殺せないあなたを僕は殺す

Damy

第1話 黒い靄

 街灯が照らすオレンジ色の光の中に黒い男が立っていた。

 彼は全身に黒いもやを纏っているため、一見するとそれが人なのかはわからない。スマートフォンを頭のような形をした靄の前に掲げていることだけが、彼を人間だと示唆していた。


「ふぅ……」


 彼はため息をついて肩の力を抜いた。靄から高い声や低い声をいくつも練り合わせたような匿名性の高い声が漏れる。

 彼の掲げているスマートフォンの画面にはこの町の地図が映し出されていた。連綿と続く家の上には青い文字で書かれた名前と数字が表示されている。それは、その家に住む人間の名前と“残り時間”だ。

 その中に一際小さな数字を表す青い文字が二あった。


 佐伯 智華 さえき ともか8

 藤田 一輝 ふじた かずき8


 スマートフォンのデジタル時計が00:00を示す。青い文字が一斉に変動し、数字がひとつ小さくなった。その内の二つの文字が赤く変わる。それは進行を妨げるシグナルではなく、酸素を欲している飢えた炎のような色だった。

 名前と“残り時間”が赤く染ったのは藤田 一輝と佐伯 智華の二つだ。数字は7。

 黒い靄を纏う彼はその数字を今晩0にする。これは確定された事物であり、覆しようのない近い未来だ。


「大丈夫……何度もやってきたことだ。怖くない。悪いことではない。……なぁに平気さ、計画は綿密に組まれている。指示通りに殺れ。僕は“死神”なのだから」


 小芝居をするように、彼は抑揚をわかり易くつけて自分に言い聞かせる。それは彼が“死神”をする時に唱える祈りとも暗示ともつかない独白だった。


「よし、行こう。君は速やかに“死神”を遂行して家に帰る。帰る頃には電気ポットに湧いたお湯が丁度飲みやすい温度になっているはずだ。そしたらゆっくりとココアでも飲んで、深い夢の中に逃げよう」


 彼は倒れるように身体を前に倒す。すると、靄が胎動した。人間にはおおよそ出せない膂力をもって彼は街を駆ける。

 夜の街に人の姿は全くない。もし誰かがいても、夜闇に紛れる彼を見ることは出来ないだろう。

 三キロメートルはあったはずの距離を彼は十四秒で走破すると、一つの建物の前に足を止めた。白い街灯の灯りがぼんやりとその建物を照らしている。

 臙脂色の外壁をした集合住宅。

 幾つかある窓には例外なく遮光カーテンがかけられていた。その内の二つから淡い光が漏れているが、彼の目的としている部屋は暗い。彼はアナログ時計の長針のように小さくゆっくりと顎を引いた。


 集合住宅のドアをくぐると直ぐに踊り場がある。淡い月の光が踊り場を舞う埃を照らす様はなんとも幻想的だ。これから行われる“死神”を拒絶すべく、扉に迫る彼を妨げるように妖精が飛んでいるみたいだった。

 しかし、その情景を感慨無量に浸っている暇は彼にはない。


 彼は階段を登らずに右と左にある対称な扉の内、右側のドアの取っ手に手をかざす。右手を包む黒い靄が鍵の差し口に侵入すると、間も無くしてガチャ、と乾いた音がする。

 次の瞬間にはドアはなんの抵抗もなく開くようになっていた。黒い靄がピッキングしたのだ。そしてそれは黒い靄の得意とするところでもある。


 絨毯が引き詰められた部屋を素早く、しかし穏やかに移動する。部屋の中は洞窟の奥底のような闇に包まれていた。しかし、その闇と同じかそれ以上に黒い彼には、満月に照らされる夜空の如く明るく見えた。

 リビングの隣にある和室で布団にくるまって眠る男を彼は見つける。

 男は穏やかな寝息を立て、頭上には赤い文字と数字が浮かべていた。


 藤田 一輝 7


 黒い靄を纏った彼はそれを確認すると、敷布団の横に膝をついた。畳同士が擦れて僅かに上がる音に、黒い靄が煩わしそうに揺れる。

 彼の手から、黒い靄が獲物に近づく蛇のように遅々と藤田 一輝の顔へと向かっていく。彼はそれをなるべく見ないよう努めた。黒い靄が藤田 一輝の顔に辿り着く前に彼は自身の顔にかかった黒い靄を払う。


 黒い靄の下からは色素の薄い肌が現れた。それ以外にも細い目や、痣のようにくっきりと映る青黒い隈、毛の細い眉、不健康に滲む紫色の唇が見られる。

 しかし、その中で最も目を引いたのは右頬に浮かぶ火傷の痕だった。

 藤田 一輝の顔から故意的に背けられるその顔はしかし、決意の色に充ちていた。


「これより“死神”を開始する」と、彼は抑揚のない少し低い声で言った。


 それと同時に黒い靄が藤田 一輝の顔に到着し、瞼の上から目を覆う。

 なんの気概もなく藤田 一輝の“残り時間”が黒い靄に吸い尽くされる。アイスの蓋を舐める子どもみたいに、一欠片も一滴も残さず“残り時間”を吸い取った黒い靄は親の元へ駆けるように、彼の元へと縮んでいく。


 瞳を開けて掛け布団を見るがそこに動く気配はなく、寝息も聞こえてこない。この部屋で唯一動く黒い靄は天井にむかって揺れている。太平洋の真ん中のように静寂だった部屋に自動車のエンジン音が遠くから侵入してきた。

 目標を遂げた彼は次の目標へと向けて部屋を出た。ドアに黒い靄が鍵をかけてから彼は集合住宅を出る。

 白い街灯の灯りが彼の輪郭を一瞬捉えるが、それは束の間の出来事だった。

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