▲7三 追跡

 狼狽した黒木さんの声が部室に響き渡った。その時、僕の脳裏に浮かんだ事を、他の誰もが同じように想像したのだろう。重苦しい空気が部室を支配していた。


 道徳公園。茂木さんの焼死体が発見され、先週の土曜日に僕たちが一緒に訪れた場所に、何故彼女のスマホがあるのか。最悪の場合――彼女も同じように。


 いや、悲観は無意味だ。今すべきは悲観を傍らに置いて考え続ける事だけ。


「位置情報はまだ動いている?」

「公園の手前の交差点で止まっているから、信号だと思う。多少ラグはあるはずだけど……」


 雨の公園付近にハンナさんのスマホがあり、連絡は取れない。それだけが今確かな情報だ。一刻も早く現場に行き、彼女の身の安否を確かめなければならない。

「道徳公園って焼死体が見つかったところだよね」


 宝さんが言った。両手を組み、身を縮ませて僕たちを見回す。


「待ってろ、タクシー呼ぶから」


 高槻さんが立ち上がり、スマホを耳に当てて部室を出た。その姿を目で追いつつ、僕の頭はまだ回転を続けていた。放置していた根本的な問題が、今あらためて立ちはだかる。これが誘拐だと推理を突き詰めていく度に、その疑問は膨れ上がって存在感を増していた。


 二条ハンナは何故攫われたのか。

 先程までの推理によって、この疑問は更に一層のディティールを得る。


 二条ハンナと顔見知りの人物は、何故下校途中の彼女を騙して睡眠薬を飲ませてまで誘拐を強行し、道徳公園へ向かったのか。


 もし、彼女や彼女の親類に恨みを持つ者の犯行だったとして、何故今日この時間この場所を狙って実行したのか。雨だから。たまたま一人でいたから。偶然タイミングが合った。可能性は無数に存在するが、どれも弱い。

 今日の降水確率は半々だったし、友達と帰っていたかもしれない。委員会が早く終わったのは当の実行委員たちですら事前に知りようがなかった。これらの不確定な前提を踏まえた上で、誘拐犯は(僕の推理が正しければ)事前に睡眠薬まで用意している。犯行は偶発的ではなく計画的だ。待ち伏せしていたとしか考えられない。


 そこまでして彼女を誘拐しなければならなかった理由は何か。

 何が誘拐を惹起したのか。

 手掛かりと言えそうなのは道徳公園だ。彼女の家は千種にある。道徳公園は土曜に初めて訪れたと言っていた。従って道徳公園にスマホが近付くのは、運転手側の事情によるものと考えられる。近隣に住んでいるのか、それとも他の何か。一方でハンナさんと道徳公園を繋ぐものは、僕たちと共に訪れた土曜日にしかない。

 

 あの日の出来事の何かが、誘拐に繋がっているはずだ。


「タクシー、校門前に呼んだぞ。郷田さんは駄目だったけど、同じ会社で他の人が空いてた」

「郷田さんて誰です?」熊田先輩が訊いた。

「俺の将棋仲間のタクシー運転手」


 郷田さんは土曜日に会った。そういえば、去り際に郷田さんのタクシーの運転席から丸まった紙が転がり落ちて、ハンナさんがそれを拾っていた。捨てましょうかと訊いた彼女を郷田さんは固辞し、それが運転席の窓越しに手渡された際、短い会話があった。後で何だったのか訊こうと思っていたのに、高槻さんとの対局のショックで忘れてしまったのだ。


 あの時のハンナさんと郷田さんの会話は、確か『私の母が、この会社のタクシーをよく使っています。もう少し頑張られては?』『うーん、お客様の立場で言われてしまうと弱いな。検討しておくよ』というやりとりだけだ。


 ハンナさんの母親が郷田さんのタクシー会社を使うとして、郷田さんは何を頑張るのだろう。即座に経営危機やリストラを連想したが、郷田さんは見る限り雇われドライバーだし、あの紙は傍から見ても市販のコピー用紙だった。重大な通知書の類には見えない。営業成績が悪かったのだとして、ハンナさんが嫌味を言ったとは思えない。『検討しておくよ』と答えているあたり、郷田さんはどうも消極的なスタンスのようだ。


 記憶を振り返れば、他にも似たような事はあった。ハンナさんは他の人とも、結構話している。考えてみれば僕も含めてほとんど初対面なのに、気軽に会話できるのは彼女の人柄によるものだろうか。


 今一度、彼女の行動を振り返って検討する必要がある。常に監視してはいないが、一緒にはいたのだ。あの日の会話の中に手掛かりが隠れているかもしれない。


「黒木さん、土曜日に道徳公園で会ったおじさん二人と、将棋仙人のアパートへ向かう別れ際にハンナさんが何か話してたよね。あれって、何を言っていたか覚えている?」

「え、どうしたの急に」

「池さんと舟橋のおっさんが何かあったのか?」


 黒木さんと高槻さんが同時に訊いた。


「ハンナさんのスマホが道徳公園に近付くなら、土曜日の出来事が関係しているはずなんです。でも、僕は常にハンナさんを見ていたわけじゃない。黒木さんは、近くでハンナさんを待っていたから聞こえていたんじゃないかと」

「土曜日の出来事か」高槻さんは腕を組み記憶を手繰るように目を瞑った。「状況から考えてそうかもしれんが、俺たちも一緒に動き回ったし、そんな異様な出来事はなかったぞ」

「それでも、何かがあったんです。どんな小さな事でもいいから、ハンナさんが何を見て何を喋ったのか共有すべきです」

「確かあの時は」


 黒木さんがこめかみを指を叩いた。


「あ、そうそう、私が高槻さんを早く追いかけましょうって言ったんだけど、太っていた方の関西弁のおじさん、舟橋さんに近寄って『あの、シャツとか色々裏返ってますよ』って伝えたの。ずっと気になっていたみたい。そうしたら舟橋さんが『ああ、これはあれや、洗濯が半分で済むんや』って言って、後ろにいた池さんが『昨日は連勝だったからね』って笑ってた」

「連勝ってどういう意味?」

「さぁ、そこまでは。すぐに私たちも高槻さんを追いかけたから」


 些末なやりとりだが、いまいち掴めない。『シャツとか色々』ということは、シャツの他にも裏返っていたものがあったということか。それにしても、僕は舟橋さんと指していたのに、シャツさえ裏返っていたとは気付かなかった。盤面ばかり見ていたからだ。逆に将棋以外のところに目が及ぶハンナさんだから気付いたのかもしれない。


「舟橋さんって、どういう方なんですか」


 高槻さんに質問を向ける。


「どうって、見た通りの太ったおっさんだよ。50か60あたりかな。道徳駅の裏でリサイクルショップを経営してる。土曜は朝一で名古屋に行ったらしくて、破産した会社から大口の買取依頼があったとかで機嫌が良かったな。家族とかは知らん。昔バブルで大儲けした話をいっつもしてくるんだが、本当かどうかは怪しい。ボロいしな、あの人の店」

「ちなみに池さんは」

「あの人は定年退職した元リーマンだよ。地方銀行だったはず。道徳公園から見えるマンションに住んでて、犬を二匹飼ってる。かなり古参のはずなんだが、全然強くならねぇ。というか、強くなろうとしてない」


 悠々自適の自営業者と定年退職者といったところか。舟橋さんの出身は不明だが、関西に縁がありそうだ。

 当日の朝一に名古屋で仕事をして、その後で道徳公園を訪れている。本人曰く過去に大儲けしているらしいが、これは確認のしようがない。ハンナさんが言った『シャツとか色々裏返ってますよ』の色々とは何だろうか。洗濯を半分で済ますのが冗談だとして、池さんの言葉も気になる。何かに連勝すると、シャツや色々が裏返る意味が分からない。


 しかし、それを考えるのは保留だ。全ては疑いうる。何を疑うべきか絞らなければ、時間は幾らあっても足りない。


「あとは……そうだ、将棋仙人を探して纐纈先生のご自宅に伺った帰り際に、ハンナさんが纐纈先生に耳打ちしていたよね。途中までは聞こえたんだ、『先生、さっき洗濯機の下に――』って。その後何か言ってなかった?」


 あれは先生から頂いたコーラが服にかかって、ハンナさんが洗面台を借りた後だった。間取りは不明だが、洗濯機は洗面台のすぐ近くにあったと思われる。


「ええと、纐纈先生が『ありがとう、後で拾っておくよ』って言ってたかな。それでハンナちゃんが『どちらか分かりませんが』って返してた。私も気になって何だったのか聞いたんだけど、大した事じゃないからって言われて、それきり」


 これは先程よりはっきり覚えていたらしく黒木さんは淀みなく答えた。

 先生が拾っておくと返したなら、ハンナさんが耳打ちしたのは洗濯機の下に何かが落ちているという指摘だろう。『どちらか分かりませんが』ということは、二種類でかつ、確定ができなかった。そして、それは洗濯ばさみや洗剤といった、いかにも洗濯機の下に落ちていそうなものではない。通常はそこにないものだったから、ハンナさんは親切心で教えたのだ。


 他には何かなかったか。

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