第5話 夕月の夢

「左之吉……どこ行っちゃったの? ここはどこ?」

 泣きべそをかき、鼻を啜り上げながら、夕月は途方に暮れて立ちすくんでいた。

 朝靄のような白い霧が一面に漂っている。前も後ろも、霧に煙って何も見えない。

 左之吉と一緒に舟に乗って海の上にいたはずなのに……。

 一体どうして自分一人がこんな場所に来てしまったのか、皆目分からない。ただ、心細い。

「誰か……いないのかなぁ?」

 誰でもいい。誰か近くにいてくれれば、少しは心細さも和らぐだろう。しかし、周りには動くものの気配は何もない。何の音もきこえない。

 この世の中に自分一人だけがぽつんと取り残されてしまったかのようだ。

 夕月はおそるおそる足を踏み出す。歩いていれば、そのうちにこの霧も晴れてくるかもしれないし、誰かに会えるかもしれない。そうしたら、帰り道を聞いて、英太郎の目玉売り屋にも戻れるだろう。英太郎も左之吉も、きっと自分を待っていてくれている。

 胸に浮かんだ一筋の希望に縋るように、夕月は歩を進める。

 足下には、草や花が乱雑に生い茂っている。下草を湿らす露の滴が、夕月の裸足の足を冷たく濡らした。

 しばらく黙々と前に向かって歩く。そのうちに、ふと霧の向こうに青い人影がぼんやりと浮かんだ。こちらに向かって歩いてくるようだった。

「あっ、あの……すみません!」

 夕月は足を止めて声を掛ける。

「私、迷っちゃって……ここ、どこですか? 帰りたいんですけど……三途の川の目玉売り屋さんに……道、知っていたら教えてください」

 相手も夕月のすぐ前まで来て足を止めた。

 編み笠を深く被り、腰も幾分か曲がりかけている。老人のようだった。

「目玉売り屋かぁ? 知ってるぜぇ」

 ガラガラとしわがれた声。蚯蚓のような不格好な唇がぷるぷると震えて言葉を紡ぐのが、編み笠の陰の下にちらりと見えた。

「けどな、残念だがこの道は三途の川には繋がっちゃいねぇなぁ」

「え、それじゃあ、ここからは三途の川へは行けないんですか?」

 夕月は、足下が崩れ落ちるような落胆を感じた。三途の川へは帰れない……英太郎とも、左之吉とも、もう二度と会えないのかもしれない。止まったはずの涙が、また目尻から溢れそうになる。

「ここから直には行けねぇけどな……お前さん、道しるべを持っていなさるね?」

 老人は枯れ木のような手を上げて、夕月を指さした。袖が捲れ、しわだらけの腕が露わになる。その腕には、しわの間に埋め込まれるように小さな目玉が何個もひっついている。

 夕月はびっくりした。泣き出しそうだった事も忘れて、老人の腕の目玉達をまじまじと見つめ、その腕の奇怪さに釘付けになった。

「おじいさん……あやかしなの?」

「あやかしじゃねぇ。旅の神さ」

「神様……?」

 夕月はきょとんとした。

「さぁ、そんな事よりも道しるべだ。お前さん、手に青い石を持っているだろう?」

 老人の腕の目玉達がギョロリと、夕月の胸の前で握られた左手を見つめる。

 夕月は慌てて左の掌を開いた。透き通った、青い小石。英太郎の店の盥の中から拾ってきたものだ。すっかり忘れていたが、こちらに来てからずっと無意識に握り締めていたらしい。

「これが、道しるべ?」

「そうさ……この石は、お前さんを行くべきところへ導いてくれる。大切に持っているこったな」

「行くべきところ……じゃあ、目玉売り屋にも帰れるの?」

「ああ、帰れる。時が来ればな」

 老人は、そう言って、何がおかしいのか、ケ、ケ、ケ、と甲高い声を上げて笑った。

 夕月は掌の上の石を改めて見つめる。

――時が来れば? じゃあ結局、今は帰れないってこと?

 なんだか騙されているような気もする。それに「道しるべ」だと言われた石も、どう見ても、色が綺麗なだけの普通の石ころにしか思えない。

「ねぇ、おじいさん、これ本当に……て、あれ?」

 夕月が目を上げると、そこにはもう老人の姿はなかった。

 一体、何だったのだろう。夕月は首をかしげた。

 結局、三途の川にどう帰ればいいのか全く分からないし、事態はさっきと変わっていない。……いや、一つだけ変わったことがある。あの奇妙な老人の姿が消えると同時に、霧が晴れたのだ。

 目の前には、地平の向こうまでなだらかに続く緑色の平原が広がっているのがはっきりと見える。

――誰か……いる。

 夕月と同じくらいの背格好の、誰か。草原の真ん中に座り込んでいるようだった。

 夕月はゆっくりと近づいた。

「ねぇ……何してるの?」

 声を掛けると、その「誰か」は緩慢に顔を上げた。

 夕月は、相手をよく見ようとした。しかし、どんな顔をしているのか、どんな着物を着ているのか、見ようとすればする程、なんだかぼんやりと霞んでしまってよく分からない。霧は晴れたというのに、なぜかその人物を取り巻く空気だけが水のように揺らいでいるように感じる。

 ただ、相手が子供らしいというのは、夕月にも分かった。おそらく、自分と同じか、それよりも年下の……。

「ちちうえとはぐれてしまったんだ」

 相手は舌足らずな口調で答えた。案外、夕月よりもずっと幼いのかもしれない。しゃべり方からすると男の子のようだ。

「あなたも迷子なの?」

 男の子はコクリと頷いた……ように見えた。

「私も帰り道が分からなくて困ってるんだ。ねぇ……一緒にいてもいい?」

「いいよ」

 男の子は笑った。顔は見えなくても、笑ってくれたことが雰囲気で何となく分かる。

 夕月はほっとした。幼子とはいえ、誰かが傍にいてくれるだけでとても心強く感じる。

 夕月は男の子の隣に腰掛けた。

「私、夕月っていうんだ。貴方の名前は?」

「なまえ……?」

 男の子は、なぜか戸惑うように首を傾げた。

「なまえ、わからない……」

「え? 自分の名前だよ? 分からないの?」

「うん……わからない」

 夕月はびっくりした。自分の名前が分からない人に会うなんて初めてだ。きっと、この子は迷子になった不安の余り気が動転して、自分の名前を忘れてしまったに違いない。

「そっか……でも、父上様のところに帰れたらきっと思い出すね」

「そうなの?」

「多分……そう思うんだけど」

 でも、帰り方が分からない。この子も、自分も。

 夕月は掌の上の青い石を見る。道しるべのはずの石は、相変わらず何も教えてはくれない。

「とにかく、一緒にここで待っていよう? 誰かが迎えに来てくれるかもしれないし」

「うん」

 男の子は素直に頷く。

「ちちうえ、きてくれるかなぁ」

 男の子は草の上でぱたぱたと小さい足を動かす。

「来てくれるよ。父上様もきっと君の事を探してると思うし。私の事を探しに来てくれる人達もいるから……」

 夕月は、半ば自分に言い聞かせるように言った。

 まだ少ししか一緒に暮らしていないけど、英太郎も左之吉も優しい大人達だ。夕月がどこにいても、いつかきっと探し当てて迎えに来てくれる……今は、とにかくそう信じることにした。

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