだ。

「馬鹿にお似合いの王冠だわ。あなたがフライドチキンになりなさいよ!」


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