△7四 攻筋

 僕の脳は全力で土曜日の記憶を呼び覚まそうとしていた。ハンナさんを攫った運転手は、十八歳以上で彼女の顔見知りだ。彼女はフランクな人柄であるため、顔見知りの定義はかなり広くなる。


 土曜日に道徳公園周辺で彼女が出会った、あるいは見かけた人間で、この条件を満たすのは今挙げた郷田さん、舟橋さん、池さん、纐纈先生。他には――直接ではないが公園内で捜査していた刑事なら、土曜日に見かけたと話してパトカーに連れ込めるか……? いや、流石に目立ちすぎる。ああ、まだいた。纐纈ハイツの白いタンクトップの老人。それに僕とハンナさんが出会った時、彼女はコンビニの袋を持っていた。つまり、コンビニの店員に接触している。


「バルトシュさん、ハンナさんが僕と駅で待ち合わせした時、彼女はホットドッグを二本買っていました。一本はもう串だった。そして、歩きながら残りの一本を食べたんですが、ハンナさんがあの日、昼食を抜いたかどうか分かりますか?」

「土曜日の昼なら、覚えている。母が圧力鍋でシチューを作ったんだ。野菜が溶けていて美味しくてね、あいつは、二杯もおかわりしていた」


 バルトシュさんは土曜の昼食に同席していたらしい。これは運がいい。今までの内で最も確実な情報だった。


 しかし、昼食をとってから来たにしては、その後でホットドッグ二本はかなり挑戦的だ。いくらハンナさんが食に愛情を持っていても、高校一年生の女子である。成長期にある僕の妹ですら、日頃から雑誌やネットで得た怪しげなダイエット方法を試しているのだ。普通に考えて、シチューを計三杯分たいらげた後、大して間を空けずに外出先でホットドッグ二本は食欲旺盛が過ぎる。


「コンビニでの会話や行動は不明ですが、もしかしたら合流前に中で誰かと会っていた可能性もありますね」


 二本のホットドッグの内、一本はすでに串になっていた。僕はあれをハンナさんが食べたと解釈したが、他に誰かいたなら話は別だ。あのコンビニにはフードコートがあるから、同席者が食べたホットドッグの串を、彼女が後で捨てておくからと袋に入れていた可能性が生まれる。


「どうかな、君たちと約束していたのに更に事前に誰かと会う理由が、私には思いつかない。家族と縁のある人物もあの辺りにはいないと思う」

「そうですか。しかし、僕にはどうにも不自然に映るんです」


 そうでないなら、ハンナさんは度を越えた食いしん坊という事になってしまう。訝し気に眉を寄せたバルトシュさんの反応は芳しくないが検討の価値はある。


「俺は当日いなかったけど」熊田さんが口を開いた。「今までの話を聞いた範囲じゃ、どれも大した内容じゃないな。日常会話レベルだ。そこからどうして誘拐に繋がるんだよ」

「分かんないから考えてるんでしょうが」

「そうだけどよ」


 二年生が言い合う隣で、バルトシュさんは眉間を指で触れながら考えている風だった。高槻さんも同じように俯いている。部屋に入ってから二人とも全く目を合わせようとしていない。緊急事態の最中であっても、冷戦は継続しているようだった。


「確実なのは私の妹が見つかっていないという事だ。ハンナは、ひょっとすると我々が認識していない重大な秘密を目撃したのかもしれない」

「秘密って、なんですか」宝さんが訊いた。

「誘拐をしてまで隠したい何かだ」バルトシュさんが言った。「道徳公園で起きた事件は、私もニュースで知っている。だから、まっさきに思い浮かんだのは、焼死体の犯人がハンナを攫ったのではないかという事。そうだとしたら、ハンナが見知った何かが、事件の証拠になるのかもしれない。例えば、被害者の血が付いた凶器だとか」

「凶器ってのは、ないと思うぜ」


 バルトシュさんの言葉を遮るように、高槻さんが口を開いたので僕は少なからず驚いた。二年生二人も驚いた様子で高槻さんを見たが、本人は相変わらずこちらを見ようとせず、天井の隅を睨むようにそっぽを向きながら話した。


「土曜にあいつの様子がおかしいとは感じなかった。直接凶器を見たなら動揺しただろうし、俺たちに話すだろ。第一、犯人の側だって悠長に月曜まで待たない」


 高槻さんの指摘はもっともだ。ハンナさんが犯行と結びつくような証拠を見たとは考えにくい。間接的な、それこそ彼女は何とも思わなかったが、犯人にとっては犯行を裏付ける足掛かりになりえる何かだったはず。だからこそ、誘拐という手段に訴えて口を封じようとしている。つまり誘拐の目的は、情報の隠蔽だ。


 考えれば考える程、ハンナさんの命が危ないと思えてくる。

 時間が過ぎれば負けが確定する将棋の重圧とは桁が違った。ともすれば、これは彼女の命が懸かっている。気付けば親指の腹を噛んでいた。これは僕の癖だが、血が出るまで噛んだのは初めてだ。赤い液体が薄くなった皮膚に滲みじわじわと広がっていく。


「落ち着けよ。それが何だったかなんて、俺たちが理解できるとは限らないだろ。肩がぶつかって人を刺す奴だってごまんといるんだ。証拠にもならない何かをヤバいと思い込んで誘拐したのかもしれない。今必要なのは、タクシーでスマホがある場所まで行くことだ」

「スマホ、今は道徳公園と道路の境目にあります。そこから動かない。道徳公園って出入口以外は生垣で囲われているから、その中だと思う」

「スマホを捨てたとしたら、急がないと逃げられるな」


 高槻さんが立ち上がり、部室の扉を開けて出ていった。校門へ行ったのだろう。熊田さんがそれを追いかけ、バルトシュさんと宝さんもそれに続いた。


「僕たちも行こう」


 黒木さんは不安げに身体を縮めたままだった。数秒の沈黙の後、ゆっくりと僕を見上げる。


「高槻さんはああ言ったけど、犯人は計画的にハンナちゃんを攫っているから、そこまで異常な思考をする人だとは思えない。やっぱり、ハンナちゃんは犯人の不安を駆り立てるような何かを見たんだと思うの。血の付いた凶器じゃなくても、血が付いた服とか、被害者を連想するものとか、そういう」

「そうかもしれない」僕は頷いた。「例えば、角度によって見えたり見えなかったりする場所に血が付着していて、ハンナさんは認識しなかった。でも犯人からしてみれば、見られたのではと疑って犯行が発覚するのを恐れた」


 候補は他にもある。被害者と争った際にできた生傷、被害者の名前入り会員証、焼死体を作る際に購入した大量の燃料のレシートもありえる。しかし、列挙したこれらは可能性として存在するだけだ。犯人が証拠や疑いの目になりうる存在を放置していたとは思えない。


 ハンナさんが雨の下校中に顔見知りから声を掛けられた際、もし少しでも焼死体の犯人ではと疑っていたなら彼女は車に乗らなかっただろう。一方が自然体で、犯人は焦っているこのギャップは、情報の非対称性を示している。


 僕たちがここまで推理してきた内容がまるっきり的外れであったなら、それは心配性たちの笑い話で済む。しかし、状況は危険な方に針を傾けつつあった。友人の身に迫る危機を思えば、恥なんて問題にすらならない。彼女がまだ無事か否か不明だが、いずれ時間の問題だろう。真相に辿り着く事でそれを回避できるならば、僕は全力で考えなければならない。


 将棋における最悪は詰みであり、今回それは二条ハンナの死を意味する。犯人にとっても誘拐はリスクが高かったはずだ。勝負手を指され、手番は僕たちにあった。残り時間は少ない。自玉の詰みから逆算して、どの駒を渡してはいけないか。どう防ぐか。相手は何をしたがっているか。指された手の意味を考える。


 土曜日に出会った誰かが、茂木さんを殺した焼死体の犯人だとしよう。最悪の可能性は、それを前提としている。そこが逆算の出発点だ。


 犯人は既に茂木さんを処理し、警察の捜査が始まったと知っている。想像を絶する不安とストレスが犯人を取り巻いていたはずだ。犯人には事件を隠蔽し、計画的な誘拐を行うだけの理性がある一方で、それだけの判断力があるのに犯罪を犯す矛盾を抱えている。誘拐はある程度の準備が垣間見えるものの、その実行そのものは突発的な行動に近い。何しろ土曜から二日しか経っていないのだ。


 犯人も焦っている。犯人は何かを知られてしまったかもしれないと疑った。既に一人殺害した心の内で、増幅する疑念と恐怖が、誘拐へと駆り立てた。


 この推理を成立させる、犯人が知られてしまった何かの正体。


 それを解き明かすことが、二条ハンナを助ける唯一の攻め筋だ。

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