第6話 あやかしの森

(一)


紅蓮の炎が蛇のようにうねる。炎は左之吉の体に巻き付いた。

 ごうごうと火の粉を吹き上げながら、自分が燃えていくのを、左之吉ははっきりと自覚した。

 逃げなくては。しかし、動くことはできない。

 炎が揺らいで左之吉の顔を、腕を、髪を嘗め回す。その度に、赤い光が暗闇で明滅する。寄せては返す、光の波。その向こうに赤鬼がいる。赤鬼の肩の逞しく盛り上がった肉を、赤い光がてらてらと輝かしていた。

 よく見れば、その赤鬼は、左之吉の顔なじみの獄卒だった。恐ろしい面構えで、規範に厳しい男だが、面倒見は良く、左之吉の事もよく気に掛けてくれている奴だ。

 左之吉は安堵した。赤鬼はきっとこの炎を消して自分のことを助けてくれるだろうと思った。

 だが、その期待は、赤鬼の手に握られた大鎌の刃の煌めきを目にした瞬間に打ち砕かれた。赤鬼は無表情に大鎌を持ち上げ、無造作にびゅっと振り降ろす。

 左之吉の片方の腕が、肩からばっさりと斬り落とされて、たん、たん、たん、と闇の中で弾みながら転がった。肩から血が噴き出した。血は噴き出した瞬間に、次から次へと新しい炎に変わる。

 赤鬼は、もう一度、面倒くさそうに大鎌を振る。左之吉のもう片方の腕もすっぱり斬り落とされ、噴き出た血は、全てが毒々しい炎に変化する。炎は傷口をじりじりと焼いた。

――なんで俺がこんな目に……?

 両腕を失った左之吉は炎の熱さに焼かれながら考える。

 自分は死神で、相手は仲間の獄卒のはずだ。こんなに一方的に切り刻まれ、地獄の炎で焼かれるのはおかしくはないか?

――俺は死神。死神。死神……いや……本当にそうなのか?

――……もしかしたら、俺はやはり罪人なのか?

 ふと、そんな考えが左之吉の中に閃いた。

 現世にいて、長くも短くもない時を生き、死んだ。酒を飲んだ。己の欲のために、嘘を吐いた。物を盗んだ。幾人もの女を抱いたが、顔も名前も覚えてはいない。人を傷つけた。人の家に火を放った。そして、人を殺した。幾人も。両の手で数えられぬくらい。

 そんなつまらない「人間」だった。

 だから気がついたら、死んで地獄にいた。罪を償うために、終わりのない時の中、この身を焼かれ切り刻まれる。

 未来永劫続く、終わりなき苦しみ。終わりなき悔恨。

「終わりにしてやろうか?」

 誰かが耳元で囁いた。妙に親しみを感じる声だと思った。それもそのはずで、すぐ目の前にいるのは赤鬼ではなかった。赤い光の揺らぎに照らされて、にやにやと笑っているのは左之吉自身の顔だった。

「もう一人の左之吉」は手に小さな鎌を持っていた。首刈り鎌だ。冷たい刃が喉元に突きつけられる。

――終わるのか。

 そう思った。消えるのは恐ろしいと思った。消えるのは嫌だ。そう思う。しかし、依然として左之吉はその場から一歩も動けず、声も出せずにいた。

 かつて、三途の川の上を行く渡し船の上で、どうせ消えるならば最期まで抗いたいと、作衛門に言ったことを思い出す。自分は刑場でただ首を刈られるだけの死神達とは違うのだと思っていた。けれども、自分とてやはり、こうして何の抵抗もできずに己自身の手によって消えていく。刑場で炎に焼かれて消えていった奴らと何も変わらない。

 首刈り鎌の鋭い切っ先が左之吉の首筋にずぶりと突き立てられた。そして、それはゆっくりと真一文字に引かれ……。

[……のきち! 左之吉! おい、起きろ左之吉!]

 左之吉は目を覚ました。

 暗闇。毒々しく煌めく赤い炎はもうどこにも見えない。

[左之吉! 大丈夫か?!]

 英太郎の声が、寝起きでぼんやりする頭の内側で響いていた。

「ああ、大丈夫だ……」

 左之吉は、自分の右の腕を左手で撫でた。

「腕もあるし」

[は? 何言ってる?]

「……夢の話だ」

[何だよ、寝ぼけてるのか? まぁ、その様子なら大丈夫そうだな。今、どこにいるか分かるか?]

「分からねぇな……俺が聞きたいよ」

 影のあやかしに襲われた。あれからずっと気を失っていたらしい。どこに連れて来られたのかは皆目分からない。

 背中は、河原の石のように滑らかな堅い壁にぴったりとくっついている。左之吉は壁にもたれ掛かった姿勢のまま暗闇の中で腕を伸ばした。掌に何か堅いものが触れる。やはり、そこも壁のようだった。試しに軽く押してみるがびくともしない。

「身動きがとれねぇ。狭いところだ。閉じこめられちまったらしいな」

[鎌はどうした? 近くにないか?]

 体を起こして探そうとする。しかし、周りの空間が狭すぎて上手く動くことができない。仕方なしに、当てずっぽうに手だけを動かして体の周りを探った。ふと、指の先にすっと鋭い痛みが走る。刃物で切った痛みだ。

「あったぜ……」

 左之吉は、慎重に手探りをして、自分の体の脇に転がっていた首刈り鎌を拾い上げた。先程の夢のこともあってあまり良い気分はしないが、とにかく武器になるものがすぐ傍にあったのはありがたいことだ。

 左之吉は、目の前の壁に鎌の刃を突き立てた。壁が引き裂かれ、隙間が出来る。淡い光が射し込んだ。壁は意外にもろく、力に任せて鎌の刃を動かせばぼろぼろと崩れていく。

 壁をある程度崩し、穴を大きくしてから左之吉はなんとか外に這い出した。外の世界は思っていたよりも明るかった。しかし、真昼の明るさという訳ではない。月の明かりがうっすらと満ちる「夜」特有の静かな明るさだ。

 左之吉は、振り返って、自分を閉じこめていたものに目を向ける。それは、樹木の幹だった。大きな木の幹の内側にうつろがあり、自分はそこに閉じこめられていたらしい。

「なんで、こんな所に俺は……」

 その時、ふと左之吉の視界をひらりと何かが横切った。思わず、びくりと体を震わす。一瞬、あの影のあやかしがまた現れたのかと思ったのだ。

 しかし、それは一輪の花だった。木の枝に咲いていたものが落ちてきたらしい。

「なんだ……びっくりさせんなよ」

 左之吉は足下に落ちた花を拾い上げる。奇妙な花だった。五枚の花弁は一枚一枚、紙のように薄く、あちら側がうっすらと透けて見えるほど透き通っている。花弁のところどころが水晶を粉にしてまぶしたようにきらきらと輝いていた。

 何かが、聞こえる。

 それは花から発せられている音のようだった。左之吉は掌の上の花に耳を寄せた。


 ううう……う……うう……う……


 まるで花自体が苦しげな呻き声を上げているように聞こえる。左之吉は改めて、透き通って輝く水晶の花弁を注意深く見つめた。

 花弁の輝きの中にうっすらと映るものがある。人の姿だ。破けた襤褸を身に纏い、痩せきって骨そのもののような男。体をぶるぶると揺らして、血塗れの口をぽっかりと開けている。呻き声は、この男が発しているもののようだった。

 不意に、ぎゃっと小さな悲鳴が聞こえ、男の腕が千切れ飛んだ。そして、次に何者かによって男の片目が抉られ、胸が切り裂かれる。大量の血しぶきは、水晶色の煌めきに変わって花弁を彩った。

「これは……亡者の姿か?」

[そうだな……地獄の景色、のように思える]

 左之吉と英太郎の印象は一致した。地獄で責め苦を受ける亡者の姿が、なぜかこの花に映し出されているのだ。

 左之吉は、木の中のうつろに閉じこめられている時に見た夢を思い出した。この花が、左之吉にあのような夢を見せていたのかもしれない。

 左之吉は、手に載せた花を乱暴にぐしゃりと握りつぶした。

 辺りを見渡せば、四方八方に似たような木が無数に立ち並んでいる。どの木の枝にも水晶色の花がぽつぽつと咲き誇り、風もないのに花弁がひらひらとそよいでいた。

「ここは、あの化け物のアジトか……?」

[分からないが……お前と同じように他の死神達もこの森の木の中に閉じこめられているのかもしれん]

「夕月も、か」

[ああ……そう考えるより他はなさそうだな]

「……」

 左之吉は、仄かな明かりにうっすらと照らされた木々の影を見つめた。樹海はどこまでも無限に続いているように思えた。しかも、その森には、地獄の亡者達の怨念のこもった花が狂い咲いている。

 今頃、夕月もどこかの木のうつろに囚われ、深い眠りの底の悪夢にうなされているのだろうか。そう思うと居ても立ってもいられないような心地がした。

 左之吉は、手近に生えている木を適当に選んで、その幹を鎌の柄で軽く叩いた。音がくぐもっている。やはり、どの木の内側にも空洞があるようだ。

[壊すのか?]

「ああ」

 左之吉はごつごつとした木肌に首刈り鎌の刃を向けた。

 この森に生えている全ての木の幹を壊して回るのは不可能としても、木の一本一本にはやはり誰かが閉じ込められているかもしれない。それは、夕月かもしれないし、作衛門かもしれない。行方が知れなくなった他の死神かもしれない。

 カッと乾いた音がして、鎌の刃は木肌に深く食い込んだ。先ほど左之吉が閉じ込められていた木と同じで、大して堅くはない。これならば、すぐに穴を広げられそうだと思った、その時だった。

 咽せるような甘い匂いが立ち上った。

 覚えのある匂い……花の匂いだ。行徳沖の海であやかしに襲われた時に嗅ぎ、体が動かなくなった、あの匂い。

 水晶のように輝く粉が頭上から舞い降りてくる。この粉が香っているのか。木の枝に咲き乱れている花がまき散らしているのだろうか。そんなに強い光ではないはずのに、鱗粉のような輝きが鋭く目を射た。視界が歪み、白く塗りつぶされる。

 やがて、目の前で舞い踊る水晶の粉の向こうには、木も花も見えなくなった。その代わり、白い光の中に誰かがいる。すぐ目の前に、誰か……。

「お辰……?」

 甘やかな香りと水晶の煌めきの中に、お辰が立っていた。左之吉は動揺した。お辰は艶やかに左之吉に微笑みかけている。

「どうして……ここに……?」

 左之吉は、掠れる声で呟いた。頭がぼんやりとしてくる。

 お辰は微笑んだまま、答えない。柔らかそうな白い指が左之吉に向かって、つっと伸びた。左之吉の頬に触れようとしている。左之吉は動くことができなかった。

[左之吉! 何をしている! 早く逃げろ!]

 英太郎の怒鳴り声が耳の奥を打つ。瞬間、視界に舞っていた光の粉が消え失せた。お辰の手が、お辰の顔が、忽ちどす黒く変わって、崩れ、デロリと溶ける。

「うわっ!」

 左之吉は我に返って仰け反った。幻術だ。お辰だと思っていたのは、へどろの塊のような、どろどろとしたあやかしだった。どうやら左之吉が割ろうとした木の幹の傷から流れ出してきたようだ。あやかしはグズグズと腐ったような粘液をいっぱいに伸ばして左之吉を捕らえようとしていた。

「くそ……!」

 左之吉はあやかしに背を向けて、逃げようとした。しかし、あやかしのほうが素早く、どろりとした塊は、蛸の脚のように左之吉の体に一気に巻き付き、絡まった。強すぎる花の臭気が左之吉を包み込み、また息が苦しくなりつつある。鎌で応戦しようとするが、ねっとりした塊に腕を押さえつけられて動くことができない。

 体が引きずられる。あやかしは左之吉を再び木の中に閉じ込めようとしていた。渾身の力を振り絞ってその場にとどまろうとするものの、粘ついた塊は幾重にも折り重なるように次々に体にまとわりつき、左之吉を離そうとしない。

[左之吉……!]

 英太郎が呼ぶ声に返す余裕はなかった。

「くっ……」

 万事休すかと思った、その時……白銀の閃光が閃いた。左之吉を捕らえていた力がふっと弱くなる。反動で左之吉は勢いよく地面に転がった。

「大丈夫か?!」

 声がした。英太郎の声ではない。見上げると、武家風の見知らぬ男が立っていた。右手には抜き身の刀が握られている。どうやらあやかしに斬りつけて、左之吉を救ってくれたらしい。振り返ると、あやかしのどろどろとした脚は、スッパリ両断されて、蜥蜴の尻尾よろしくグネグネと飛び跳ねるように蠢いている。

 しかし、木の幹の裂け目からは、新たなへどろがごぼごぼと湧きだし、今しもこちらへ向かって一気に流れ出そうという勢いだ。

「ここにいては危ない。逃げるぞ!」

「あ……ああ」

 男に促されるままに左之吉は立ち上がった。男は森の奥に向かって走り出す。左之吉も、状況はうまく飲み込めないまま、とにかく男の背を追って駆けだした。


(二)


 わけがわからない、と数馬は思った。海の上で恐ろしい化け物に襲われ、溺れたと思ったら、いつの間にか奇妙な森の中をさまよっていた。

 千鶴を連れ戻したい。しかし、どこに行けばよいのか、皆目分からなかった。

 そんな時に、不気味な化け物に襲われてもがいている若者を見つけた。手に持っていた刀で咄嗟に切りつけ、男を救い出した。

 今はただ、男とともに木々の間を縫うようにして、力の限り走り続ける。

 一体どこに辿り着けば安心することができるのか、見当もつかない。しかし、今は少しでも早くこの森を抜けられるように走り続けるしかない。

 走るうちに景色は徐々に変わっていく。周囲の風景がだんだんとぼやけ、水をたっぷり含んだ墨のように流れて引き延ばされていくのだ。

 数馬は走りながらも、度々背後を振り返った。数馬が先ほど助けた男も数馬の後ろをぴったりと付いてきていた。しかし、数馬と男との間は心なしか徐々に開いてきているようにも思う。足の速さの差かと思ったが、数馬はやがて、男の体に青白い靄が蛇のように絡みついている事に気が付いた。靄が男を後ろに引き戻そうとしているのだった。

「待ってくれ……!」

 男が息を切らしながら叫んだ。男の手が数馬に向かって伸ばされた。数馬は体をひねって振り向き、男の手を掴む。

 途端、ばちっという何かが弾ける音が耳を打つ。男の体にまとわりついていた靄が霧散し、消える。景色がぐるりぐるりと回り出し、捩れた。澱んだ空気の中に森の木々の一本一本が崩れ落ち、溶けていく。

 そう感じた次の瞬間だった。目の前から木々の連なりが消えた。代わりに黒く大きな影が忽然と姿を現す。

 数馬は身構えた。例の化け物が再び襲ってきたのかと一瞬だけ思ったのだ。

 しかし、それは一軒の大きな屋敷だった。

 二人は唖然として立ち止まり、屋敷の前に建つ黒塗りの門を見上げた。門は開け放たれ、中がよく見える。まるで大名屋敷のように立派な造りの家屋であった。

 なぜこのような建物がこんな森の奥深くに……。数馬と男は顔を見合わせた。

「……入るか?」

 男が、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながらぽつりと言った。

「しかし……」

 数馬は逡巡した。この屋敷もあやかしの罠かもしれない。

「戻るわけにも行かねぇだろう」

 男が背後を振り返った。数馬もつられて辺りを見回す。屋敷を取り囲む森の木々が陽炎のようにぐねぐねと揺らいで見えていた。数馬は背中にぞっとした悪寒が走るのを感じた。森そのものが妖魔なのだと改めて思う。

 そうして数馬が戸惑っている間にも、気が付くと男の方は躊躇う様子もなく門を潜り、ずんずんと中へ入っていく。数馬も仕方なく後を追う事にした。

 

 屋敷の中は森閑としていた。人のいる気配はないが、それとともに、今のところはあやかしが襲ってきそうな気配もない。

 だだっ広い座敷部屋が幾つもあった。二人はしばらく歩き回った後、適当な座敷の真ん中に腰を下ろした。

 そこで、数馬は初めてじっくりと男の風体を伺う事ができた。町人風の男で、数馬よりもだいぶ若いように見えた。二十二、三くらいだろうか。

 森の中で奇妙なあやかしに襲われているのを見つけた時は、数馬と同じような境遇の者なのだろうと思っていた。あの影のあやかしに偶然ここまで連れてこられ、森の中を当て所なくさまよっているところを襲われたのかと。しかし、それにしては戸惑いや焦りは感じられず、妙に落ち着いている。

 そういえば、まだ名前も聞いていない。男は何か考え事でもしているのか、じっと前を見ている。まるで、数馬には聞こえない何かの音に真剣に耳を傾けているような……。

 数馬は男の横顔に何か話しかけようとしたが、何と声をかけて良いのか分からなかった。

 そうしている内に、男がふと数馬の方に顔を向けた。

「……あんた、人間か?」

 急に尋ねられ、数馬は眉根を顰めた。彼が何を聞きたいのかよく分からない。

「あんたは生きている人間なのかと聞いている」

「わしが死んでいるように見えるか?」

 数馬は呆れたように尋ね返した後で、村の生き返り達の事を思い出した。この男は、数馬が「生き返り」かどうかを聞きたいのだろうか? そして、もしやこの男も「生き返り」だというのだろうか? それとも、実はあやかしの類なのか……。

「生きているヤツは普通はこんなところに来やしねぇよ」

 男はじろじろと探るように数馬を見る。

 言っている事がどうも要領を得ない。数馬は生きている。当たり前の事だ。たとえ数馬が一度死んで生き返った人間だったとしても、今は生きている事に変わりはない。

「わしは人間だ。そして、生きている。お前は違うと申すのか?」

「俺か? 俺は死神だ」

 男はさらりと答えた。

 数馬は相手の顔をまじまじと見返した。男の口にした言葉がすぐには飲み込めずにいた。


 男の名前は左之吉と言った。左之吉の言う事を信じるならば、彼は死神だった。

 人が死ぬ時に迎えに来て魂をあの世へ連れて行くという、あの死神だ。

 にわかには信じ難い話だが、数馬自身、今までに千鶴も含めて幾人もの生き返りを目撃し、奇妙なあやかしに襲われたりもしている。目の前に死神がいる事を否定する理由はどこにもない。数馬はひとまず信じる事にした。

 左之吉の語る事によると、彼は行徳沖で行方知れずになった仲間の死神達を探していたところを、あの影の化け物に襲われたのだそうだ。

 そこで数馬が思い出すのは、村の生き返り達の証言だった。彼らは皆、死んだ直後に見知らぬ誰かが自分を手招きする姿を見ている。そして、その誰かは決まって「影」のようなものに呑み込まれてしまう。

 死者を呼び、そして影に呑み込まれてしまった者達こそ、左之吉の言う死神だったのではないか。魂を迎えに来た死神を、待ちかまえていたあやかしが呑み込んで捕らえてしまう。死神に拾われ損ねた魂は元の体に戻り、生き返る。この数年の間に行徳下郷の村で生き返りが続いていた不可解もこう考えれば一応の説明はつく。

「問題は、あの影の化けモンが何のために死神を攫っていっているかって事だな。しかも、死神だけじゃなく、結局、生き返った村人達もまとめて連れて行っちまったんだろう? 分からねぇな……ヤツの目的が」

 数馬の話を一通り聞いて、左之吉が唸った。

「ああ……それに、連れ去られた皆がどこにいるのかも今は分からぬ。ここに来てから会えたのはお前だけだ」

 数馬は溜息を吐いた。千鶴の事を考えると、焦燥感で胸の奥が引き裂かれるように痛む。

「なぁ、数馬」と、左之吉が突然、数馬を名前で呼んだ。出会ったばかりで、しかも士分の者に向かって随分と馴れ馴れしい態度だと思い、驚く。しかし、思い直し、今は気にしない事にした。何しろ相手は「人間」ではないのだ。

「お前はあやかしに襲われた後、いつの間にか森の中に倒れていたと言ったな?」

 左之吉の方は言葉遣い等全く気にも留めない様子で、ただ急に何かを思いついたように数馬に尋ねた。

「ああ、そうだが……」

「木の中に閉じ込められていたわけではないんだな?」

「ああ、わしは違う。倒れていただけだ」

「木に咲いている花に何か感じなかったか?」

「……花? 花など咲いていたか?」

 左之吉は心なしか驚いたように目を見開いて数馬を見た。

「花が……どうかしたのか?」

 その様子を不思議に思って数馬が問い返すと、左之吉はふっと視線を逸らし、また考え込む顔になった。

「……いや、大した事じゃねぇ。生きている人間にゃあ見えない花なのかもしれねぇな」

 誰に言うでもない独り言のように、左之吉は呟いた。

 数馬はそんな左之吉の横顔を眺めながら、もし千鶴を救い出せたその時は、この男は千鶴をどうするのだろう、とふと考えた。

 千鶴は一度死んでいる。本来ならば死神によってあの世に連れて行かれるはずだった。きっと左之吉は、他の生き返り達と一緒に千鶴も連れていこうとするだろう。

 だが、数馬は何としても千鶴を失いたくはなかった。

 今の状況で千鶴をあやかしから救い出すためには左之吉の手助けはどうしても必要だと思えた。しかし、千鶴を取り戻したその後は……。

――千鶴は渡さぬ……千鶴を連れて行かれてしまう前に、この男を斬ろう。

 決意を胸に刻みつける。数馬は左之吉には分からぬように刀の柄をそっと握りしめた。


(三)


「どう思う?」

 縁側の柱に背を預けて立ち、左之吉は虚空に向かって問う。ここから見える外の景色は、歪み、捻れた木々の緑で禍々しく彩られている。当分はこの屋敷から出られそうにはない。

[現世の人間にあまり関わらない方がいいんじゃないのか?]

「ばーか、んな事聞いてるんじゃねぇよ。説教なら後にしてくれよ」

 頭の内側で響く英太郎の声に左之吉は舌打ちをする。こちらが言いたい事は分かっているはずなのにわざと説教じみた事を言ってくる。こういう所がどうにも好かない、と左之吉は改めて思った。

 数馬は今はここにはいない。しばらく話し合ってお互いの知っている事を確認し合った後、再び屋敷の内部を探索すべく二手に分かれたのだ。

「あいつ、例の花に気が付いていなかったな……気にしていないのか、そもそも見えていないのか……」

 左之吉は外を眺めながらぽつりと呟く。

[あの数馬という男か……この世界に来てもお前のように幻術にかかった気配もなかった。木の中に取り込まれてもいない……そもそも、海であやかしに襲われた時も舟をひっくり返されただけだったようだな]

 やはり英太郎も左之吉と同じ事を気にしていた。

「ああ、俺の嗅いだ花の匂いも数馬はきっと嗅いでいない。つまり……」

[あやかしは生きている人間には、直接手を下す事ができないというわけか]

「だろうな。少なくとも数馬には、あやかしの幻術は効かないらしい」

[あやかしが生きている村人たちを襲わずに、一度死んだ人間を生き返らしておいてその後連れ去ったというのもそのせいかもしれないな]

 左之吉は英太郎の言葉に頷く。捕らえどころの無いと思えた敵にも弱点があった。「生きている人間」という弱点が。ここを突けば、あの影のあやかしを倒す糸口はなんとか掴めるかもしれない。

「よし、あの数馬ってヤツをあやかしと戦わせる。数馬にあやかしを斬らせよう」

[……]

 自分では名案だと思った。しかし、左之吉の言葉に英太郎が絶句している気配がする。

「何だよ?」

[……だから嫌なんだ。お前はすぐそうやって無茶をやろうとするから]

 溜息混じりの英太郎の声が左之吉の気に触った。

「何が無茶なんだよ。他に方法があるか? 俺が向かっていってもどうせあの花の匂いを嗅がされりゃあ、幻に惑わされて一巻の終わりだぜ?」

[現世の人間はできるだけ巻き込むな。後々どんな面倒が起きるか分からないぞ]

「馬鹿っ、んな事言ってる場合か! お前は夕月を助けたくねぇのかよ?」

 頭に血が上って自然と声を荒げてしまっていた。拳を柱に叩きつける。右の目玉をくり抜いて投げ捨ててしまいたい衝動が沸き上がった。

「……」

[……]

 二人とも次の言葉は無かった。不穏な沈黙が左之吉の胸の奥をぴりぴりと焼き付けるような気がした。

「おい! 左之吉!」

 屋敷の中に数馬の声が響く。気まずい沈黙が打ち破られた。

「左之吉! どこにいる?!」

「……ああ。数馬、ここだ! どうした?!」

 なんとなく救われた気持ちになって左之吉は数馬の声がする方に向かった。

 数馬が立っていたのは長い廊下の突き当たりだった。何かを見上げている。その視線の先には階段があった。

「上ってみようと思う。何かあるかもしれぬ」

 数馬は振り向いて言った。お前も来るか、と目で問うている。

「ああ、俺も行こう」

 左之吉は答えた。数馬は頷き、階段に足をかける。

 狭くて勾配も急な階段を這うように上っていく数馬の後ろ姿を左之吉はしばらく階下から眺めていた。

「どう思う?」

 左之吉は数馬に聞こえぬよう、英太郎に小声でささやきかけた。

[そうだな……]

 すぐに英太郎の声が返ってくる。先ほどの口論はもう引きずってはいないようだった。

[俺も、多分お前と同じ事を考えているよ]

 左之吉はそれを聞いてニヤリと笑った。

 初めにこの屋敷を外から見た時の風景を思い出す。平屋だったはずだ。

 階段を見上げれば、もう数馬の姿は見えず、上の方は深い闇に包まれている。この階段は一体どこへ繋がっているというのか。

――誘っているのか……俺たちを。

 左之吉は帯に挟んだ首刈り鎌を右手に持ち替えた。

 あちらが仕掛けて来るというなら、こっちもそれに乗ってやるしかない。左之吉も階段に足を踏み出し、数馬の後を追った。


(四)


階段を上がっていたのはほんの一瞬だったか。それとも、限りなく無限に近く、気の遠くなるような時間だったか。そのどちらでもあり、どちらでもないような気がする。

 しかし、いずれにしろ二人は、今、階段を上り切り辿り着いた先……二十畳はあろうかという広い座敷部屋を前にして立っていた。

 奥の間に続いているらしい襖も障子も全て締め切られているため、光が射し込まず、暗い。

 なぜかとても見覚えがある場所のような気がする、と左之吉は思ったが、それが具体的にどこであったのか咄嗟には思い出せない。

「誰かいるようだぞ」

 数馬が囁き、刀の柄に手をかけた気配がした。隣に立つ数馬の息遣いと緊張が伝わってくる。

 左之吉は闇に目を凝らした。数馬の言う通り、部屋の真ん中にうっすらと人影が浮かび上がっているように見える。

――誰だ、一体?

 左之吉は何度も瞬きをした。やはり、それは左之吉がとても良く知っている人物のように思えた。

 その時、部屋のどこかですぅっと静かに灯りが点された。行灯など見あたらない。しかし、橙色の淡い光は確かにそこに現れていた。左之吉はふと、英太郎の店の前に吊されていた人魂提灯を思い出した。夕月が店の床几に座って一心不乱に提灯に使う籠を編んでいた……その姿がなぜか不意に胸の奥をふっと通り過ぎる。

 闇の中で橙色の光は揺らぎながら徐々に大きくなっていった。部屋の真ん中に座る人物の姿が照らし出される。

 こちらに背を向けて座っているのは女だった。紫地に髑髏と赤い蝶の絵が散らされた打ち掛けがふんわりと畳に広がっていた。ほっそりしたうなじが仄暗い光の中でぼんやりと白く浮き上がって見える。

「……お辰」

 左之吉は掠れる声で呟いた。

 そういえばこの場所も、いつか左之吉が訪れたお辰の部屋にそっくりなように思える。

 お辰はゆっくりと振り返る。体は動かずに首から上だけがゆっくりと、じりじりと回る。お辰の首はやがて真後ろにぐるりと回って止まった。

 しかし、その首に付いているのはお辰の顔ではなかった。

 つるりと白い顔。真っ赤な口が弧を描いてつり上がり、ニタリと笑った。あやかしの顔だ。

 打ち掛けが翻る。女の体がぐしゃりと崩れ、橙色の光の中、影が肥大し溢れ出す。

「出たか!」

 数馬が叫び、刀を抜きはなった。

 それと同時に、ばたん! と大きな乾いた音が響いた。部屋の両側の襖が開いた音だ。ばたばたばた……と無数の足音が重なり、沢山の人影が走り出てきた。あやかしを守るように左之吉達の前に立ちふさがる。

「これは……」

 左之吉は絶句した。目の前に群をなす人影達。あやかしの手下かと思いよく見れば、それは左之吉のよく見知った人々であった。行方知れずになった死神の仲間達だ。あやかしに操られているのか、皆、目がうつろだった。そして、各々の手には何か光輝くものが握られている。しかし、辺りが薄暗いためか、それが何なのかはよく見ることが出来ない。

 手前にいた死神がおもむろに手に握ったものを振った。光の粉が散る。風が起きる。左之吉は思わず後ろに跳びすさった。右の腕に鋭い痛みが走る。見ると、袖がスッパリと切られて血が滲んでいた。

「どうしたんだ!」

 数馬が駆け寄り、左之吉の腕を見て瞠目した。

「何があったんだ……誰もいないはずなのに」

「……何?」

 左之吉は思わず聞き返した。

「お前にはこいつらが見えていないのか……?!」

「こいつら?」

 数馬は怪訝な顔をした。

「この部屋の中には、あのあやかしの他には何も現れていないぞ」

「……」

 左之吉は息を呑む。数馬には影のあやかしは見えても死神達は見えていないのだ。

「数馬……頼みがある」

 左之吉は徐々にこちらに近づいてくる死神達を前にして後ずさりながら言った。死神達は、やはり数馬よりも左之吉の方を狙っているようだった。

「お前があの影のあやかしを斬ってくれ。あいつは多分、生きている人間にしか倒すことができねぇ」

「……わかった」

 数馬は頷いた。左之吉が何に怯えているか。その相手は彼にははっきりと分からずとも感じる事はできたのだろうか。数馬はそれ以上は何も聞かず、背を向けた。走り出す。

 数馬の体はひしめく死神達をすり抜けた。真っ直ぐ、あやかしに向かっていく。

「覚悟……!」

 数馬は刀を振り下ろした。

 あやかしは素早くそれをかわす。ニタニタと笑う白い顔が宙に浮かび上がり、くるくると舞った。と、思う間もなく、あやかしはツッと滑るように襖の向こうに逃げ込んでいく。

「待て!」

 数馬もそれに追い縋るように駆け、襖の向こうの闇へ飛び込んでいった。

 あとには、部屋いっぱいに静かにひしめき合う死神達の影と、左之吉だけが残された。

「英太郎……教えてくれ。俺が今見ているものは……死神の連中は、幻なのか?」

 左之吉は首刈り鎌を握りしめ、体の前に構えながら言った。

[残念だが、俺にも見えている……死神達が。幻ではないようだ。だが……]

 英太郎のしゃべる声も、動揺のためか心なしか堅かった。

[あいつらの持っている武器……森で見た例の花と似ていないか……?]

「花に……?」

 問い返す余裕はなかった。死神の一人が再び襲ってきた。

 振り下ろされた光の武器を咄嗟に首刈り鎌の刃で受け止める。キイ……ン、と澄んだ音が響いた。火の粉のような光が飛び散る。

 なるほど、英太郎の言うように、死神達の武器がまき散らす光の粉は、森の中で目にした水晶の花の粉と同じもののようだった。近くで見れば、武器自体も氷のように透き通って見える。あの水晶色の花弁を幾枚も重ねて固め、引き伸ばせばこのような物になるのではないかと思わせる雰囲気が確かにあった。

 左之吉は相手の武器から目を離さないまま一歩踏み出す。水晶の刃を鎌に引っかけて振り払った。相手は勢いに押され、後ろに仰け反りたたらを踏んだ。

 勝てる。そう確信して鎌を振りかぶった、その時だった。

[左之吉……! そいつらを……仲間達を消すな!]

 英太郎が叫んだ。それは、忠告というよりも、悲痛な響きを伴った衝動的な叫びに聞こえた。

「英太郎……」

 左之吉は一度振り上げた腕をそのままゆっくり下ろした。

「うるさい……黙ってろ」

 気が付くと、自分でも驚くくらい冷たい声が喉から出ていた。

 先ほど斬られたばかりの己の腕の血を掬い取り、右の瞼に塗る。袂から手拭いを出し、頭に縛り付けて右目を覆った。それは封印だった。

 三途の川にいる英太郎の目と、あやかしの世界にいる左之吉の目を繋ぐ糸が切れた。

 もう英太郎の声は聞こえない。

――これでいい。

 左之吉は、自分に言い聞かすように頷き、鎌の柄をぐっと握りしめた。

「元々、仲間だったからと言って俺は容赦はしねぇぞ」

 左之吉は口に出して呟くと、鎌を体の横に引いた。身を屈める。死神達もこちらを伺いながら、少しでも隙を見せれば今しも襲ってきそうな気配を見せている。

 息を吸う。畳を蹴った。体を低くしたまま、前方へ跳ぶ。狙うのは相手の喉だ。水晶の刃の風が頬を掠めた。避ける。体をひねって、首刈り鎌を叩きつけた。

 鎌の刃の先は、狙いを過たず相手の首筋に食い込んだ。

 刃を引く。喉を切り裂く感覚。血しぶきは炎に変わる。血と混ざり合った真っ赤な炎が死神の全身を包み込んだ。断末魔。

 そこで左之吉はやっと相手の死神の名前を思い出す。しかし、その時にはもう既に彼は炎に焼き尽くされて「消えて」いる。

 感傷を感じる暇などない。左之吉の周りを取り巻く死神達の輪は先ほどより窄まっている。死神達の手の中で水晶色の刃が不気味な光を放つ。

 左之吉は鎌を体の前に掲げて死神達を牽制しながら、素早く周囲に視線を走らせた。

――夕月……どこだ? それに作衛門も……この中にいないのか?

 探す姿は無い。

 刹那、左右から風を切る微かな音が鳴る。辛うじて避けたそばから次々に刃が繰り出される。水晶色の粉が散る。仄かに甘い香りが漂う。左之吉は慌てて息を止めた。吸い込めば、また体の動きを封じられ幻術に引き込まれてしまう。

 息をしないようにして戦うのは楽ではないが、幸い死神達は操られているためか、動きはさほど素早くないようだった。左之吉は勢いに任せて鎌を振るい、一気に三人の喉を掻き切った。斬った死神の体から噴き出る炎が座敷を明るく照らす。

 死神達がひるむ。左之吉を包囲する輪に隙が出来た。すかさず踏み込む。正面にいた男に当て身を食らわした。以前に左之吉の上役だった男だ。やたらと威張って規範に厳しく、どうにも気が合わない奴だった事を思い出した。吹っ飛んで畳の上に転がったのを見てザマミロという気分になる。

 男の体を跨いで、数馬とあやかしが入っていった部屋の方へ走った。夕月がいないとなれば、この場所にもう用はない。

 開け放たれた襖の、その向こうの暗がり。走り込もうとした瞬間、鋭く光が翻るのが見えた。体全体を沈めるように屈ませる。それと同時に、闇の中から敵の刃が繰り出された。刃が空を切った位置はちょうど左之吉の頭があったところだった。間一髪だ。向こうの部屋にも死神がいるらしい。

 舌打ちをし、左之吉も鎌を打ち込む。キンッと高い音が響いて、敵の刃と首刈り鎌の刃が組み合った。力が強い。気を抜けば押し返されてしまいそうだ。先ほどの刃の筋から見ても、他の連中よりも動きがいい。

 左之吉は一歩退き、相手の刃を無理矢理に横に払った。隙を突いて懐に飛び込み、喉を切るしかない。武器を振り払われた弾みで、相手の男が体勢を崩したのを感じた。男はわずかによろめいて暗闇から姿を現す。斬るならば今だ。

 しかし、その顔を見た瞬間、胸の奥が痛みを伴う程にどきりと大きく波打った。

「お前……作衛門か……」

 久しぶりに見る友の顔だった。

 作衛門も他の死神同様、操られて左之吉に襲いかかってくるであろう事は十分に予測していたはずだ。しかし、いざ作衛門の姿を目の前にすると、自分でも意外なほどの戸惑いが左之吉の心に生まれた。

 油断してはいけない、と自らに言い聞かせる。例え相手が親友であったとしても今は戦う事に躊躇している場合ではないのだ。

 しかし、手に握り締めた鎌の刃を作衛門の首に突き立てる気持ちにはどうしてもなれなかった。

 左之吉が逡巡を見せた、その隙に作衛門の腕が動く。鋭い光が煌めいた。反射的に体を引いて避ける。だが、遅かった。赤いものが作衛門の着物に飛び散る。左之吉には、その血が自分の体から噴き出たものだとは咄嗟には認めることができなかった。少し遅れて火箸を刺し込まれたような熱さが左之吉を襲う。

 首筋を手で押さえた。ぬるりとした感触がある。指の間から生暖かい血が止めどなくあふれ出して肩口を忽ちに濡らしていく。

 傷は深い。しかし、唯一の救いは、その血が炎へと変化しない事だった。死神が消える時、血は火に変わってその身を焼き尽くすのだ。

 作衛門の瞳には何の感情も映されていない。凍り付いた視線が左之吉を射抜く。鱗粉のような光を散らし、作衛門は再び刃を宙に舞わした。避けきれない。肩を一線に斬られる。首からも肩からも勢いよく溢れだした血が着物をぐっしょりと濡らしていく。

 動きが鈍っているのを自分でも感じた。花の香を幾らか吸ってしまっているせいか。それとも血を出しすぎてしまったためか。

 傷ついた肩を手で押さえたまま、そのまま動く事ができずにいた。

 不意に、もう一度、焼け付く痛みが体に走る。背中だ。振り返った。さっき当て身を食らわせた男が斬りつけたのだった。

――くそ……! 倒した時にとどめを刺しておくべきだった!

 左之吉は力を振り絞って、振り向き様に男の首に鎌を突き立てる。死神の魂を燃やす炎を真正面から受けた。

 なぜ初めからこの男に止めを刺さなかったか。きっとそれは自分に関わりのあった奴だったからだ。気の合わなかった元上役とはいえ、心のどこかで消すことを惜しんでいた。

 甘かった。同情だの憐憫だのは、死神という存在には邪魔なだけだ。

「……ちくしょう」

 血でぬめる鎌の柄を両手で握りしめた。手足の感覚が薄らいでいる。だが、まだ力は残っていた。鎌をもう一振りして、作衛門の喉を切り裂くだけの力は……。

 やるしかない。作衛門を消さなければ、消されるのは自分だ。

 前を向く。相変わらず冷たい目で己を見つめてくる作衛門と向かい合った。一撃でしとめる必要がある。体を斜めに傾け、鎌を後ろに引いた。

 ふと、自分を止めてほしい、という気持ちが胸によぎった。馬鹿な事はするな、と今、誰かに止めてほしかった。そして、そんな風に左之吉のやることを止めてくれる者は一人しかいないのだが、今はもう遠いところにいる。声すらも届かないところにいる。

「うおおおおおお……!」

 叫び、畳を蹴った。残る力を腕に集中させ作衛門の首元をめがけて鎌を振り下ろす。

 手応えはなかった。首刈り鎌の刃が空を切る。

 作衛門がいたはずの場所。そこには誰もいない。甘ったるい花の匂いが香った。

 もう踏みとどまるだけの力は残っていない。左之吉は襖に向かって、そのまま倒れ込んだ。




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