▲9一 端歩

 警察が来て、親が来て、学校の先生が来て、褒められたり怒られたり忙しい夜だった。一昨日の狂騒は僕たち青少年の心に深い傷跡を残した、かと言えば、僕にとってはそうでもない。たった二日で、まるで夢だったんじゃないかと思う程におぼろげで、曖昧な記憶になっている。これは多分、一種の防御反応だろう。

 

 あるいは、目の前の嘘かと思うほど平坦な授業との対比に、脳が追い付かないのかもしれない。


 どうしてボールを放物線上に投げて、着地までの時間を求めなければならないのか。誰がどんな要求をしているのか、その背景は定かではない。いつも無視されている空気摩擦が可哀想だなと思いながら眠気をこらえていると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。


 教師が教室を出ていくと同時に生徒たちがにわかにざわつき出し、好き好きに散っていく。ひとつ前の化学で習った分子の動きのようにまとまりがない。


 いつも一緒に食べているクラスメイトたちに断りを入れてから席を立った。廊下を出たところで柏木が追いかけて声をかけてきたので僕は振り返り彼の言葉を待った。


「大変だったらしいじゃないか。緘口令が敷かれたとか」

「詳しいな。まだ報道されていないはずなのに」


 正式な発表がいつなされるのかは僕も知らない。今週中とだけ教えられていた。


「事情通というのは、どこにでもいるんだよ」


 柏木はしたり顔で言った。

 誰かが校長室に盗聴器でも仕掛けているのだろうか。一瞬、校内を暗躍する秘密の情報組織を夢想したが、噂の火元は見当が付いた。部室であれだけ誘拐だ行方不明だと騒いであちこちに電話をかけまくったのだ。先輩たちも同様に確認している。協力を仰いだ相手にあれはどうなったんだと訊かれたら、答えざるをえないだろう。誰にも言わない約束で教えた秘密は累乗で広まる。


「纐纈先生が捕まったのは本当か」

「うん」僕は頷いた。「そのうち教える。悪いけど、化学準備室に用があるんだ」

「また黒木嬢か。そういえば彼女、一年で副部長に抜擢されたらしいぞ。三年の部長が急に引退して玉突き人事なんだと」

「へえ、そうなの」


 僕は驚いたフリをしてみせた。何らかの裏取引があったのだろう。あの時は収まったものの部内の不正を黙って見過ごす彼女ではない。


 柏木と別れて化学準備室へ急いだ。渡り廊下を通り、旧校舎の階段を上る。心なしか駆け足になった。用件については事前に連絡したのだが、黒木さんから来いと言われてしまったのだ。連絡をないがしろにして不興をかったばかりなので大人しく従っておく安全側の判断である。


 化学準備室の扉を開けると珈琲の香りがした。ビーカーの中で熱された焦げ茶色の液体が視界に飛び込んでくる。やはり、この強烈な香りを缶コーヒーで誤魔化すのは無理があるのではないかと思っていると、部屋の主が読んでいた本をテーブルに置き、顔を上げた。


「何で挑むつもり?」


 挨拶抜きの質問だった。それぐらいならメールでも良かったのでは、と思わなくもないが、僕が負ければ将棋部員は全滅だ。心配になる気持ちは分かる。


「角換わり。高槻さんも得意だけどね、直球勝負で行く」

「そう」黒木さんは珈琲を一口飲んだ。「勝てるといいね」

「うん。そのつもり」


 将棋部のグループに放課後から一時間の部室立入禁止の連絡を入れたのは今日だが、高槻さんに挑戦したのは一昨日の夜だった。警察署で長い事情聴取が終わり、両親が迎えに来てくれた別れ際だ。頭を回し過ぎて変なテンションになっていたような気もする。


「グループ見て驚いたよ。そういう事を勝手に決めちゃうんだから」

「自分だって僕をおいて挑戦したじゃないか」

「まぁね。私なんていなくても、矢吹君は解決できちゃうものね」


 分かりやすい当てこすりだ。纐纈先生の家から警察署に向かう途中、駅で待っていた宝さんと黒木さんを拾ったのだが、車内で散々文句をぶつけられている。あれで大分溜飲を下げたはずなのに、まだご機嫌斜めのようだ。


「言ったろ。タクシーの中で考えてやっと道筋が見えたんだ。それに、黒木さんが電話を受けて即座に位置情報を追跡することを思いつかなければ、僕は何もできなかったよ」


 考えて、と彼女に言われた事が、タクシーの中で全ての思考のリソースを推理に捧げられた要因でもあったのだが、これは言わないでおいた。


「冗談よ。半分冗談」


 残りの半分は本気なのか。


「じゃあさ、昨日説明した以外の謎について推理した事を教えるから。それで機嫌直してくれないかな」

「謎って」

「ほら、郷田さんのタクシーから紙が転がったじゃないか。あれ」

「ああ『禁煙』って書かれていたんでしょう」

「気付いてたのか」 

「ハンナさんから直接聞いたの」黒木さんは悪戯っぽく笑った。「光の加減で少し字が見えたのね。それに、私たちからは見えなかったけど運転席のダッシュボードに吸い殻が詰まっていたんだって」


 紙を丸めてくしゃくしゃにしたのは、それが不要になった証拠だ。コピー用紙だったから、役所や会社からの通知などではない。もっとプライベートな内容が書かれているのは想像がついた。


 母親が乗るからもう少し頑張れ、というハンナさんの言葉は副流煙や残存粒子を心配したものだろう。乗客として望ましくない、プライベートな何かを郷田さんは廃棄しようとしていて、ハンナさんが応援して、それを取り止めた。

 つまり、郷田さんの意思でどうにでもなる事だし、ハンナさんが気軽に勧められるレベルの話だ。禁酒も候補にあったが、タクシー運転手の郷田さんならまず禁煙だろう。


「あっちを教えてよ、服が裏返っていた話の方」

「そっちは、何というか」

「分からない?」

「いいや、一応こうじゃないかというのはあるんだけど、あんまりだから」

「いいから教えて」


 藪蛇だった、こんな提案するべきではなかったと反省してももう遅い。黒木さんの半分閉じた蛇のような瞳が、真っすぐに僕を捉えていた。


「『服とか色々裏返ってますよ』とハンナさんが言ったんだよね。相手の服が裏返っていると言える根拠は何だか分かる?」

「縫い目が見えているか、洗濯やブランドのタグが出ているか」

「そう。服なら簡単だ、タグでも縫い目でも注意してみれば誰でも分かる。というか、服以外で裏返っているんだから候補は片手で数えられるよ。上半身以外で身に着けているものなら靴下とか、腕時計とか。その中でハンナさんが直接言い淀むようなものなんて一つだ」

「なんだ、パンツか」


 恥じらいは一切なく、黒木さんはあっさり声に出した。

 あの時、僕たちはベンチの両端に腰掛けて真ん中に将棋盤を置いて指していた。どうしても姿勢は前屈みになる。僕は舟橋さんと、黒木さんは池さんと違うベンチで指していた。それぞれの対局を行ったり来たりしながら観戦していたハンナさんは、前屈みになってズレたズボンの隙間から、洗濯タグが見えたのかもしれない。


「でも、舟橋さんたちが言ったのはどういう意味なの。洗濯が二回で済むというのが本気なわけじゃないんでしょう?」

「合理的だと思うけどね」僕は小さく笑った。「その直後に池さんが『昨日は連勝だったからね』と言ったわけだから、適当な誤魔化しだったと分かる。発言からして、二人は前日一緒にいたんだ。そこで勝敗が決まるような事を何回もしていた。まぁ、まず間違いなく将棋だろう。あの二人だって接点は将棋だけなんだから」

「将棋で連勝すると服が裏返るわけ?」

「お金を賭けていたんじゃないかな。純粋に将棋がしたいだけならネットがあるし、人間同士で指したいなら将棋所が街にある。非公式な場所で何年も続いていたんだから、そういう行為を目当てに来る人も多かったと思うよ」


 高槻さんも賭けていたのだろうか。この点については疑問があった。棋力は集まりの中でも突出していたようだし、あの性格なのでチャレンジャーは少なかっただろう。高校生相手では額が知れているから、リスクのわりにリターンも期待できない。高槻さんや郷田さんのようなアマの強豪を求めてやってくる派閥と別れていたのかもしれない。


 それよりも、僕が舟橋さんに連勝できたのは本当に実力だったのだろうか。あそこで良い気分にさせて、僕を道徳公園に通わせてから話を持ち掛けるつもりだったのではないか。僕としてはこちらの方が気にかかっていた。


「前日に賭け将棋で儲けていた舟橋さんは、翌日の朝から名古屋で買い取りの仕事があった。流石に客前へ裏返った服を着て訪れたりはしないだろう。身だしなみはきちんとしていたと思う。その場で話がついたのが何時かは分からないけど、もしそのまま公園に来たなら服やパンツが裏返る余地はない。だから、仕事が終わって公園に来る前に数時間の猶予ができたと考えられる」

「あ、分かった。スーパー銭湯に行ったんだ。裏返るなら全部脱いでいるわけだから一回裸にならないと駄目だもの。ね、そうでしょう?」


 勝ち誇った顔で黒木さんが人指し指を立てた。もうそれで正解にしてもいいんじゃないかという思いが脳裏をかすめたものの、指摘しておかないと後々地雷のように爆発する恐れがある。処理はできるうちにしておいた方が良いと僕は判断した。


「いや、スーパー銭湯って千円ぐらいだよ。賭け将棋で買ったお金で遊ぶにしては額が小さいし、場所も健全だ。はぐらかす理由にならない」

「だったら何なの。もったいぶってないで早く教えて」

「だから、ええと、それなりに大金が必要で、一度裸になる必要があって、時間に追われて服やパンツを裏返したまま慌てて退店する場合がある。一、二時間で終わって、女子高生のハンナさんに指摘された事を誤魔化すような、まぁ、不健全な場所ということになるね」


 言葉を濁すのにも限界がある。黒木さんはまだ察知していないようで小首を傾げて眉間に皺を寄せていた。こういう時に限って勘が鈍い。


「つまりその、エッチなお店に行ったのではないかと」

「ああ、なるほど」


 それからしばらくの間、気まずい沈黙が流れた。だから言うの嫌だったんだ。郷田さんの謎で留めておけば良かったと僕は本気で後悔した。


「全然分からなかった。矢吹君はよく気付いたね。どうして? そういうお店のシステムとかに詳しいの?」

「もういいよその話は。それより、メール見たよね。不確定要素が多いし、色々な前提が成立しないとどうしようもないんだ。最後の手段だからなるべく使いたくはないけど、万が一そうなったら頼むよ」

「無理やり話題を変えようとしてない?」

「してない」僕は強めに言った。「先輩たちにも伝えてあるから、万が一のために図書室で準備してて」

「必要ないんじゃなかったの」

「保険のつもりはないけど、一応ね。指せる手は指しておきたい。端歩を突いておくようなものかな」


 終盤の思わぬところで、何気なく突いた端歩が役に立つこともある。逆に苦しむ場合もあるけれど、今回は攻める側だから、高槻さんを追い詰めるのに全力投入だ。残る将棋部員は僕だけなのである。玉砕するつもりはない。勝ちに行く。

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