第一章 魔術師と猟犬②



「今日は、何かあるのか?」

 その日の晩。『夜の街ナイト』にやってきたオリビアは、周囲に視線を走らせながら尋ねる。

 エラと話し込んでいたアルフレッドが、ひよういろひとみを向けてきた。オリビアは、こしいた剣のこいぐちに指をけたまま、肩口にきんちようかんただよわせる。なんだか、今日の『夜の街ナイト』はそうぞうしい。いや、騒々しい、という表現はちがいかもしれない。この街はいつも賑やかなのだから。うるさい、というのも違う。

 たとえるなら、街自体が、どこか不安定にれていた。

 通りには人が一方向に向かって足早に歩き、時折けんそうに似た声が上がる。けんではない。きようせいでもなかった。どちらかといえば、「かんせい」に近い。

「『じゆつりようけん』が来てるのさ」

 二人とはみの街娼であるエラは、大きな胸の前で古びたショールをかきいだいた。

 彼女が動くと、白粉おしろいにおいがする。当初、オリビアはこの匂いが苦手でたまらなかったが、今では「白粉」のかおりをぐと、エラを思い出すほど身近になった。

「何それ」

 オリビアは目をまたたかせる。エラは煙草たばこかすれた声で笑った。

「おやおや。私より若い子達が知らないとはね。王都じゃ有名なじゆつ一座らしいよ」

 エラに言われてなお、オリビアにはぴんと来なかった。

「大道芸?」

 低い声でエラに尋ねる。エラは口紅のにじむくちびるゆがめ、かたすくめた。

「そんなもんじゃないのかね。私も実はよく知らないのさ」

「ふぅん。おもしろそう」

 そう声をらしたのはオリビアではなかった。アルフレッドだ。

「行かないよ!」

 反射的にオリビアはぶんぶんと首を振る。アルフレッドは不満そうに鼻を鳴らしてみせた。

「なんでよ」

 腕を組み、幼い子どものようにオリビアをにらみ付ける。「はぁ!?」。オリビアはそんな彼を逆に睨み上げた。不特定多数の人がいるところに行って、何かあったらどうするのだ。この男には、自分がルクトニア領主のちやくなんだという自覚が本当にあるんだろうか。オリビアは再度そのことをかくにんしようと口を開いたのだが。

「行ってきなよ、オリバー」

 エラが噴き出しながら言った。すると、目じりの辺りからほおにかけてしようかくした傷が現れる。エラと出会うきっかけになったその傷は、オリビアののうにあの日の出来事を呼び覚ました。


 彼女の頰に、傷が刻まれたあの晩。

 それは、今日の夜のような、げんの月がかがやく晩だった。

 その傷をつけたのは、彼女のこいびとだ。

 たまたま『夜の街ナイト』を歩いていた二人は、女性の悲鳴と泣き声が聞こえ、路地裏に飛び込んだのだ。

 視界に入ってきたのは、女性に馬乗りになって、ナイフをりかざす男の姿だ。女性は顔をおおって泣いている。その指が、頰が、うすやみの中でもわかるほど、赤い。

 られたのだ、斬りつけられているのだ。理解したしゆんかん、オリビアはばつとうして男に向かった。

 いかりに任せてけ出したオリビアだが、その勢いと彼女が身に着けている衣服から『騎士』だと気づいた男は、舌打ちしながら女性からはなれた。

『自警団を呼ぶわよ!』

 アルフレッドがんだファルセットでると、男はあっさりとげ出す。追おうとしたオリビアの長靴ブーツにとりすがって止めたのは、まみれになった女性だった。

『やめて。あいつがもどって来たとき、もっとひどいことされる』

 女性はえつを漏らしながら、首を横に振った。『つかまえないで。追わないで』と。

 がくぜんとして動けないオリビアに代わり、アルフレッドは女性に近づいた。頰の傷をハンカチでぬぐってやりながら事情をく。その女性は、「エラ」と名乗った。

 あの男は情夫であること。逃げても逃げても、彼女がかせぐ金目当てに追ってくること。今晩は客がつかず、渡す金がないと説明したが信じてもらえず、ナイフで顔を斬られた、ということ。

 オリビアにとっては何もかもが信じられず、考えられず、思いもしなかったことだ。

 自分の父親であるウィリアムが、妻であり恋人でもあるシャーロットに暴力を振るうなど、想像すらできない。

 そして、アルフレッドの両親であるユリウスとアレクシアも仲がいい。オリビアの周囲には、「恋人に暴力をふるう男」など存在しなかった。

 だが、『夜の街ナイト』は違う。そんな男も、そんな男にさくしゆされ泣いて暮らす女もいるのだ、とオリビアは初めて知ったのだ。


「その奇術師達はどこでやってるの? 今から行っても間に合うかな」

 アルフレッドはいてもたってもいられない、と言わんばかりにあしみをり返し、場所をたずねている。エラはその様子に笑いながらも、やさしくていねいにブロックを教えていた。

 ───……元気になってよかった。

 アルフレッドに説明をしているエラを見、オリビアは思う。

 結局、アルフレッドは自警団にエラの情夫の情報を渡した。自警団は情夫を捕まえ、そして『夜の街ナイト』からはいじよしてくれた。二度とこの街に入って来られないように、それなりのあたえて。

 エラは今後、あの情夫に追い回されることはない。上前をねられることもない。

 この、『夜の街ナイト』にいる限り。

 そう。裏を返せばエラは、結局『夜の街ナイト』にしかいられなくなったのだ。

 自分達がしたことが。していることが、正しいことなのかはわからない。いつもこれで良かったのか、とオリビアは自問している。もちろんそれは、アルフレッドもだ。

 アルフレッドは、だれよりも先に、傷ついた人を見つける。弱い人の手を取る。そして、正解などない問題に、必死に「答え」を出す。オリビアにはできない決断を、勇気と責任において、下す。だからだろうか、アルフレッドが『夜の街ナイト』に出て行くのを、完全に止められないのは。

 アルフレッドは自分の力と知識だけで弱者を守ろうと必死だ。『夜の街ナイト』に、彼のかたきは存在しない。しゆくうけんで弱者のためにく。

 そんなアルフレッドを見ていると、『じゃあ、私には何ができるのだろう』、そんな問いが、いつも心にかぶ。

 そして、ひとつの答えを出した。自分は、アルフレッドを守ろう。『夜の街ナイト』で活動をする彼に危害が及ばぬよう、このうでけんで守ろう、と。

 それは、父であるウィリアムも、ユリウスに対して日々感じていることなのではないだろうか。

 ユリウスが王位にいて善政をいたときも、退位し、ルクトニア領に移ってきたときも、ウィリアムは決してユリウスのそばを離れなかった。かげのように従い、ひようひようと側にいた。前王ということで命をねらわれることも多い彼を、常に守った。

 きっと、今、自分がアルフレッドに感じているような。そんな思いにき動かされているからではないだろうか。ユリウスを守ることが、国を守ることだ。そんな確信が父にはあるのだろう。オリビアは最近、そう思うのだ。

「……に行く?」

 仕方なく、アルフレッドにそう申し出た。たんに目を輝かせ、しゆこうする彼に、ため息をいた。自分より年上だというのに、本当に手がかかる弟のようだ。オリビアは彼に向かってひじを差し出す。自然なりでアルフレッドは腕を絡ませてきた。

「楽しんできて」

 オリビアとアルフレッドに、エラが声をかけてくる。たがいに首だけじって振り返り、「良い夜を」と返した。エラは満足そうにうなずくと、ショールをき合わせながら、ざつとうの中を歩き出す。

 オリビアはしばらくそんな彼女をながめていたが、アルフレッドにうながされ、歩き出した。


 アルフレッドに腕を取られたまま、いしだたみの上に足を振り出す。がちゃり、とかかとはくしやが鳴った。すぐとなりではヒールが地面をる、かつり、という音がひびく。

「二ブロック先らしい」

 拍車が鳴る音に交じり、不意に低い声が耳元で聞こえた。オリビアははずみで顔を上げ、声の主を見る。丁度自分の目元辺りにあごがあった。のないりんかくに、歩みと共にれるじやくせきみみかざり。さっき、エラには「トンボ石よ」と言っていたが、そんなわけはない。はくらいの品だ。

「なに」

 まじまじと見過ぎたせいだろう。アルフレッドが不思議そうに目をまたたかせた。

「いや。地声だ、と思って」

 ありのままをオリビアが言うと、はん、と鹿にしたように笑う。

「お前と二人なのに、なんで裏声なんだよ」

 低い声で言い放たれ、言うんじゃなかった、と目線をらす。アルフレッドの声によくようはなく、質量を持つように重い。オリビアは息を吐いた。今夜の空もまた、いぶされたようにくもっている。ちらちら瞬くのはこうせいだけだ。

「知らねぇんだよな」

 ささやくような声がみみたぶれた。オリビアは空に上げたひとみを隣に移動させる。

 同時に、どきりと息をんだ。それぐらい、アルフレッドの顔が近い。

 多分、地声でしやべっているからだろう。周囲に声が及ばぬようこしかがめ、オリビアの耳に口を寄せている。ふわりとただようのは、アルフレッドがいつも好んで付けているこうすいだ。甘く、ももに似たかおりが鼻先をくすぐり、同時にオリビアの視界に入るのは、男性的なまゆと強い視線。

 どきり、と。また心臓が強く脈打つ。

 反射的に背をのけぞらせようとするのに、組まれた腕がそれをはばむ。その腕の力にもオリビアはまどった。不意に思い出したのは、午前中の試合のことだ。

 ───力が、強くなってる……。

 ほんの数年前までは、オリビアの方が強かったのに。

 それは、誰もが知ることだ。だからこそ、オリビアは女子でありながら、アルフレッドのじゆうとして、護衛として側近くにひかえていたのだ。

『さすがウィリアムきようのご息女』『ユリウス閣下にはウィリアム卿。アルフレッド殿でんにはオリビアじよう』。そう言われて、ほこらしかった。うれしかった。

 自分も、父のようになれる。本気でそう信じていた。

 だが。

 その自分は今、アルフレッドの護衛騎士から外されようとしている。

「……なに」

 ひよういろの瞳がオリビアをぎようする。低く問われ、オリビアはあわてて首を横に振る。かみの毛は頭の後ろで団子にして留めているから、揺れることはない。

「なんにも」

 そう答え、胸からのどにわだかまる気持ちを押しつぶす。『いつか、アルの隣にいられなくなるかも』。せり上がる弱気な気持ちを、ぐい、と飲み込んだ。

「知らない、って何を?」

 オリビアもの声でアルフレッドに尋ねる。不覚にも彼にどうようしたのがくやしくて、オリビアはわざとアルフレッドに顔を近づける。彼の鼻にくちびるが触れそうなきよに、今度はアルフレッドの方が目を泳がせた。

「いや、だからさ」

 ごほり、とせきばらいをひとつすると、アルフレッドは背をばして顎で前を指した。

「『じゆつりようけん』ってじゆつを、さ」

 オリビアは首をかしげた。さっきエラが言っていたではないか。『王都で有名なのだ』と。

「王都で流行はやってたんじゃないの?」

 今年もアルフレッドはユリウスに付いて王都に行ったはずだ。そのとき、耳にしなかったのだろうか。

「少なくとも、おれは知らん」

 アルフレッドは首を小さく横にった。「ふぅん」。オリビアはあいまいに返事をする。では、はくをつけるためにそんなことを言いだしたのかもしれない。大道芸をするものや商人がよく使う手口だ。別にめずらしいわけでもない。

『母国では知らぬものなし』『他領ではすでにばくはつてき人気』

 海港都市であるルクトニア領では、そんな触れ込みはいて捨てるほど出回っている。

「アルは奇術師って見たことある?」

 オリビアはアルフレッドと歩調を合わせながらたずねる。家格や身分などを考え合わせれば、オリビアは本来アルフレッドのことを『殿下』と呼ばねばならないことはわかっているのだが、幼いころからいつしよに育ったせいか、どうしても気安くそう声をかけてしまう。また、周囲もそれを許すふんがあった。あの二人は、仕方あるまい。そんな風にどこか微笑ほほえましく接するせいか、オリビアはアルフレッドを『殿下』などと呼んだことはついぞない。

「手品師とどうちがうんだろ」

 オリビアが小首を傾げると、「それな」とい気味に応じられる。

「奇術と手品って何が違うんだよ。あわせて言えば、大道芸はどうなんだ」

 鼻息あらくアルフレッドが言う。オリビアも頷きながらアルフレッドに尋ねた。

「剣とか飲んだりするのかな」「つぼからへびが出るのかもよ」

 二人とも争うように「自分が思う奇術」を口にしながら、エラが教えてくれた場所に向かう。

 エラは「二ブロック先」と言ったが、すでに一ブロック過ぎた辺りから、大勢のかんせいぜるような音、軽快なアコーディオンのせんりつやみふるわせていた。

 思わず二人は顔を見合わせる。楽しそうだ。あれだけ行きしぶっていたオリビアの顔もはなやいでいる。どんなことが行われているのだろう。足を速めた二人の耳が次に拾った音は。

 大きな爆発音だった。

「……え?」

 アルフレッドが声をらす。とつにオリビアはアルフレッドのうでつかんで自分の背後に回した。なんだ、何が起こった。

 オリビアは公演を行っているという広場に通じる街路へ、しんちように顔をのぞかせる。

 途端に上がったのはごうと悲鳴だった。反射的に腰のけんに手をやる。事故か。暴動か。頭にかんだのはそんな内容だった。

 ───何が、起こってる……?

 オリビアは慎重に一歩み出す。

 そしてすぐに足を止め、息を吞んだ。

 群衆が、一気にこちらへなだれ込んできたからだ。

 多分、公演をていた客達なのだろう。オリビアのななめ後ろにある、放射状に広がる道を目指し、いつせいに移動し始めている。あ、と思ったすきにどん、と群衆にかたを押され、よろめいた。まずい、と感じたしゆんかんには、別の男に腕をはじかれる。しまった、と思ったときには、後ろ向きに蹈鞴たたらを踏んでいた。

 完全に体勢をくずし、地面にしりもちをつく寸前で。

 ねじられるように背後から腕が引かれる。

 痛みに顔をゆがませ、だけど咄嗟に足を踏ん張った。てんとうける。そのオリビアの腰をだれかの腕がしっかりととらえた。

 ふわりと甘い香水がよぎる。せつ

 背中に軽いしようげきがあり、次に顔や胸にあつぱくかんを覚えた。

だいじようか」

 予想外に間近から声が降ってきておどろく。

「……いて……ぇなあ、おい」

 げんな低い声。ふわりと耳朶に触れる呼気。オリビアは息をみ、顎を上げる。

 それだけの動きに、空気が揺れ、かおりがう。

 甘い。桃に似た香り。

「……アル」

 声が震えた。「おう」。ぶっきらぼうな声が左耳のそばで聞こえ、首をすくめた。身じろぎしようとするが、アルフレッドの腕と腕の間に囲われ、動けない。おまけに背後はかべだ。知らずに後退しようとしたのか、はくしやが無様にがちりと音を立て、オリビアはひざを曲げて居すくんだ。伸び上がろうとしたら、アルフレッドと顔がぶつかりそうだ。

 不意に、ぎゅっとアルフレッドがさらに間合いをめてくる。くなる香り。ふっ、と彼が漏らす呼気に、心臓が爆音を立てる。

「ってぇなあ! おいっ」

 アルフレッドが背後に向かって、うなり声を上げる。ようやくオリビアは我に返った。

 あれだ。自分が群衆に押されてたおれそうになったから、咄嗟にアルフレッドが自分をかべぎわに引き寄せてくれたのだ。そして、現在も、移動する人の波から自分を囲ってくれているらしい。

「待って、待って! 大丈夫だから、私」

 オリビアは慌てて姿勢をただそうとしたが、膝を伸ばせばアルフレッドと顔がくっつくし、縮めれば護衛としての役目はほぼかいだし、どうしたもんかと戸惑った末に。

「ぐへっ」

 頭頂部でアルフレッドの胸にきをした。一体何を詰めているのか、オリビアより大きな胸にぼすり、といちげきらわせたのだが、予想外の衝撃をあたえたらしい。アルフレッドがうめいて背を反らす。その隙に、彼の腕の間からすりけた。

人とか……」

 出てないかな、とオリビアが周囲を窺った側では、アルフレッドが胸を押さえてむせていた。

 次の瞬間、再び軽快な音楽が鳴り始めた。

 ひようの速い旋律に、打楽器の軽快な音が続く。警笛に似た笛が鳴り、どこからか綿わたに似た甘いにおいまでただよい始める。

 ぴたり、と。群衆が足を止めた。オリビアもそうだ。今度はなんだと周囲を見回す。

「さぁさぁ、まだまだ!」

 朗々とした男の声が広場の方から聞こえてくる。ガツガツとかかとで拍子を刻み、手拍子を取るような音がそれに重なった。たんに、ヴァイオリンがかんだかく夜闇をった。けんばん楽器がかなでる楽曲は、この辺りでもよく聞くじよじよう詩の一節だ。

「……まだ、やってるのか?」

「なんだ、さっきのは事故じゃなかったのか」

 オリビアの周囲の男達がそう言うと、苦笑いを浮かべながらまた広場にもどっていく。それに続くのはげ出した観衆だ。口々に、「さっきは驚いたな」や「火薬が爆発したのかと思った」と、数分前のきようこううそのように、笑いながら戻り始める。

 誰かが指笛を鳴らすと、はくしゆが続いた。まばらだった拍手はいつの間にかうずになり、そして、たいからはなれていた観衆は、じよじよにまた、距離を詰め始める。

「……落ち、ついた……?」

 だいおだやかになる雰囲気に、オリビアもゆっくりときんちようかんを解く。

「よか……。痛っ!」

 よかったね、アル。そう言おうとしたのに、ぱちり、と頭をたたかれ、オリビアはほおふくらませた。

「何すんのよっ」

「それはこっちの台詞せりふだろうがっ」

 頭をでていたら、りようごしに手を当てたアルフレッドにられた。

ぇ、人に頭突きしやがって!」

「アルが離れてくれなかったからじゃないっ」

「離れて、って言えばよかったろうよっ」

「言った!」

「言ってねぇ!」

 その後も、「言った」「言わない」の不毛な会話を数十回ほどり返したときだった。

「そこのレディと殿どの

 二人の会話に割って入る、低い声があった。

 背中に氷水でも流されたように二人は背筋をばし、反射的に顔を向ける。

 まずい。咄嗟に無表情で顔をかくす。二人とも無防備に話しすぎた。いや、怒鳴り合いすぎた。

 ───聞かれた……っ?

 オリビアはぎゅっとくちびるを引き結ぶ。だが。

「いやいやいや、ご無事で何よりでした」

 目の前に立っていたかた眼鏡めがねの男は、口早にそう言い、うやうやしく一礼をする。ちようめんなほどのれいただしさでアルフレッドの手を取り、そのこうに軽くキスを落とした。

「レディ。何事もなく、心よりあんしております」

 するりと背を伸ばして目をせた男は、アルフレッドと同じぐらいの背の高さだ。

 黒いシャツに黒い上着、かわの乗馬用長靴ブーツいており、ピンホールに白いバラをしていた。この辺りでは見ない品種で、かなりの多弁だ。

「お怪我は? 大丈夫ですか?」

 のぞき込むように男がたずねる。「いえ」。短く、れいなファルセットでアルフレッドが応じる。ぎゅっと、ひよういろひとみで見返すと、うすい唇にみを乗せて今度はオリビアを見た。

「おそばの騎士殿はいかがです」

 オリビアは小さくうなずく。

「よかった。あちらで見ていたら、人がさつとうしたものですから」

 男は公演会場の方を指さし、つつましげに笑う。「あやうく、つぶされるかと」。男はそう続け、さらに口を開いたが。

殿でんは?」

 オリビアは会話をち、切り返した。

「これは」

 男は、ぱん、と上着のすそはらい、再度いんぎんに礼をした。

「『じゆつりようけん』のノア・ガーランドと申します。以後、お見知りおきを」

 ノアと名乗った男は、人好きのする笑みをかべる。

「先ほどは、うちのじゆつ達が術で観衆を驚かせすぎました。結果、あのように逃げまどってしまいまして……」

 ノアはちよう気味に笑った。

「まだまだ未熟でおずかしい限りです。大変ごめいわくをおかけしました」

 そうめた後、「で?」とオリビアに向かって首をかしげてみせた。

「は?」

 思わずオリビアもけんしわを寄せて、ノアをにらみ付ける。

「ぼくに名前を尋ねた騎士殿のお名前をちようだいしたいな」

 甘い笑顔で尋ねられ、めんらう。思わず一歩下がったところで、ぐい、とアルフレッドにひじつかまれた。そこでようやく我に返り、オリビアはせきばらいをする。

「オリバーだ。騎士位を持っている」

 わざわざ言わなくて良いことまで口にしたのは、きよせいを張ったからだろう。

「そう。やっぱり騎士殿か」

 返すノアの言葉にオリビアは戸惑う。なんというか、目つきやことづかいがやけにやさしいのだ。

 この『夜の街ナイト』で、オリビアにこんな風に話しかける男はいない。かたあらい声をぶつけられたり、を飛ばされたりすることはあっても、オリビアにこんなまなしを向けたり、優し気に声をかけたりする男はいなかった。

 ───……育ちの、いい男なのかな。

 オリビアはしんがられない程度に視線を送るが、服も小物も、あのバラを除けばきゆう品だ。取り立てておどろくような物ではない。衣服にもんしようが入っている様子もない。

「レディ」

 ノアは灰緑色の瞳をアルフレッドに向ける。

「お名前を伺うえいをぼくにあたえてくださいますか?」

 目を伏せ、わずかに頭を下げるノアに、アルフレッドは生来のおうへいさで「ふん」とひとつ鼻を鳴らした。

「アリーよ」

 短く答えると、「ああ」と彼は声を上げた。

「あなた方が『しつこくのオリバー』と、『きんぱつのアリー』でしたか。うわさは、この『夜の街ナイト』でかねがね」

 目を細めてノアは笑みを深めた。

「子ども達に文字を教え、がいしようを暴力から守り、こんきゆうした人間にを与えているそうではないですか」

 アルフレッドは興味なげにななめにあごを上げた。ノアはそんな彼を灰緑色の瞳でとらえる。

「『夜の街ナイト』の住民達はみな、あなた方をこう呼ぶ。『この街の光だ』と」

 アルフレッドはしばらく無言でノアをぎようしたが、彼の背後に見える公演会場に視線を転じた。

「これ、自警団や衛兵の許可を得てかいさいしているの? 安全性はだいじよう?」

 ぶっきらぼうに尋ねると、ノアは「許可証は出ていますよ」とにこりと笑った。

 その笑みに、オリビアは首を傾げる。

 さっき自分に見せたような笑みと、どうも種類がちがう。この笑みなら、オリビアは知っている。社交的な笑みだ。相手とうまきよを取り、そして下手に出て様子をうかがう戦略的な笑み。

「事故は起こさないで頂戴よ」

 アリーの言葉に、ノアは慎ましく頷いた。そのやりとりを見て、オリビアは少し気の毒に思えてくる。確かにさっきは危険な場面ではあったが、一方的にノアは言われっぱなしだ。アルフレッドが次の言葉をく前に、オリビアは言葉を差しはさんだ。

「ノアも奇術師なのか?」

 低くそう尋ねる。「ぼく?」。ノアは真正面からオリビアを見、薄い唇を三日月にかたどる。

「そうだよ。興味ある?」

 おだやかな声に、またオリビアはひるみそうになる。どうして自分は彼のこの声や瞳に、距離を置きたいと思うのだろう。オリビアはわざと胸を張り、必要以上に男らしくった。

「興味は、ある」

「どんなことに?」

 ノアはくすりと微笑ほほえんだ。多分、年はアルフレッドより上だろう。二十代半ば。そんなゆうさえ感じられる表情だった。あなどられている。オリビアはそう感じた。

 その態度がオリビアの気持ちを立て直す。負けん気が首をもたげて彼女の瞳を光らせた。そこに「こうしん」も加わる。オリビアは身を乗り出すようにして尋ねた。

「奇術師とは、どのようなわざを行うのだ」

 オリビアはおどけて「ごくの火でもしようかんするのか」と続ける。ノアはかいそうに笑った後、長いうでを組んだ。

「そうだな。ご迷惑をかけたおびに、ひとつご覧に入れよう」

 言うなり、ノアはするり、と腕を解く。無造作にぐい、とそでを引き上げた。男にしてはしなやかで、だけど無骨な手首が見える。

「ほら」

 いきなり二人の目の前にみぎてのひらを開き、き出してみせた。オリビアもアルフレッドも反射的に背を反らす。

 くすり、と笑い声がする。ノアの灰緑色の瞳が悪戯いたずらっぽい光を宿らせていて、むっとアルフレッドがほおこわばらせたときだ。

 ノアはその手をにぎり込み、ぐるりぐるりと回してみせた。戸惑うアルフレッドとオリビアの目の前で再び手を開いたしゆんかん

「うわっ」「にゃあっ」

 二人は同時に悲鳴を上げる。

 ノアの右掌から、とつじよほのおが上がったのだ。

まつげげてない!?」「鼻、やばいっ」

 たがいに顔を見合わせてり合う。かろうじてファルセットと男声を保っているが、きようこう一歩手前なのはその瞳を見ればわかる。

「「大丈夫」」

 アルフレッドはオリビアの睫が焦げていないことに頷き、オリビアはアルフレッドの鼻がついていることをかくにんした。

 そんな二人はすぐにけいみような笑い声に気づいて、苦い顔を声の主に向ける。

「失礼、失礼」

 ノアは口元を軽く握ったこぶしかくしながら、くつくつと笑い続けていた。

「あんまり、可愛かわいらしいものだから」

 視線を向けられ、オリビアはそう言われる。流石さすがに腹が立つ。自分は騎士だ。可愛いと言われてうれしいことなどない。

「無礼者」

 短く切って捨てると、「失礼、殿どの」。ノアはなおにそう詫びる。

「タネはこれだよ」

 さらに何か言おうとした二人に対し、ノアは自分の右掌を開いてみせた。

 そこにあるのは、一つまみの綿だ。

「……綿?」

 アルフレッドがいぶかしげにたずねる。「これが燃えたの?」と。

「綿って、結構燃えにくいよ」

 ぼそり、とオリビアが言う。火種を包むときに使うことがあるが、さっき見たように燃え上がることはない。どちらかというと、火が「こもる」のだ。

「これは、しよう綿めんと言います、レディ」

 ノアはれいただしくアルフレッドに告げた。

のうりゆうさんのうしようさんを混酸の状態にし、そこに綿をひたします。その後、大量の水で洗い流し、自然かんそうさせますと、綿はニトロ化します」

 ノアはひとみをオリビアに転じる。

「この硝化綿に熱を近づけると、すすも残らず一気に燃え上がるのだよ」

「……でも、今は燃えてない」

 オリビアはおそるおそる、ノアの掌にる硝化綿を指さす。

「今は火とせつしよくしてないからね」

 ノアは笑った。

「さっき、お二人の興味を右手にき付けている間に、ここから火種を出してほうり込んだんだ」

 そう言って、上着のすそたたいてみせる。くるりとうらを向けると、鉄製のピルケースが見えた。ノアの説明が本当なのであれば、そこからばやく火種をつまみ出し、放り込んだ、ということか。

「公演でもこのようなことをしたのか?」

 オリビアは首をかしげて尋ねた。ノアはしようし、かた眼鏡めがねを軽く右目に押し込んだ。

「もう少しおおかりなことを。結果、観衆を驚かせてしまったよ」

「例えば?」

 アルフレッドがたんてきに尋ねる。ノアはかたすくめてみせた。

「過酸化水素水の分解による化学反応を使ったもの、などでしょうか」

「……なんだって?」

 オリビアがまゆを寄せてノアに顔を近づける。ノアは笑って言葉を続けた。

「過酸化水素水に石けん水を混ぜるんだ。その後、ヨウ化カリウムを混ぜると、分解反応が起こって、勢いよくあわが空に向かってき出す。『象のはみがき粉』というやつだね」

「………ふーん、なるほど………」

 オリビアはうなずくが、いまいち理解していないのはだれの目にも明らかだ。ノアはくつくつと笑いながら、自分の顎をつまんで腕を組む。

「単純なものなら、口からアルコールを噴いて火をつけたりとか……」

「皆がげたきっかけになったのは?」

 アルフレッドの質問に、ノアは口をへの字に曲げてみせた。

「マグネシウムをねんしようさせてみせたのですよ。一気にせんこうを出すのですが、そのとき、楽士が別の音を鳴らしたもので、ばくはつかんちがいさせてしまって……」

 へぇ、とオリビアは素直にかんたんの声をらす。世の中、自分の知らないことがまだまだあるものだ。

「ルクトニアは海港都市だから。他領よりもめずらしい物は多い……。だが、殿でん等の技は見たことも聞いたこともない」

 アルフレッドがファルセットの声を放つ。オリビアはふと彼を見上げた。

 同時に、ぴくり、と、背筋を強ばらせる。

 それほどアルフレッドはれいてつな、冷静な、厳格な目でノアを見ていた。いやけいかいをしていた。

「もちろん、王都でもあんた達のうわさを耳にしたことはないわね」

「おや、そうですか。なるほど。ぼく達も、まだまだだ」

 ノアはアルフレッドの視線をかわすように肩をすらせた。

「しかし、この海港都市のはんえいぶりは見事ですね、レディ。様々なものが流通している」

 ノアは穏やかに笑う。

「そうだろう」

 何故なぜか、ふん、と胸を張ったのはオリビアだった。両手をこしに当て、ふんぞり返ってノアを見やる。

「なにしろ、前王ユリウス様が治める領だ。他領とは格が違う」

 あごをつんと上げてまんするオリビアを、アルフレッドはあきれたように横目で見るが、特に何を言うでもない。ましてはいるが、彼もおおむね同意見なのだろう。

「まったくだ。ぼくのようなよそ者でも、そのことは重々わかるよ」

 ノアは目を細め、オリビアに視線を合わせて腰を折る。同意されたことに気をよくしたオリビアは、さらに何か言いつのろうと口を開くが、ノアの方が先に言葉を発した。

「まさに、王都をしのぐ」

 とん、と。ノアの言葉は、オリビアの心に確かなざわりを残して、らした。

 オリビアは改めて目前の青年にそうぼうを向ける。ゆるやかなみをかべ、ノアは視線をらさない。じっとオリビアを見つめている。

「ぼくが子どものころなんて、ルクトニアと言えば、ただの風光めいひなびた海街だった。それが、ここ数年の目覚ましい発展はどうだ。港は整備され、海路のみならず、陸路は国内の様々な場所に張りめぐらされている」

 ノアは曲げていた腰をばし、大きくりよううでを広げてみせた。

「モノはあふれ、人が行きい、カネが行き来する。たった十数年で、この変化。劇的だ」

 ふわり、と笑った。首を傾げ、静かに。

「領主がわっただけで、こうも違うものか、と。みな息をんだことだろう。領民も。そして、王都の人間も」

 ノアはくすり、と声を立てて短く笑った。

「前王はらしい方だ。ならば、そのご子息もやはりたぐまれな資質をお持ちなのかい?」

 ただただ、落ち着いた低音でオリビアに尋ねる。だが、オリビアは口を引きしぼってだまっていた。それは、アルフレッドも同じだ。

 警戒音が、鳴る。

 頭の奥底で、危機を知らせる何かがめいめつしていた。この男は、何か違う、と。変だ、と。

 けんのんな二人の視線の先で、だが、ノアはのんびりと、「そういえば」と声を上げた。指を伸ばし、アルフレッドのみみかざりにれる。

「このようなおおりのじやくせき、王都でも見かけたことはございませんね」

「……ガラス玉よ」

 アルフレッドは首をねじってノアの手をける。ノアもわきまえているのか、それ以上に触れようとはしなかったが、静かな瞳はアルフレッドに向けたままだ。

「ガラス玉、ですか。なるほど」

 そう言い、目を細める。

「言われてみれば、これほどの孔雀石。本物であれば、こうにゆう者も所持者も限られますな。外国であればおうこう貴族が持っていそうな品物だ。であれば、この国ではどなたが持つのでしょう」

 ノアは、首を傾げてみせた。

「国王か……。この領でしたら、ユリウス閣下でしょうか。それとも、そのご子息か?」

 親し気に話しかけるが、アルフレッドはえとした瞳を彼に向けたまま無言だ。ノアは気分を害した風でもなく、いくか頷くと、「ところでレディ」。そう呼びかけた。

「ルクトニアは海港都市。レディも外国語にたんのうなんでしょうか?」

 アルフレッドは口を引き結んだまま、相変わらず、だんまりだ。まどったようにオリビアが視線をせわしなく動かす。ふと、ノアと目が合った。にこり、と微笑ほほえまれる。

可愛かわい殿どのは、いかがかな?」

「帰ろう、オリバー」

 オリビアが何か言う前に、アルフレッドは短く告げる。その声にはを言わせぬ強さがあった。オリビアがしゆんじゆんしつつも、うなずくのを見るやいなや、アルフレッドはかつり、とこうしつな音を立てて歩き出す。オリビアもそれにならい、小走りに歩き出した。「良い夜を」。ノアの声が背後から追ってくる。ちらりとり返ったが、彼の姿はもう見えなかった。


「……待って、アル」

 路地を曲がったところで、オリビアは先を歩くアルフレッドの手首をつかむ。

「あいつ、変だ」

 足を止めたアルフレッドは、手首を摑まれたまま振り返り、口早にそう言った。ひよういろの瞳に、警戒の色がにじんでいる。

「……確かに。言葉のはしばしにこう……。なんかあるよね。つうじゆつじゃないっていうか」

 戸惑ったオリビアはそう言うが、「普通の奇術師ってなんだよ」とそくに言い返された。

「じゃあ、アルは具体的にどう思うわけよ」

 むっとした顔でオリビアは言い放つ。たんにアルフレッドがするどい視線を向けてきた。

「こっちをさぐっているような感じじゃなかったか?」

「こっち……。うーん……」

 首をかしげて思い返してみる。「こっち」というより、ユリウスに対して何か思うところがある、というように思えた。

「まぁ……。そう、かな」

 ぼそり、とオリビアがつぶやくと、「だろ!?」とアルフレッドが勢い込む。

「おまけにあいつ、絶対おれとお前の性別のこと、気付いてるって!」

 オリビアは「えぇぇ?」とかいの声を漏らした。それはどうだろう。

「だって、お前を女としてあつかってたじゃん」

 アルフレッドにそうてきされ、「ああ」と声を上げる。そうだ。ノアが自分に示したあの「やさしさ」は、「女性」に対するものだったのだ、と気づいた。

 そして同時に、ノアがアルフレッドに向けたのは、明らかに「高位の人間」への対応だった。

 自分達は「アリー」であり、「オリバー」だと名乗った。オリビアに関しては「だ」と地位を明確にしたが、アリーについては何も言っていない。服装やかみがただけで判断するのであれば、本来平民か商人で通るはずだ。あるいは、アルフレッドの装身具を見て「高貴な身分」かもしれない、と気づいたとしても、最上級のれいでもって接するだろうか、とは確かに思う。

「あいつ、おれ達に近づいたのはぐうぜんだと思うか?」

「……どういうことよ」

 アルフレッドの低い声に、オリビアは目を見開いた。偶然以外に何がある、というのだ。

「なんか、気になるんだよな……」

 湖氷色のひとみを大通りの方に向け、アルフレッドは呟いた。そこにはもう、ノアの姿はない。

 オリビアはそのたんせいな横顔を眺めながら、自分自身が感じたノアに対するけいかいしんについて思い起こしてみる。何がひっかかり、何が危険だと思ったのか。それが重要だ。そこをり下げ、明確にした結果、『危機』がアルフレッドにおよぶようなら、その手前でなんとしても自分が守らなければならない。

 そう決意した矢先、アルフレッドの双眸が自分に向けられた。

「……なに」

 ノアに感じた『危機意識』とはまた別の『いやな予感』に、オリビアのほおがひきつる。

「明日、もう一度『夜の街ここ』に来よう。あいつらを調べるぞ」

 案の定、そんなことを言い出す。

「はああああああ!?」

 オリビアはていこうの声を上げ、「いやだ」、「このところ来すぎ」、「絶対来ないからね」と言いつのったものの。

 彼の決断がくつがえることはなかった。

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【書籍ver】ルクトニア領繚乱記 猫かぶり殿下は護衛の少女を溺愛中 さくら青嵐/角川ビーンズ文庫 @beans

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