△9四 歩在 迄

 △3二金。▲2五歩。△8五歩。

 受けた。高段者としての矜持か、それとも既に気付いているのか。高槻さんの心中は手が進まなければ見えてこない。あとはただハンナさんが手順を誤らないことを祈るだけだ。


 ▲2四歩。△同歩。▲同飛。

 一直線に手が進んでいく。誰かが唾を飲み込んだ。自分で指すよりもハラハラする。ハンナさんが盤面を見ながらたどたどしい手つきで駒を動かしていく。


 △8六歩。▲同歩。△同飛。

 ここからだ。横歩取り誘導作戦は捨てる。発射されたロケットが切り離しを行うように、この手順を踏み台にして飛躍する。


 横歩取りならここで迷わず▲3四飛だ。というか、横歩取りと宣言している以上は横歩を取らなければならない。それを、あえて無視する。横歩を取らせない男発言は序盤の駒組みを縛るための方便でしかない。次の一手が伝わるかどうかに全てがかかっている。ハンナさんの指が動く。


 ▲5八玉。

 横歩を無視して玉が上がった。無い手ではない。横歩取りであっても、結局は取った後で玉を上げるのだから。だが、これは手順前後ではない。今、盤上はかつて高槻さんとバルトシュさんが指した棋譜に合流しようとしている。あの棋譜では横歩取りによく似た序盤から、一気に定跡を外して、激しい斬り合いが始まった。その呼び水となった手が次に指されている。


 高槻さんは盤を見据えていた。横歩取りをやらせろと要求しておきながら、横歩を取らないハンナさんの手に何を思うのか。初心者が横歩取りを教えられたら、教えられたとおりに指すだろう。狙いが青野流であれ3三飛成であれここでの玉上がりは教科書的ではない。間違えたと見ているだろうか。いや、ハンナさんの表情に一点の曇りもない。そうではないと分かるだろう。予定通りなのだ。あとは高槻さんにかかっている。


 まだ手は指されない。

 記憶を手繰り寄せているのか。自分が投了したあの将棋を。あの時、自分が何を指したのか。この将棋の意図には、もう気付いているはずだ。初心者のハンナさんをぶつけても勝ち目なんてあるわけがない。それでも僕たちは最後の手段として彼女を舞台に押し上げた。勝算を持って担ぎ上げた。高槻さん程の指し手が、僕たちの作戦を看破できないわけがない。


 高槻さんの右手が駒を摘まむ。駒音高く、その手は指された。


 △6二玉。

 高槻さんの表情に変化はない。目線はじっと盤上を睨み、微動だにしていなかった。それでも僕は無言のまま、盤上を動いた王将を見て、心のざわつきを抑えられなかった。伝わっている。間違いなく。


 ▲3八銀。△8四飛。▲2二角成。△2二銀。▲6六角打。

 ハンナさんが、そして当時のバルトシュさんが打った角が高槻さんの飛車を狙う。飛車が避ければ2二角成で銀を取って、同金ならそのまま同飛成で王手。とはいえ、上手い話しばかりではない。自陣に龍を呼び込む手でもあるのだ。これを指したらもう戻れない。


 △8九飛成。▲2二角成。△1五角打。

 角に成りこまれた非常事態で、この返し技は凄い。僕は思いつかなかった。これが見えていたからこその誘いだったのか。2五飛で逃げても2四歩で馬との繋がりが絶たれる。角を取って馬を取られた後、飛車があさっての位置で孤立してしまう。実際に指されたのは▲2八飛。


 △2七歩打。▲同飛。△2六歩打。▲同飛。△2六角で飛車を取られたが、ただではない。歩兵2枚との交換だ。これで後手の高槻さんは歩切れになった。


 ▲3二馬で持ち駒に金将を補充。ハンナさんはよく指せている。短い手数とはいえ、一手間違えたら全てがご破算になるのだ。彼女の指は小さく震えていた。爆弾に触れるような繊細な手つきで駒を置いていく。


 △4四角。▲2一馬。△8六桂打。

 高槻さんの反撃。当然の一手であり、吐きたくなるほどの激痛だった。受けがない。先手のハンナさんの唯一にして攻めの要である馬は、2一の桂馬を取ったばかり。まだ参戦すらできていない。後手の王将が遠い。絶望的な遠さだ。


 ▲4三馬。狙われた金銀を無視して追いかける。

 △7八桂成。金を取られていよいよ危ない。

 ▲4四馬で角取り、お互いにノーガードの奪い合いだ。


 対局が始まってまだ5分も消費されていない。手数も少ない。じっくり指せば、まだ駒組みの段階だろう。それなのに、この将棋はすでに終盤に突入している。


 あの棋譜は、三十八手で終わっている。現時点で三十七手目。最後に指したのは後手の高槻さんだ。眼鏡の奥にある目が盤を離れ、高槻さんが一瞬、僕の方を見た。首を回して、他の将棋部員たちを見ていく。そして扉に近い壁際にいたバルトシュさんで止まった。


「バルお前、なんか言ったか」

「私は何も教えていない。彼に立会人として呼ばれただけだ」


 バルトシュさんが僕の方に掌を向けた。高槻さんの眼光が鋭く僕を射すくめる。


「また矢吹か」しかめっ面のまま眼鏡をかけ直し、高槻さんはこめかみを指で叩いた。「俺がどう指すかは、どこまで読んでいるかによるな」


 それは高槻さんから僕に差し出された必至だった。ここで高槻さんが棋譜と異なる手を指せば、ハンナさんは着衣のまま海深くに投げ落とされるようなものだ。八方に逃げ回る高槻さんの玉を降伏させるには、一撃で仕留めるしかない。


 何を言うのかは決めていた。盤上、この一手。 


「相居飛車になったのは、験を担いだからですか?」


 先輩達には棋譜の続きしか伝えていない。だから、僕の言葉に全員が疑問符を浮かべていた。部室にいる人間の中で、高槻さんとバルトシュさんだけが、その意味を理解する。バルトシュさんは噴き出し、高槻さんは眉間に皺を寄せた。


「それは、邪推というものだよ。いや、でも確かにそうだ。私は気付かなかった。もしかしてタカは」

「偶然だ」


 高槻さんは盤上の駒の位置を真ん中に直し、続けて駒台の駒も綺麗に並べ直した。表面上は冷静に振る舞っているが指はせわしなく駒に触れていた。

 ソフトで解析しただけなら、こちらの手が指せずに詰んでいただろう。あの棋譜を読み解いた意味を突き付けて初めて効果がある。導かれた結論は、確かにバルトシュさんが中庭で言っていたように、他人から見たら下らない出来事かもしれなかった。


「そうか。分かったか」


 一言短く呟くと、高槻さんの指が銀将を掴んだ。銀将が駒台に落ち、カランと乾いた音がして、銀将がいたマスに龍が移動する。


 △7九龍。ハンナさんの玉に必至がかかった。

 ここだ。ここで高槻さんは投了した。


 棋譜に書かれた文字は、最後の一手だけ鉛筆の太さが変わっていた。バルトシュさんの長考があったのだ。バルトシュさんは迷い、迫られた選択の中で手を指そうとした。

 しかし、その手が指される前に勝負は終わっている。僕が高槻さんの投了に込められた意味に思い当たったのは、ハンナさんが誘拐された時のタクシーの中だ。不安と焦燥に包まれ、諦めたら終わりの状況で必死だった。苦しくとも指さねばならない。それは丁度、終盤の息苦しさに似ていた。あの苦しみこそが将棋の醍醐味と呼べるもの。高槻さんが諦めるわけがない。言葉でなく心からの確信に変わった。だから読み筋を変えられたのだ。


 ここから先は棋譜にない。

 ハンナさんは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


 駒台に置かれた駒を一枚選び、思い切り盤に打ち付ける。パチンと響いたその音はとても大きな駒音だった。


 ▲5四桂。王手。

 後手玉は逃げるしかない。逃がす候補は三種だが、他が即詰みなので実質一択。高槻さんは黙ったまま、するりと王将を動かした。


 △7二玉。

 日曜日に僕が棋譜を並べた時、ここまでは考えた。この先が浮かばなかったがために、僕は読みを打ち切ったのだ。8七に放り込む王手しか見えていなかった。


 バルトシュさんは静かに盤を見据えている。二年の先輩たちも黙って勝負の行方を見守っていた。ハンナさんの白く細い指が駒台から駒を拾う。その駒から目が離せない。緩やかな放物線を描いて、まるで最初からそこにある事が必然であるかのように、その手は指された。


 ▲9四角。

 相手の端歩の前に打たれたその角は、問答無用の王手である。しかし、当然の同歩で消えてしまう。儚い存在だ。けれど無意味ではない。大駒一枚の犠牲は、相手の端歩を一つ前に進めた。それだけだ。そして、それだけでこの将棋を終わらせている。


「最後まで指そう」


 高槻さんは独り言のように呟いて△同歩を指した。ハンナさんも無言でそれを受ける。▲8三銀。△同玉。▲8四歩。


 先手の持ち駒が次々と盤上に打ち付けられていく。歩で玉頭が叩かれたこの瞬間、端歩が進んだことによって、王将は9四に逃げられない。そこには歩が在る。退く道は僅かに寿命が短い。已む無くの△同玉。


 ▲6六馬。後はどちらが美しいと思うかという問題でしかない。高槻さんが選んだのは△8三玉だった。僕もそちらが綺麗だと思う。再びの▲8四歩。最後の三択。高槻さんが指したのは△8二玉だった。


 9二玉でも9三玉でも良かった。どれでも結論は同じだ。それでも詰みとなる最後の一手があえて頭金になるように逃げたのは、高槻さんなりの観念の仕方だったのかもしれない。


 最終手▲8三金がハンナさんの指が駒から離れる。

 高槻さんは机の脇に置いていたペットボトルのお茶を飲み干してからハンナさんを見た。はっきりとした発声で頭を下げる。


「負けました」


 先手二条ハンナ、後手高槻部長の一戦は五十一手目の頭金により詰みとなり、後手高槻部長の投了をもって終局となった。

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