▲9三 新参
ぎゃふん。
賀茂川の水、雙六の賽、山法師。平家物語で白河天皇が「是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆いた天下三不如意を古典の授業で習った。是非もう一つ『棋力』と加えてほしい。発見された最古の将棋駒は平安時代の出土だから、多少ルールは違っても将棋は存在しただろう。どれだけ財を成そうと、力があろうと、推理力があると自惚れようと、棋力は伸びない。
「中合いで一つずらせば、詰めろ逃れの詰めろだ。気付かなかったろ」
扇子を仰ぎながら高槻さんは歯を見せた。扇子の揮毫は『一歩千金』、まさしくこの将棋を表すにふさわしい文言だった。たった一枚の歩が綻びを生み、連結を破壊し、時には底歩となって立ち塞がった。極めつけは宙に放り込まれた中合いの歩だ。指された瞬間、頭の中が真っ白になった。完膚なきまでに負けた。その事実が脳内で反響し、背中に重くのしかかってくる。
「これで、とやかく言われる事もなくなったわけだ」
「全滅しましたからね」
情けない限りである。黒木さんに指をさして嗤われたい気分だ。
「じゃあ敗者は駒の片付けよろしく」
そう言い残して高槻さんが部室を出ていこうとする。僕は慌てて呼び止めた。
「なんだよ、負けた奴に発言権はないぞ」
「まだ座っててください。もう一人だけいるんです、挑戦者が」
「将棋部は全員倒しただろ」
「いいから座っててください」
ぶつぶつ言いながら高槻さんが戻ってくるのと入れ違いで、僕は部室を出た。向かいの壁に背を預けて熊田さんと恐山さんが待っている。
「どうだった」
「負けました」
だろうな、と恐山さんが笑う。
「お前なら引導を渡してくれると思ったんだが」
熊田さんはそう言いながら図書室へ向かった。
「何だお前ら待ってたのか。過保護だな」
部室の奥から高槻さんが声をかけてくる。恐山さんが返事をしながら部室の中に入った。僕は部室の扉の前に立ち、さりげなく出入口を塞ぐ。逃げ道を封じておかないと作戦が失敗する恐れがある。
「結構期待してたんですがね、バルさんの妹が誘拐された時は活躍したらしいじゃないですか」
「それはそれ、これはこれ」
着々と進められている最後の作戦に全く気付いていないらしく高槻さんは高笑いを響かせた。憎たらしい。憎たらしいが負けた以上は何も言えない。
「お待たせ。残念だったね」
図書室から出てきた黒木さんはなぜか少しだけ満足げだった。何が可笑しいと言いたくなったが今はそれどころではない。
「覚えられた?」
「一応ね。最初はズレるかもしれないけど、定跡どおりならどうにか。でも、そんなに都合良くいくかな?」
「まぁ、そこは期待するしかないよ」
熊田さんと宝さんが図書室から出てきた。無言で頷き合い、全員で部室に入る。現役の将棋部員が全員部室に揃うのは久しぶりだった。対局用に使われた机を中心に、全員で高槻さんを取り囲む。高槻さんは椅子に座ったままふてぶてしい態度を崩さなかった。
「矢吹も俺に負けた。これで全員だ。約束通りこれ以上の詮索は止めろよ」
「もういいだろうタカ。私たちの事で後輩に迷惑をかけるなよ」
部室の出入口にバルトシュさんが現れる。図書館にいてもらい、僕たちが全員部屋に入った後で来てもらうよう事前にお願いしてあった。反射的に立ち上がろうとした高槻さんの両肩を、熊田さんが抑えて座らせた。
「私たちの喧嘩が発端になって妹が誘拐までされたんだ。もう潮時だろう」
「それとこれとは、別だ」
高槻さんがぷいっと横を向いた。子供か。
「そう言うとは思ってましたけどね、まぁ最後は自分で決めてください」見かねてそう言うと、高槻さんは意味を測りかねたように怪訝な顔をした。「もういいよ、出てきても」
僕の呼び掛けで、バルトシュさんの後ろから最後の挑戦者が姿を現した。部室の扉を閉じてから、彼女は堂々と部室の中心へと歩く。高槻さんの対面、先程まで僕が座っていた席にハンナさんが腰を下ろした。誘拐された時のような憔悴した表情ではない。悩みも憂いも消えている。彼女の瞳は眼前の相手を見定めて、内には闘志が宿っていた。
「何の冗談だ?」
「本気です。私、今この場で将棋部に入ります。そうすれば新参者の私でも挑戦する権利はありますよね」
ハンナさんの言葉を受けて、高槻さんが僕たちの顔を見回した。僕たちは口を出せない。後はもう見守るだけだ。
ハンナさんが終局図のままになっていた盤上を整理し駒を並べていく。その様子を眺めていた高槻さんも訝し気ながら自陣の駒を並べ始めた。
「これに関しては駒も落とさないし、加減もしねぇぞ」
「構いません。全力でどうぞ」
駒を並び終えて、二人が向かい合った。宝さんがチェスクロックをセットし直して盤の横に置く。
「行きます! 私のターン!」
「待て待て待て、振り駒があんだよ。勝手に指そうとするな」
止められた。駄目だったか、上手くいけばそのまま行けると思ったのだが。
「いいじゃないですか。先手ぐらい譲ってあげても」
黒木さんが冷たい目をして言った。その言葉を皮切りに将棋部のメンバー全員で口々に文句を浴びせていく。
「初心者相手に大人げない」「人の心ってものがないんすか」「ハンナはド素人だよ?」「そうだそうだ」「平手なら格下が先手です」「高段者のそういう不遜な態度が将棋の衰退を招くんだ」「細かいことはいいでしょう」「そうだそうだ」
僕たちの剣幕に圧されて高槻さんは渋々歩兵を掴もうとしていた手を戻した。
「分かったよ、先手ぐらいくれてやる」
良し。第一関門クリアだ。
ハンナさんがちらりと僕を見た。小さく頷き、作戦の続行を伝える。今だ。このタイミングで言うしかない。
「私は負けません。横歩も取らせないような男には」
言うと同時に初手▲2六歩が指された。べちっと不格好な音がして、戦いの幕が開く。
自分で指示しておきながら、妙な宣言に聞こえた。しかし、高槻さんなら伝わるだろう。1990年の第39期王将戦、南芳一王将に挑戦する当時の米長邦夫九段が七番勝負直前のインタビューで語った言葉を変えたものだ。曰く『横歩も取れないような男に負けては、ご先祖様に申し訳ない』。南芳一王将はこの挑発を受け、実際に横歩取りを指している。
「なんなんだ一体」
△8四歩。高槻さんの指は長くも太くもない。それでも慣れた手つきから指された歩兵がスプルースの盤に打ち付けられた音は、部室の隅々にまで響き渡る。
ハンナさんは少し悩んでから▲7八金を指した。それでいい。
△3四歩。▲7六歩。
高槻さんの手が止まった。まだ序盤も序盤、迷うような場所ではない。決めかねているのだ。挑発を受けるか、無視するか。素人のハンナさんが、生まれる前のエピソードを知っているわけもない。誰かが入れ知恵して横歩取りに誘導しているのは見え見えだろう。
横歩取りは簡単に拒否することができる。
角交換でも、角道を塞ぐでも、何ならいきなり角が上がってもいい。今は評価が入れ替わったが、かつては横歩を取るために飛車が浮いてしまい、元の位置に戻るまでに三手を要することから『横歩三手の患い』としてプロの間では避けられていた。横歩取り自体が悪い手順とされてきた歴史がある。
一歩を得るか、手得を好むか。どちらが有利なのかは現在まで決着がついていない。だから、横歩取りというのはあくまで先手側から見た呼称であって、後手はあえて避けずに横歩を取らせる、という意味で『横歩取らせ』とも呼ぶ。先手の志向が同時に後手の志向でもあるのだ。
つまり、横歩取りは双方の合意の上でしか成立しない。
高槻さんが避けるか、受けるかが別れ道だ。
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