▲8一 最悪

 各学年の下駄箱に散った将棋部のメンバーは、各々が傘を携えて校舎中央の玄関口に集まった。高槻さんだけは本当に傘を忘れていたらしく、誰から借りてきたのか透明な雨合羽を着込んでいる。


「お前らは知らないかもしれないが、タクシーの乗客は最大四人なんだ」


 高槻さんは首を回し骨を鳴らした。タクシーを呼んだ当人であり、将棋部の部長でもある自分は当然入る、と言いたげだ。


「詰めれば大丈夫です。膝の上とか。トランクに入るとか」

「そうそう、黒木ナイスアイデア」


 宝さんが黒木さんを褒め、そして何故か二人とも僕の方を見た。ひょっとして僕をトランクに詰める気なのか。


「誘拐犯は殺人犯かもしれないんだろ。止めとけよ、後からJRで来ればいい。タクシー班は男四人でいいだろ」

「私も賛成だ。危害が及ぶ可能性がある。君たちは来るべきじゃない」 


 熊田さんとバルトシュさんが女子二人の同乗を反対する。確かに現場で何が起こるか分からない。道徳公園にあるハンナさんのスマホの傍に、殺人犯がいるかもしれないし、取り逃がして後日狙われる恐れもある。僕も熊田さんに賛成の意を示し、何度も頷いてみせた。


「あれからスマホの位置は動いたか?」

「いいえ、矢印はずっと同じ場所です。道徳公園と歩道の境目に」

「位置の探索って、向こうには伝わるの?」

「多分、通知が届くはずです。届かないタイプのアプリもありますけど、これはiPhone自体の機能なので」


 質問に答えると同時に、黒木さんはスマホをバルトシュさんに返した。

 位置が動かないならばスマホは捨てられた可能性が高い。犯人が黒木さんとの通話の後、位置情報サービスの通知から追跡されているのを知ったら、即座にスマホを捨てるだろう。交差点で窓から投げ捨てるのは後続車に見咎められる恐れがあるから、公園脇の道路で周囲を見回してから捨てた方が安全だ。道路側から公園へ投げ捨てたスマホが生垣に絡まったのではないか。


 この予想は同時に誘拐犯とハンナさんが道徳公園を離れたことを示唆していた。目的地が道徳公園でなかったなら、犯人は近隣住民か。それとも更に遠く、道徳方面は途上に過ぎなかったのか。

 いずれにせよ、公園から離れられたら僕たちにはそれ以上確信をもって向かう目印がなくなってしまう。そこから先は、推測だらけの暗闇だ。一軒一軒疑わしい人の自宅に突撃するわけにもいかないし、警察だって捜査令状なしには入れない。


「お、来たぞ。走れ」


 言うやいなや高槻さんは雨合羽をはためかせて校門前に走った。薄暗い校門前の道路で、二つの光がこちらに近寄ってくる。タクシーのヘッドライトだ。


「矢吹君」


 走りだそうとしたまさにその瞬間、黒木さんが僕を呼び止めた。


「必ずハンナちゃんを助け出してね。私も後で追いつくから」

「まだ犯人が誰かも分からないよ」

「考えて。休憩所で落し物の謎を解いた時みたいに」


 あの時は、と言いかけて止めた。卑下しても意味はない。藁を掴もうとする者の手を突き放すような真似はしたくなかった。僕は無言で頷いて、タクシーへと走った。


 助手席に高槻さん、後部座席の右にバルトシュさんが座り、真ん中に熊田さん、左側が僕だ。運転手は中年の男性で、既に目的と行き先を聞かされていたらしく「飛ばすよ」と低い声で言った。助手席の後ろに設置された名札の横に『安全運転を心がけます』とプレートがかかっている。


 タクシーは真っすぐに道徳公園へと向かっていた。フロントガラスにぶつかった水滴をワイパーが左右にどけていく。ワイパーが触れないガラスは水浸しで、席から覗くと信号機の赤が乱反射して見える。車内は誰も口を開こうとしなかった。これから向かう場所への緊張が充満し、息苦しい程だった。


 考えて、という祈るような黒木さんの言葉が耳の奥でまだ反響している。

 ここに至るまでに考えてきた事を、更に考える。読みに読みを重ねる。出来ることはそれだけだ。詰んだ将棋と思えても諦めずに最善手と信じた手を指すしかない。投了したら終わってしまう。


 投了したら――ああ、そうか。


 それは不意に訪れた発想だった。差し迫った現状とは無関係の箇所にあった枝葉が揺れ、シナプスが連鎖的に発火した感覚があった。そんな事を考えている場合ではないのに、脳が勝手に思考を巡らせてしまう。あの棋譜の最終手で、高槻さんはもしかしたら。


「運転手さん、あとどれぐらいでつきそうですか?」


 高槻さんが尋ねた。


「帰宅時間は混むから、どうしたって十分はかかるよ」

「裏道とかありません?」

「焦るのは分かるが、合流する時にもロスがあるから大通りの方が確実だ。その子、見つかるといいな。警察には連絡したのか?」

「いいえ、一応公園に着いて確認してからするつもりです」

「そうか。それもそうだな」運転手が後頭部を掻き、帽子を被り直す。「タクシーの運転手、定年してから家でゴロゴロしてるのにも飽きてさ、知り合いに雇ってもらったんだが、高校生を4人乗せたのも、用件がこんなに緊迫しているのも初めてだよ」

「俺たちが犯人を捕まえたら、運転手さんも表彰されるかもしれない」

「そうなったら良いな」


 信号が青になり、タイヤが空転したのかと錯覚するほどの急発進で僕たちはシートに押し付けられた。


 おかげで思考が一度クリアになった。道徳公園まで残り十分。そこまでの間に、何か結論を得なければ僕たちは行き場を失くしてしまう。


 あらためて、僕は誘拐犯の行動をトレースしてみることにした。誘拐犯の立場からしたら最初に回収したいアイテムのスマホをハンナさんが持っていて、しかも発信までされている。位置情報については通知がなくとも、少し知識があれば疑っただろう。

 犯人からしたら一番最初に捨てたいのが誘拐した相手のスマホだ。ここから、ハンナさんは当初から拘束されておらず、犯人が顔見知りで、一人というのは確かに思える。この条件だと、やはり睡眠薬は必要だ。黒木さんは否定的だったが、自分で車に乗ってみて実感した。

 誰かを誘拐するとして、一対一で運転もしているとなると到底相手の方に手が回らない。会話で取り繕ってもやがて予期せぬ方向へ車が進めば、信頼関係は必ず破綻する。どうにかして大人しくしてもらわないといけない。運転中に暴れられたり扉を開けて逃げられたりしないために最も安心安全な方法が、対象に眠ってもらう事なのである。


 さて、犯人の車が道徳公園方面へ向かったならその道のりは僕たちが乗るタクシーと似たり寄ったりのはずだ。つまり、ハンナさんを乗せた車も同程度の移動時間がかかる。そうすると、犯人がハンナさんに睡眠薬を飲ませたタイミングは、車が出発する前だ。

 黒木さんの話だと速効性の強力なものでも効果が出るのに二十分から三十分は必要らしい。車内の時計を見ると、タクシーが出発してから五分ほど経過していた。運転手さんの話では現在地から十分は必要らしいので、学校から道徳公園までの道のりは約十五分。

 移動中にハンナさんが異常な眠気に襲われ、危機を感じて発信を行ったなら、出発十分前あたりで睡眠薬を飲まされたことになる。車内に呼び込んで飲ませてから出発したのか、例えばコンビニやファーストフード店の前で偶然を装って出会い、そこでご馳走して車へ呼んだのか。否、後に警察が捜査することを考慮したなら、監視カメラと客の目がある店の類は避けるだろう。


 まず犯人は下校中のハンナさんに接触を図った。顔見知りの程度は不明だが、ハンナさんは警戒していない。気軽に応じてくれただろう。しかし、道端で会った大人がいきなり飲食物を差し出して、それを受け取るものだろうか。僕なら遠慮する。けれど、犯人は確実に誘拐を実行したかったはずだ。

 逆説的になるが、誘拐する程に誘拐したかったのだから。そうまでして秘匿したい手掛かりを彼女は握っている。いや、握っているかもしれないと犯人が疑っている。誘拐で塗り隠すならば、それは誘拐より重い犯罪に違いない。秘匿したい何かが関連付けられそうな、ハンナさんと道徳公園に結び付く事柄は、やはり焼死体の事件しか浮かばない。


 それは最悪の可能性であり、最大の可能性だ。

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