△9二 挑戦

 菓子パンを鞄から取り出して、それ以降はなるべく将棋や誘拐事件とは無関係の話をしながら胃を満たした。

 やはり、黒木さんの副部長就任は例の落し物事件が原因だったようだ。部費の不正使用を明るみにしない代わりに彼女が副部長の地位に就いたことで、好きな器具が買えると喜んでいた。結局、私的流用が別の私的流用に塗りつぶされた形なのではないかという気もするが、賄賂として珈琲を二杯飲まされたのでこの点に関してはノータッチだ。僕の正義感なんてその程度のものである。


 5時限目以降の授業は普通に受けた。気負い過ぎも良くない。自然体でいなければ、暴発して指し過ぎてしまいそうだ。緊張がないと言えば嘘になるが、それでもなるべく意識しないように努めた。幸い授業は平常通りだ。来週に待ち構えている中間テストの出題候補に蛍光マーカで線を引いていくと、結局マーカされた箇所が半分以上を占めてしまい溜め息が漏れた。


 授業からの解放を告げるチャイムが鳴ると、心臓の脈打つ速度があがった。大丈夫だ、今の僕ならいける。自分を鼓舞しつつ、平静を装いながら机の上を片付けた。クラスメイトの大半は、まだ友達と喋っている。自主練や用事のある生徒は我先にと教室を飛び出し、誰からともなく人が減っていく。少しずつ教室の喧騒が萎んでいく緩やかな時間が僕は嫌いではない。


 教室を出て、2階へ上った。運動系の部活に向かう生徒たちとすれ違いながら、図書館へ続く真っ直ぐな廊下を一歩ずつ前へ進む。昨日まで居座っていた雨雲は姿を消し、窓ガラスから伸びた日差しが足に影を作った。


 部室の前に立つ。一度深呼吸してから扉を開けた。


「よぉ、待ちくたびれたぜ」

「高槻さんが早いんですよ」


 旧校舎から新校舎は直接繋がっていない。僕も徒歩で来たとはいえ、授業後すぐに教室を出ているというのに、どうして高槻さんの方が先に到着しているのか理解に苦しむ。


「随分余裕じゃないか。神頼みでもしてきたか」

「祈る暇があったら三手詰めの一つでも解きますよ」


 今更、祈る神様はいない。神の一手を指さんとする者は、自らが神にならんとする者だ。


「あ、そうだ。高槻部長に、部員として報告しないといけない事があったんです」

「なんだよ」

「そこの棚にあった将棋部の公式戦の棋譜ファイルが何者かに持ち去られたみたいなんですよ。何のためかはさっぱり分かりませんが」


 我ながら白々しい口調で伝えると、高槻さんは眉を掻いた。


「そうか。まぁ犯人も悪気があったわけじゃないだろ。どうしても棋譜を眺めてみたかったに違いない。もしかすると、この対局が終わった後にでも誰かが返しに来るかもしれない」


 高槻さんは飄々と嘯いた。嘘が下手だなこの人。僕は苦々しい顔をしてみせたが、本人は気にする素振りもなく、駒箱を逆さにして駒を盤上に置いた。将棋駒の山が出来たが、これから行われるのは将棋崩しではない。


 考えてみれば、特定は簡単だった。ハンナさんが撮影した棋譜の存在を僕たちが知ったのは先週の金曜日。棋譜の存在に僕たちが辿り着いたと高槻さんが知ったのは翌日の土曜、バルトシュさんが知ったのは翌週月曜の昼休みも終わりかけだ。

 そして、月曜日に黒木さんが高槻さんに挑んだ直後の部室から棋譜ファイルは消えていたのだ。ファイルを持ち出す動機がある二人のうち、バルトシュさんにはファイルを隠すだけの時間がない。月曜日の朝か昼休み中に高槻さんが部室から棋譜ファイルを持ち出したのだろう。


「棋譜ファイルを持ち出したのは、高槻さんにしては悪手でしたね。事情を知っている人物だけが過剰反応をするんですよ。纐纈先生と同じで」

「ふん、何かに気付いたところで無駄だ。ここでお前が負ければ、もう口出しはされないんだからな」

「誘拐事件の時は、結構バルトシュさんとも喋ってたじゃないですか。いい加減、意地張るの止めたらどうです?」

「そういうのは二年の連中から聞き飽きてんだよ」


 問答を遮るようにパチンと王将が置かれた。僕も玉将を探して自陣に置く。左金から順に、右金、左銀、右銀と左右に広がるように配置していく。高槻さんは桂馬と香車まで並べて角と飛車、それから歩を再び真ん中から左右に広げるように並べた。大橋流と呼ばれる並べ方でプロの対局でもこれが主流だ。


 僕は桂馬まで同じように並べた後、左端から歩を並べて香車、角。最後に飛車を置いた。この並べ方は伊藤流と呼ばれている。歩を先に置く事で大駒や香車の効きが敵陣に直射しないという配慮があり、僕はその奥ゆかしさを気に入っている。


 どちらから言うでもなく高槻さんが自陣の歩を五枚手に取った。バーテンのように掌の中で混ぜてから盤上に軽く落とす。表を向いた歩兵が一枚、と金が四枚。僕の先手だ。


「約束、守ってくださいよ」

「こっちの台詞だ。負けたら二度と嗅ぎまわるなよ。特にお前は妙に勘が鋭いからな。何かに気付いたとして、口にするのも禁止だ」


 チェスクロックは双方に二十分を示している。時間がなくなれば自動的に敗北だ。相手と同じ駒が同じ陣形で並び、同じ時間の中で同じ条件でもって指す。鏡写しのようでいて、繰り広げられる戦いは全く異なる様相を呈し、ただお互いの力量だけがその差を表現してくれる。


「お願いします」

「お願いします」


 初手は▲7六歩。作戦の仕込みは上々。あとは戦うのみ。

 見てろ、ぎゃふんと言わせてやる。

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