第3話 早朝

 夢の中で彼は既に他界した両親を見ていた。とても暖かい夢だ。幼い頃によく家族と行った遊園地を三人は仲良く手を繋いで歩いている。

 夜景を見よう、そう言った父に連れられて乗った観覧車が最高到達点に達する。

 その瞬間までの彼の夢は──彼の人生は本当に温かいものだった。黒いもやが現れて両親の命を奪い取るまでは。


「…………っ!」


 黒い靄を纏っていない、味気のない平凡な顔をした少年はベッドから勢い良く上半身を上げた。インナーが汗に濡れて肌に張り付いている。ベッドには自分の形がわかるほどに汗が染みていた。

 ベッドから出て、まだ飲み切っていなかったココアを口にする。ココアにはほんの少しだけ温かみが残っていた。


 窓から、朝焼けの陽射しが部屋を照らしていた。少年はその陽光を受けて、顔をひそめながら徐に意識を覚醒させていく。

 窓の外からはすずめの鳴く声が微かに聞こえた。しかし、直ぐにカラスの声が近づいてきて雀の心地よい声は飛んでいってしまう。窓を通しても五月蝿い声量でカラスが鳴き続ける。

 少年はそれを遮断するため、イヤホンとウォークマンを手に取り音楽を聴く。曲は何でも良かったが、澄んだ空気の朝には穏やかなスローテンポの曲が好ましい。

 King gnuのdon’t stop the clocksを設定して、ウォークマンをポケットに突っ込み、イヤホンのコードを揺らしながら支度を始める。朝食を軽く作って食べ、歯を磨き、シャワーに入り、中学の制服に袖を通し、学生鞄の中身をざっと確認する。


 家を出る支度が終わったのが、7時頃だった。一時間ほど本を読むと、家を出た。

 北海道の秋は早く、今は10月の初旬だったが街路樹は黄葉こうようとなっていた。落ち葉で黄色くなった道を踏み、学校へと向かうさながら、少年は不審に思われない程度に周囲の人間の頭上に注目した。


 すれ違う人の頭上や、自動車の運転席のある場所の天井には青い数字が浮かんでいる。ゴシック体の面白味のない、しかしこれ以上ないほど読みやすい数字だ。

 通常であれば異常なはずの光景に、少年は慣れ切っていた。

 街中に無数に浮かんでいる青い数字は、その数字の下にいる人間の“残り時間”だ。子供は膨大な大きさの数字を頭上に浮かべ、老人は控えめな数字を浮かべている。


 少年はチラッ、と相手の“残り時間”を確認して青ければ気にとめず歩を進めた。

 もうが二桁以下の数字であれば、彼は相手を少しの間凝視した。相手の頭上には数字の他に名前が追加され、同時にスマートフォンの地図にも登録がされる。



 二十分程度歩いていると、同じ中学校の制服を着た通行人が増えてくる。

 学校において、彼に特筆すべき点は無い。友人と呼べる人はおらず、授業で教師に当てられた時以外は声を出すことを極力しなかった。

 休み時間は机に伏せて寝ているが、しかし、授業中に起きて熱心に勉強をしているかというと、そうでも無い。同級生や教師からは『いつも寝ている奴』と認識されていた。

 4限の数学の授業で彼は今日初めて声を出した。てっぺんが禿げ始めている男性教師は寝ている少年の横に立ち怒鳴り散らす。


「おら高坂こうさかぁ! 寝てばっかいないでノートを取れ!」


 その声に少年──高坂は肩を揺らして机から上体を起こした。瞼は重く、思考は未だにまどろんでいたが、高坂は自分が怒られているらしい、ということは把握していた。


「おい聞いているのか。 起きろって言ってんだ!」


 男性教師は高坂が起きたにもかかわらず大声で怒鳴り散らす。つばが飛んで顔に付着する。高坂は今すぐに顔を洗いに行きたい衝動に駆られたが、ハンカチで顔を拭くのに抑える。

 男性教師はその態度が気に入らなかったらしく、さらに説教を続けた。

 これはもう無駄だな、直ぐにそう見切りをつけて高坂は右耳から入った情報を見だり耳から抜くことに勤める。

 周囲では不必要なことで怒られている彼をニヤニヤと見る生徒や、迷惑そうにしている生徒、談笑を始める生徒が散見された。


 しかし、彼が授業中に寝てしまうのは仕方のない事だった。

“死神”を行使するのには多大な体力と気力を消費するし、ただでさえ、“死神”で夜遅くまで活動しているのだ。

 その為、高坂はろくな睡眠を幼い頃から取っていない。




 その日、中学校では集会が開かれた。教育実習生というのが来るらしい。

 高坂が次の授業の準備をしていると、クラスメイト達が椅子を手に、愚痴を漏らしながら廊下に出るのを見て、高坂は次の授業が集会であると悟った。

 集会には全生徒が集まった。

 様式美とすら思える校長先生の話が空気を凝り固める。集会には恐ろしいほど長い時間が浪費されているように高坂は感じた。しかし、実際は1限分……50分ほどしか集会にはかれていなかったのだが。


「では、教育実習生の紹介です」


 教頭先生がマイク越しにそういうと、二人の女性が壇上へと上がった。そして高坂は眠そうに半開きになっていた目を見開く。片方の女性の数字が赤くなっていた。それに名前が出ている。つまり高坂が既にマークしているという事だ。


 佐伯 智華 7


 昨日、高坂が殺すことの出来なかった女の名前が教育実習生の頭の上には浮かんでいた。

 高坂の目から見て、佐伯には何も変わった所はなかった。黒い靄が“残り時間”を吸い取ることが出来ないという点に関して以外は。


 佐伯は少し愛想がいいだけの、至って普通の人に見える。

 身長は少し低く胸は控えめだった。パリッとしたスーツに身を包んでいたが、表情はどこかだらしなく、そこに人の好意を引き寄せるような魅力がある。後ろに一つで結われた甘栗色の髪は、馬の尻尾のように揺れている。

 特別、容姿が整っているという訳ではなかったが、彼女の纏う雰囲気は男子生徒に息を飲ませた。

 佐伯がにこやかにマイクを使って全校生徒に挨拶を始めた。


 しばらく自分が教育実習生になるに至った経緯などを話すと、彼女は最後に、『私は三年二組に教育実習生として勤めることになりました。よろしくお願いします』と言った。


 途端、高坂の周りがざわつき始める。

 高坂が所属しているクラスは三年生の二組だったからだ。




「改めて、佐伯 智華といいます。短い間だけどよろしくお願いしますっ!」


 二組の教室で佐伯の自己紹介が改めて行われていた。

 彼氏はいるんですか? とか、何歳ですか? という質問の定型文が一通り飛び交う。答えに窮した様子の佐伯と、最前列に座る高坂は何度か目があったが特に何も無かった。

 それはそうだ。


 昨晩は彼女は寝ていたのだから。高坂のことを知っているわけがない。

 それに高坂は顔こそ露わにしていたとはいえ、全身が匿名性の高い黒い靄を纏ったいたのだから。まさか自分を殺そうとしている男が同じ空間にいるとは思うまい。

 高坂は少しシラケた気分で佐伯を見つめた。

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