第7話 左之吉の夢


 青い闇が広がっていた。左之吉の目の前には一本の木が立っている。闇の中、他には何もない。

 木の幹には、ゴワゴワとした粗い紙のような木肌が幾重にも折り重なっていた。檜の木のようだった。

 檜は、突然、ギイッと軋るような音を立てる。切り倒された。鋸で切ったようであったが、しかし、その鋸も、それを使う人間の姿も見えなかった。転がった木の幹。それが更に切り刻まれ、忽ちのうちに数枚の板に変わる。

 己の魂が今まさに消滅しようという時に当たって、最期に見る夢としては何とも間抜けなものだ、と左之吉はぼんやりと思った。せめて最期くらい、走馬燈でもゆっくりと眺めて過ぎ去った日々に静かに思いを馳せさせて欲しい、等と人間のような事をふと考える。それを、何が悲しくて、こんなつまらない、木材がただ加工される様子を黙ってじっと眺めていなくてはいけないのか。

 コン、コン、コン……

 小気味の良い音が響く。檜の板の一枚一枚が削られていく。鑿を持って木材を削っている手が見えた。節くれ立った職人の手だ。鍛え上げられた手だが、色は白く、どこか優しげだった。左之吉は、この手になぜか見覚えがあるような気がした。

 大小の鑿で削られ、ただの木の板は徐々に明確な形を持つ。

 鋭い爪を持った大きな手。太い首筋。がっしりとした広い肩。身にまとう衣のひだの波打ち。ごつごつと隆起した顔の輪郭。虎がほう吼を上げるように開かれた口元。顔の真ん中にどっしりと鎮座する鷲鼻。つり上がった眉。天に向かって鋭く尖った耳。

 様々な形に彫り上げられた板は、組み合わさり、繋ぎ合わされ、一人の男の姿となる。驚いたことに、それは左之吉もよく知る男だった。左之吉自身の存在に最も因縁が深く、心底憎みつつも、恐れ、敬うべき者……。

――エイリョウ……エイリョウ……。

 誰かが呼んでいる。聞き覚えのない名だ。

――英了……おらぬか?

「はい。ここにおります……お館様」

 答えた。左之吉の声ではない。体が勝手に答えたのだ。

 左之吉の意識はどうやら、この「英了」と呼ばれた男の視界を一方的に覗いているらしかった。

 英了は、自らを呼んだ「お館様」の前に進み出ると、ひれ伏した。

「面を上げよ」

 英了が目を上げて仰ぎ見た、その視界に映る男は、よく肥えて、はちきれそうな程の丸い顔をしていた。公家のような顔立ちだが、肩衣を着て武家風の格好をしている。

 古い時代の人間なのかもしれない、と左之吉は思う。江戸に徳川が幕府をつくるより前の世の、どこぞの領主であるように思えた。

 してみると、左之吉は今、英了という名の職人の目を通して過去の光景を見ているという事になる。いまわの際に夢見るたわいのない幻という訳ではなく、どうやら今見ているものには、何か特別の意味がありそうだった。

「閻魔大王像の出来はいかがした?」

 太った領主は、耳に絡みつくようなねっとりとした声で英了に尋ねた。

「は……大方、体や顔の形は彫り上がっております」

 英了は立ち上がって領主を奥の間へと案内した。ここは、英了の工房であるらしい。

 領主は、奥の間に置かれた木像を目の前にして立った。思わず感嘆するように溜息を吐いたのが左之吉にも分かる。それもそのはずだ。英了の手によって削り出された閻魔大王像は、今にも動き出しそうな程な精巧さと躍動感を持ち、そして禍々しい程に恐ろしい威圧感を放っていた。左之吉から見ても、人間如きがなぜこうも閻魔大王の特徴を真に捉えた像を造る事ができたのか、心底不思議に思うくらいの出来映えだった。

「目がまだなのです」

 英了が言った。確かに、閻魔大王像の両目にはぽっかりと空虚な穴が開いている。

「しかし、目を入れてしまえば、残りの工程はあと少しです。顔の裏側から目をはめ込み、体の形を整えながら組み立て上げ、色を塗ります。さすれば、この閻魔大王像も近いうちに滞りなく完成しましょう」

 領主は英了の言葉に満足げに頷く。

「戦の止まぬこの乱世において、地獄の閻魔大王の姿を象った像を造ることで、平和を祈念する。これによって、我が魂の死後の安寧も約束される。そのために、英了……そなたを仏師に選んだわしの目に狂いはなかった」

「勿体なきお言葉に御座います」

 英了は恭しく頭を下げた。

「誠心誠意を尽くし、一日も早くこの閻魔大王像を完成させてご覧に入れる所存で御座います。つきましては……無礼とは承知しておりますが、折りいってのお願いが御座います」

 英了は顔を上げない。膝に添えられた拳が何かを耐えるようにぎゅっと握られた。

「どうか、報酬を……先にいただきとう御座います。私の娘が重い病なのです。一刻の早く、薬師の融哲ゆうてつ殿に診ていただきたく……そのための銭が」

「ならぬ」

 領主が英了の言葉をすげなく遮った。

「完成した暁には褒美は幾らでも取らせる。しかし、閻魔像を仕上げる事が先じゃ。先に銭を渡すことはできぬ」

 有無を言わせぬ口調だった。

「お館様……」

 英了は身を屈めたまま、僅かでも救いを求めるように領主を見上げた。領主の細い目は侮蔑の色を宿し、冷たく英了を突き刺すようだった。

「報酬の銭が早く欲しければ、それだけ早くこの像を造り上げればよかろう。頼んだぞ」

 領主は氷のような声で告げると、踵を返した。そのまま工房を出て行く。

 あとに残された英了は呆然と立ちすくんだまま、造りかけの閻魔大王像を見つめた。未だ両目に輝きを灯さない閻魔大王の顔は、眉を吊り上げて英了を叱咤しているようでもあり、大きく口を開けて英了の絶望を笑っているかのようでもあった。


 幼い娘は、薄い布団の中でゼエゼエと苦しげに荒い呼吸を繰り返していた。年の頃は七、八歳というところだろうか。痩せ細って頬がこけ、肌は土気色にくすんでいる。それでも、英了が家に帰り床の近くに寄ると、嬉しそうな微笑みを浮かべて英了に手を差し伸べてくる。英了は、その手を壊れ物でも扱うようにそっと握り、娘の命の暖かさを確かめた。

 女房はいないようだ。先立たれたのか。父一人、娘一人のささやかな、貧しい暮らしぶりのようであった。

 娘の体は病に蝕まれ、命の炎は今しも尽きようとしている。死神の迎えもそう遠い事ではないだろうと左之吉には思えた。

 しかし、英了は運命に抗おうとしていた。高名な薬師に診せれば娘の命は助かると、そう信じ切っているようだった。

 英了は娘の病床の傍らでも、夜が更けるまで仕事を続けた。灯台の灯りが放つ橙色の光が英了の手元をぼんやりと照らす。英了はヤスリで水晶の板を削っていた。薄く削った水晶の板は、閻魔大王像の目の穴の内側にあてがうものだった。これは「玉眼」と言い、命なき木像の目にもまるで生きているかのような輝きを与える手法だ。

 花弁の形をした水晶の板を、英了の手が丹念に削り出す。きらきらと輝く削り粉が仄かな明かりの中に散った。一刻でも早く、閻魔大王像を造り上げなくならない。英了はそのために寸分の時間をも惜しんでいた。

 ひゅう、ひゅう……ひゅう……ひっ……

 手元の作業に集中する英了の耳に、ふと、風の巻き上がるような音が聞こえる。弾かれるように顔を上げた。娘を見る。

 不吉な音は娘の喉から聞こえていた。娘の額には汗が滲み、胸が苦しげに上下している。

 英了は娘を抱き上げる。娘に意識は既に無く、白目を剥いて口の端から泡を吹き、がくり、がくりとひきつるように体を震わせていた。

 英了は何事かを叫んだ。それは意味をなさない言葉の羅列のようだったが、それだけに悲痛な響きを含んでいた。英了は娘を胸に抱えたまま、裸足で家を飛び出した。


「融哲殿! 開けてください!」

 英了は屋敷の戸を叩いた。戸は開かない。しかし、英了は更に強く叩き続けた。

 ようやく下働きの者が戸を半分程開く。

「……今時分に何用ですか?」

 男は迷惑そうな顔で、英了を怪しむように見た。

「娘を診てやってください……今すぐに。容態が急に悪くなったのです」

 男は白けたような目で英了と娘を眺め、何も言わずに戸を閉め直そうとした。

「英了か」

 不意に戸の向こうから、しわがれた低い声がした。下がれ、という言葉とともに、下働きの男は奥に引っ込んだ。代わりに姿を現したのは、頭の禿げ上がった小男だった。上等な夜着を身にまとってはいるが、その顔は蝦蟇のように醜く、特に、不格好に歪んで横に平たい唇はどこか蚯蚓を思わせた。

「お願いします。娘を……」

「何度も言うておろう。金が無くては診ぬ」

「金でしたら後から払います。今の私の仕事が終われば、お館様から褒美が出ます。ですから……」

「英了……わしはお館様お抱えの薬師じゃ」

 融哲という男は諭すように続ける。

「そもそも、そなたのような身分の者は診ぬ事になっておる」

 融哲は平然と言い放った。

「……あんたとて」

 英了が震える声で返す。カッときて、押さえつけていた何かが外れたのだろう。

「あんたとて、元は俺と同じような下賤の生まれじゃないか。……俺は知っている。貧しかった頃のあんたはこんなに冷たい人間じゃなかった」

 英了は融哲の顔をまっすぐに見て、呻くような声でなじった。融哲は何か言い掛けて口を開いたものの、苦々しげな表情ですぐに口を結んだ。

「帰れ」

 それだけ言うと、融哲は戸に手をかける。英了はすかさずその手を押さえつけた。

「無礼だぞ」

 融哲は頬をひきつらせて英了を睨んだ。

「帰らぬ! いつまでもここにいる……娘を診てもらえるまでは」

 引き下がらない英了に、融哲はわざとらしく溜息を吐いた。

「……貸せ」

 融哲は、英了の腕にしっかと抱えられた娘をもぎ取るように持ち上げた。そして、腕に抱えた娘の白い顔をしばらく眺め、首筋に指の先を当てる。

「もう死んでいるじゃないか」

 ややあって融哲が感情の篭もらない声で告げた。

「え……?」

 英了は言われた言葉の意味がまるで理解できないとでも言うように、まじまじと融哲の顔を見返していた。

「死んでいる。もうわしは必要なかろう。夜が明けたなら寺にでも持って行くがよい」

 融哲は娘の体を英了に押しつけるように手渡す。英了の目の前で、ぴしゃりと叩きつけるように戸が閉められた。

 腕の中の娘の顔を覗き込む。先ほどの激しい苦しみが嘘のように、静かに眠っているかのように見えた。英了は娘の胸に耳を当てる。鼓動は聞こえなかった。


 工房の窓から入る月光に照らされて、閻魔大王像が見下ろしている。水晶がはめ込まれていない閻魔大王の両目は、空虚な闇で満ちていた。

 工房の床に横たえられた娘の亡骸を前にして、英了は膝をつく。先程から英了の唇が何事かをぼそぼそと呟いていた。何を呟いているのか、左之吉にはよく聞き取れなかった。

 英了は、ふと、傍らに置かれた鑿を取り上げた。英了の手の中にある鑿の刃は、青い月光を映してひんやりと輝いている。

 顔を上げる。闇の深淵に繋がるかのような閻魔大王の眼差しと英了の視界とが絡み合う。英了は鑿の刃を逆手に持ち、自らに向けた。

 鑿の刃は、英了の喉に真っ直ぐに、躊躇いも無く突き立てられた。


 左之吉が見る事ができた、英了の「生前の視界」はそこで閉ざされている。

 次に覗く事ができた英了の視界の中には、なんと「本物の閻魔大王」がいた。

 地獄の閻魔王庁の風景だ。英了の裁きが今まさに行われているところだった。

「玻璃の鏡にこの男を映せ」

 閻魔大王が命じ、獄卒達が大きな鏡を英了の目の前に据えた。鏡に英了の姿が映し出される。それを見て、左之吉は頭を殴りつけられたような衝撃を覚えた。

――こいつは……英太郎?!

 鏡に映し出された英了は英太郎と同じ顔をしていた。

――じゃあ、さっきまで俺が視界を覗いていた英了という男……もしや英太郎の前世だったのか? 俺の右目にはめ込まれた英太郎の目玉……それが俺に英太郎の目に宿っていた前世の記憶を見せていたとでも言うのか?!

 混乱する左之吉とは対照的に、鏡に映る英太郎……いや、英了の顔は凍り付いたように無表情だった。生前の記憶の全てが消し飛んだかのように、ただぼんやりと鏡の前に座り込んでいる。

 玻璃の鏡の面が揺らぐ。

 鏡に次に映されたのは、英了が造った閻魔大王像だった。

「ふむ……わしの像か……」

 閻魔大王が興味深そうに鏡を覗き込み、唸った。

「お父っつぁんによく似ているわねぇ」

 不意に鈴を転がすような可愛らしい声が響いた。

「お辰、お前もそう思うか?」

「ええ、人間にもこんな像を造る事ができる者がいるのねぇ……素敵ねぇ」

 お辰の声は、いつも左之吉が聞き慣れているものよりも、いくらか少女らしい響きを持っている。若い頃のお辰はさぞかし可愛かろうと、振り向いてその姿を確かめたい気持ちに駆られるが、如何せんこの体は左之吉のものではない。首を動かす事すら出来るはずはなく、声だけで我慢しなくてはならないのをもどかしく思った。

「よし……この男は地獄へは送らず、しばらくこの閻魔王庁で預かることにしよう」

 閻魔大王が言った。

「大王様……それは一体どういう事で……」

 傍らに控える小野篁が、閻魔大王自らの異例の判断に慌てたように口を挟んだ。

「地上は今、乱世と呼ばれ、人間達の絶え間ない殺しあいが続いているが、それも近々収まっていくであろう。しかし、数百年の時を経れば必ず再び世は乱れる。その時にこの男を地上に転生させ、再びわしの像を造らせよう。地獄の恐ろしさと威容を人間たちの心に刻みつけるためにのう」

「しかし、それまで人間を閻魔王庁で預かる等、異例の事では……」

 篁は、はっきりと異議は唱えないまでも、難色を示すように言葉尻を濁らせた。

「篁よ……そう言うぬしも元々は人間ではないか」

「は……それはまぁ……そ、そうですが」

 小野篁が困惑するように口ごもるのを見て、閻魔大王は、ハハハと口を開けて笑った。英了の造っていた像が余程気に入ったのか、閻魔大王はいつになく上機嫌である。

「死神として使役すれば良い。それならば、ぬしも文句はあるまい」

「死神に……まぁ、それでしたら。幸いな事にこの男からは、既に現世での記憶は抜け飛んでいるようですし」

 渋々ながら、篁も閻魔大王に同意した。

「分かりました。では……。おい、そこのお前達、この男を連れて行け。聞いての通り、裁きは取りやめ、これからはこの男を死神として使う。名前は……そうだな、英太郎、とでも名乗らせておけ」

 篁が獄卒達に命じた。

「これから、あの人が死神の仲間に加わるのねぇ。楽しみだわぁ……ふふ」

 英太郎となった英了は、獄卒の鬼達に両腕をむんずと掴まれて引きずられていく。お辰が楽しげに屈託無く笑う声が背中越しに響いていた。

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