第2話 失敗

 黒いもやは再び住宅街を疾走した。そして徐々にそのスピードを落とすと、オレンジ色の街灯が照らすコンクリートの上にピタリと止まった。

 黒い靄の前にはオレンジに照らされた緑色の外壁の一軒家があり、窓には全てお揃いのカーテンが拵えられていた。その向こうから電灯の光の気配はない。


 彼は臆することなく玄関フードに入った。ドアに手をかけると黒い靄がうごめいて鍵穴をまさぐる。ガシャ、と短い音が鳴るとドアはなんの抵抗もなく開く。

 家の中に灯りはない。

 森閑とした空間に彼が踏つける板張りの廊下の悲鳴が響く。もしかすると、この廊下は家主に侵入者の存在を必死に伝えようとしているのかもしれない。


 二階へと続く階段を登り、右手側にあるドアを彼は音を鳴らさないように勢いよく開いた。一瞬だけギギッと油の足りていないドアが鳴る。

 部屋の中にはカーテン越しに、月の光が差していた。

 一人の女がベッドの上で布団にくるまって穏やかな寝息を立てている。黒い靄の男は顔を見ないように、緩やかに上下する掛け布団に視線を固定した。布団の上には佐伯 智華さえき ともか 7と赤い文字が浮かんでいる。


「…………」


 彼は無言のうちに決意すると、顔にかかる靄を取り払った。幸薄そうな顔と左頬に痛々しくうつる火傷のあとが、月明かりに晒される。

 その表情は務めて無にされていて、横にまっすぐ引かれていた唇がかすかに開く。


「これより“死神”を開始する」と、彼は震えのない声で言った。


 彼の言葉に従うように、夜闇の中を黒い靄が密かに伸びて女の目を覆う。靄はその身体から“残り時間”を吸い取ると、縮まって彼の身体に戻ってくる。

 はずだった。


「…………?」


 黒い靄を纏った男は困惑の声を上げた。靄がいつまで経っても女の“残り時間”を吸い取ることが出来なかったからだ。

 今度はより強く吸い取るために、黒い靄を纏う手で少女の瞼に軽く触れる。

 女が起きる可能性があったが、その前には女の“残り時間”は無くなり、騒がれる心配はない。

 可及的速やかに“残り時間”を吸い取る為、彼は黒い靄を操る。


「…………」


 しかし、掛け布団は穏やかに動き続けていた。

 そのうち、女が軽い寝返りを打ち彼は手を引いた。

 これ以上ここにいては女が起きる可能性がある。彼はそう判断して速やかに家を出た。しっかりと鍵を閉めてから。


 そしてまた、黒い靄に身を預けて街の中を走る。十秒も掛からずに自宅に着くと、彼は直ぐに電気ポッドからお湯を注ぎ、インスタントのココアを入れた。ココアは既にぬるくなり始めていた。

 今晩の“死神”に対する疑問はあった。“残り時間”を吸い取れないということは初めてだったからだ。しかし、彼は問題点を想起することも無く、解決策を練るこも無く、ベッドに潜って夢の中へと逃げた。

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