第2話 生き返り

(一)


 松原数馬は人よりも頭一つ分大きい体を縮めるようにして舟に乗り込んだ。

 堀江の渡しを往復する渡し舟は、五人も乗ればもういっぱいで身動きがとれなくなってしまう。

 嘉永二年(一八四九)九月。海から川を渡って吹き付ける風は幾分か冷たい。その代わりに空はよく晴れて日の光がありがたかった。

 数馬は、他の者の邪魔にならぬよう長刀と脇差しを両腕に抱えて端の方に座る。葛西村で江戸の俳諧師を呼んでの句会に招かれた、その帰りであった。

 数馬は江戸川を挟んで葛西村の対岸、堀江村に住んでいる。堀江村は現在の千葉県浦安市に当たるが、江戸時代以前は行徳ぎょうとくと呼ばれる地域の一部だった。特に数馬が住む行徳の南側、海に近い漁村である堀江ほりえ村、猫実ねこざね村は下郷と呼び習わされている。

 強い川風に煽られて渡し舟は幾度も左右に大きく揺れた。川の中程に浮かぶ妙見島を左手に見て、舟はゆっくりと下郷へ向かっていく。

 年老いた船頭は慣れた手つきで櫓を操っている。何かの唄を口ずさんでいるようだが、耳元で鳴る風の音にかき消されてしまい、よく聞こえない。

「先生、知ってっか?」

 すぐ隣にいた百姓のおやじがニヤリと笑って数馬に耳打ちした。数馬のことを「先生」と呼ぶのは数馬が自宅で寺子屋を開いており、この百姓のおやじ・源八の息子・龍吉も数馬の寺子屋に通っているからである。

「船頭のじいさんナ、生き返りだんべね」

「生き返り……」

 言われて数馬は改めて船頭の横顔を見た。見覚えがあるような気がするがすぐには思い出せない。数馬が首を傾げていると源八は続けて言う。

「ほれ、先生も知ってんべ。大蓮寺裏の清吉じいさんよ。耄碌しとった……」

「ああ、あの」

 数馬は頷く。しかし、頷いたもののすぐには得心できなかった。

 清吉じいさんは三年ほど前からぼけ始めた。道をヨタヨタと歩きながら大声で何か訳の分からないことをブツブツとしゃべっていた姿を数馬は覚えている。その時の清吉じいさんの顔は青黒くげっそりとやつれて、目の焦点も合わずに視線をやたらキョロキョロとさせていた。清吉じいさんはとうとう今年の春から動けなくなり、寝たきりになっていると聞いた気がする。

 今、目の前で舟を操っている船頭は、確かに人相をよく見れば清吉じいさんに瓜二つである。しかし、背筋がしゃんと伸び、血色の良い顔をしてハキハキと櫓を漕ぐ船頭と、耄碌してしまった清吉じいさんとが数馬の頭の中で上手く結びつかなかった。

「清吉じいさんが死んだという話は聞かないが」

 数馬も声をできるだけ低くして源八に言った。

「身内で葬式やってる最中にね、生き返っちゃったんだと」

 源八はクク、と喉の奥で笑う。

「生き返って病もぼけも治ったんだと。良いのう。おらも体が悪くなったら一遍死んでみて治してみんべえ」

 舟はやがて堀江村の渡し場に着いた。農作業の道具を抱えた百姓達が一人一人、船頭、いや清吉じいさんに銭を渡して降りる。堀江の渡し船を使うのはもっぱら百姓だ。江戸川の向こうに堀江村の飛び地がある。川向こうに土地を持つ百姓達はいちいち舟に乗って飛び地の畑を耕しに行かなくてはならないのだ。

「清吉じいさん」

 数馬は他の者が舟から降りるのを待ってから立ち上がり船頭に話しかけた。船頭は振り返って、人の良さそうな顔をくしゃりと崩して笑った。やはり清吉じいさんだ。

「生き返ったと聞いたよ」

「へぇ、おかげさまで」

「少し話を聞きたいのだが良いかい?」

 数馬は渡し賃よりも幾分か多い銭を清吉じいさんの日に焼けた掌の上に載せた。

 清吉じいさんはニコニコと笑いながら、へぇ、と頷いた。


(二)


「お帰りなさいまし」

 数馬が屋敷に帰ると、戸を開く音を聞きつけたのか、妻の千鶴の声が出迎えた。奥の間からパタパタと足音がして千鶴が姿を現す。数馬の姿を見てにこにこと明るく屈託の無い笑顔を見せる千鶴はどこか子犬を思わせるようなところがある。

「わしが帰ってきたからと言って慌てて出迎えに来なくとも良い。急に立ち上がって転びでもしたら事じゃないか」

 数馬は頬が緩むのを我慢してわざと厳しい口調で諫めるように妻に言う。

「ですが……」

「何度も申すが、江戸に居た頃の堅苦しいしきたりはここではもう不要だ。それよりも腹の子に障りがある方が大変だろう。今は肩の力を抜いて楽に過ごすと良い」

「はい……」

 千鶴は頬を微かに染めて静かに微笑み、大きく膨らんだ己の腹をそっと撫でた。

 千鶴は数馬よりも五歳年下の妻だ。祝言を挙げたのがもう十年前の事である。数馬が二十三で、千鶴が十八の時だった。

 一年ちょっと前までは江戸深川に住んでいた。江戸近郊の漁村である行徳の下郷に移り住んだのは、なんと言ってもここが数馬の生まれ故郷だからだ。

 数馬の生家・羽多川うたがわ家は下郷の網元で、名字帯刀を許されている程のいわゆる名家だった。数馬は少年の頃から江戸に憧れ、武士に憧れていた。

 江戸川とその支流によって他地域から分断され、時に「陸の孤島」とも呼ばれることさえある行徳下郷に住む少年にとって、江戸という街は近くて遠い大都会であった。

「どうしても武士になりたい」と言って聞かない数馬の熱意に父が根負けして、知人の武家の養子にしてもらい、江戸に出たのが十三の年だ。羽多川家は長兄が継ぐことになっているので、数馬の我が儘も大目に見てもらえた形だった。

 養子に入った松原家は代々幕府の勘定方でお役目を勤める旗本の家だった。松原家の年老いた義父母には子供はなく、数馬を実の息子のように可愛がってくれた。数馬は町道場で剣術を習い覚え、昌平坂学問所で学問を修めた。

 二十二の年に松原家の父が死に、数馬が家督を継いだ。家督を継いだからには妻女も必要だろうと言うことで周りに薦められるままに妻を迎えた。

 その当時の習いで、祝言の日まで顔も知らぬ花嫁であったが、数馬は妻となる娘を初めて見た時に胸の高鳴りを覚えた。決して美人とは言えないまでも、千鶴は暖かで優しげな空気を身にまとっていたのだ。

 それ以来、長い間子宝には恵まれなかったものの夫婦の仲はおおむね睦まじく、穏やかで何不自由無い日々を送ってきた。

 しかし、その数馬にとってたった一つ悩み事があった。義父から受け継いだ勘定方のお役目のことだった。一言で言えば勘定の仕事は数馬には合っていなかったようだ。五つ半(午前八時)に登城し、膨大な量の帳面とにらみ合い算盤を弾き、八つ(午後二時)には帰る。地味な仕事だった。せっかく懸命に習い覚えた剣術も学問も何の役にも立たない。あんなに憧れていた武士とはこんなにもつまらないものだったのかと内心辟易しながら、しかし現実など所詮このようなものなのだと自分に言い聞かせては日々を送っていた。

 毎日の暮らしに倦んだ時に数馬が思い出すのはいつも故郷の事だった。

 貝漁の舟が所狭しと浮かび、荒々しい漁師達のかけ声も賑やかな境川。空の色を映してゆったりと流れ、水鳥達の戯れる江戸川の長閑な風景。そして、三浦岬や富士の山、上総の山々までも見通せ、白い波が寄せ返す三番瀬の浜……。全てが懐かしく、愛おしいとさえ感じる。

 昔は村を出て江戸へ行きたいとあれだけ望んでいたのに現金なものだと自分でも思う。しかし、年を経るにつれ望郷の念を抑え難く、思い悩んだ末、勘定のお役目を辞して故郷の行徳下郷に住まいを移したいと千鶴に告げたのはちょうど二年前のことだ。

「旦那様が育った生まれ故郷、私も見てみとうございます」

 千鶴はそう言って屈託無く笑った。

 居を移すことが決まれば、後の事の進みは早かった。思いとどまるよう助言をする者も少なくなかったが、数馬は頑として聞く耳を持たなかった。

 そして、いざ故郷に帰ってみれば、実家の当主になった兄も、年老いた両親も、数馬達夫妻を思いの外暖かく迎え入れてくれた。

 数馬達は羽多川家の持ち家であった堀江村の小さな屋敷に移り住んだ。暮らしの糧を得るため数馬は寺子屋を開き、近隣の子供達に読み書き算盤を教えることにした。屋敷の庭には小さな畑を作り、四苦八苦しながらもなんとか自ら耕して野菜を作るようにもなった。

 一方で、江戸の武家育ちで箱入り娘だった千鶴を田舎暮らしさせるのは初めはいささか不安もあった。しかし、実家の兄が気を利かせて手伝いの老女を寄越してくれたおかげで、千鶴も手助けを受けながら新しい家の家事や雑事を自らこなせるようになっていった。

 つつましやかな生活だが江戸に居た時よりも気が楽で伸び伸びとできた。それに加えて、今まで諦めていた子宝が千鶴の腹に宿るという吉事にも恵まれたのだ。

 この村に戻ってきて良かったと数馬は己の幸せを今、しみじみと噛みしめている。

「おサクさんに聞いたのですけど、境川の向こうの……猫実村のおトキさん、昨日生き返ったそうですね」

 奥の座敷で数馬がくつろいでいると、隣に座った千鶴が何気ない口調で言った。しゃべりながらも千鶴の視線は手に持った端切れに注がれている。生まれてくる赤子のために襁褓を縫っているのだ。

 おサクというのは、この屋敷に通いで手伝いに来てくれる老女のことだった。噂好きでおしゃべりな婆さんで、おかげで千鶴は家に居ながらも村の誰それがどうしただのどこに行っただのという事を自然によく耳に入れていた。

「なんでもお葬式を挙げて死体を棺桶に入れて、さぁ埋めようという時に棺桶の中からドンドンと叩くような音が聞こえたのですって。開けてみたら、病で死んだはずのおトキさんがひょいっと立ち上がって……それで皆、腰を抜かしたそうですよ」

「また生き返りか……近頃やけに多いみたいだな」

「本当に……。江戸に居た頃は、死んだ人が生き返るなんて話は全然聞かなかったのですけど、こちらに来て驚きました。この辺りでは、生き返りって昔から多いんでしょうか?」

 真面目な顔で尋ねる千鶴に、数馬は「まさか」と言って笑った。

「わしが子供の頃にもそんな話は聞かなかったよ。村の者に聞いてみたらどうもここ二、三年の出来事らしい。不思議なこともあるものだよ」

 千鶴も言うように、数馬が故郷に帰ってきてまず驚いたことの一つにこの「生き返り」があった。一度死んだはずの者がしばらく経ってから息を吹き返すのである。しかも、生き返りは決して稀な出来事ではなく、近年、この行徳下郷を中心としてかなり頻繁に起こっているらしかった。

 数馬は千鶴の話を聞きながら、先ほど渡し舟で清吉じいさんから聞いたことを思い出していた。


(三)


 あの後……数馬が清吉じいさんに話掛けた後も、じいさんはしばらく舟梁に腰をかけて黙って煙管を吹かしていた。数馬も隣に腰をかけて清吉じいさんの口が開くのを待っていた。

 清吉じいさんは川面をじぃっと眺めながら石のように動かなかったが、ややあって、煙管の煙を吸い込む合間にポツポツと言葉を置くように、自分が生き返った時の事を話し出した。


 ……心がね、ずっとぼんやりしとってね。周りの奴ら、全部キツネが化けたのに見えちまってキツネ追い払わなくちゃなんねぇって毎日歩いてただよ。今思えば、あれがボケたっちゅうことなんだんべな。うちのおっ母にも迷惑かけただな。

 だんだん体が重くなって動かなくなってきちまったっけ、寝ながらずっとぼんやりして天井見てただね。ぼんやりしてたっけ、ああ、おらぁ死ぬだなって思ってよ。体動かねぇしぼんやりするしで、しんどいことばっかだ、早うお迎えが来んかいな思っとっただよ。

 そしたらある日よ、ふわぁっと白いピカピカした光がおらの体を包んでナ、白い光の中に若けぇ男が一人立っておらの方に手招きしてるだ。知らん男だんべな。そえでも、そいつが手招きするとおらはふらふらっと手招きされるほうへ足が動いただ。動かねぇはずの体が軽くなって嘘みてぇに動くだよ。

 ああ、こりゃあとうとうお迎えだんべ、思っただ。

 そうすっと、男の後ろから雲みてぇな霧みてぇな、もやもやっとした青黒い影がぬっといんのよ。おらに手招きしてた男をぐぅっと押し包んで呑み込んじゃっただよ。ほえで白い光もぱっと消えちゃって。夜みてぇな真っ暗闇になっちまったなぁ。真っ暗な中でおろおろしてっと、経文唱える声が流れとってナ、だんだん大きくなるだ。うるせぇなぁ、と思っておらぁ目を開けただ。したら、そこぁおらん家だ。おらの周りにはおっ母も息子の太一郎も、嫁も孫たちも、隣近所のやつらもみぃんな集まってて,大蓮寺の和尚も口開けっ放しにしておらを見てんよ。

 おらも驚いたけどよ、みんなはもっと驚いたんべな。死んだはずのモンが生き返っちゃったんだから。

 おらの生き返りの話っての、こんなもんだね。

 今じゃあこの通り体も動くし、周りの奴らがキツネん見えることもねぇし、仕事もまたできっからな。不思議なこともあるもんだんべ。長生きはしてみるもんだな……ま、一遍死んじゃったんだけんどね。は、は、は……。


 そう言って清吉じいさんは口を大きく開けて笑ったのだった。


(四)


「黒い影……」

 数馬は我知らずにポツリと呟いていた。

「あら、知っていらしたんですか?」

 端切れと針を傍らに置いて肩を回しながら千鶴が言った。数馬は思わずドキリとした。

「生き返った人は皆、生き返る時に黒い影のようなものを見るのですってね。なんでも、おトキさんは……死んだ時に白い光の中で誰か手招きをしている人を見て……その誰かは黒い影に呑み込まれて消えてしまったのだとか」

「いささか怪談じみた話だな」

「ええ、少し不気味に思います」

 千鶴は首をすくめて笑った。千鶴にとってはただの世間話のひとつのようだ。数馬も何でもない話のように受け流す。しかし、数馬は内心、得体の知れない不安がどす黒い染みのように胸にじわじわと広がるのを感じていた。

 数馬のその不安の底にあるのは、先程、堀江の渡しで出会った清吉じいさんの話や、千鶴が噂に聞いた猫実村のおトキの話だけではない。実はその他にも、数馬は「ある理由」によって前々から生き返った人たちの話を密かに聞いて回っていたのだった。

 数馬が調べたところによると生き返りの話には幾つかの共通する事柄がある。

 まず、死んだ直後、白い光に包まれ、その光の中に見ず知らずの人が立ち、手招きをしているということ。手招きをしている人物は男だったり、女だったり、若かったり、年老いたりして、その時々で異なる。

 次に、光の中で手招きをしている人物は、突然現れた黒い影に襲われて呑み込まれてしまうということ。そして、手招きをする人物を影が呑み込むと途端に光が消え辺りが真っ暗になる。生き返った者達は、その暗闇の中を通ってこの世に戻ってきたのだという。

 さらに、生き返った者達は体に何の異常もなく、健康的に日常を送っているということ。死ぬ前に持病があった者は、生き返った後は病が癒えてすっかり元気になっていた。大きな怪我を負って死んだ者も、傷跡は残るものの、怪我のために体が不自由になったりなどせずに支障なく日々を送っているようだった。

 しかし、このように共通項は見つかるものの、これらがどう繋がり何を意味しているのかは、いくら頭を捻ってみても数馬には皆目分からないままだった。

「おうい、カズはいっかい?」

 戸の外から胴間声が聞こえてきた。数馬のことをカズと呼ぶのは一人しかいない。 

 立ち上がろうとする千鶴を手で制して、土間に降り戸を開ける。

 ねじり鉢巻きをした五郎蔵が立っていた。五郎蔵は数馬の幼なじみで、今は船大工の仕事をしている。村を長く離れていた数馬をこうして昔のあだ名で呼んでくれるのは五郎蔵くらいなもので、数馬は内心そのことをとても嬉しく思っていた。

「どうした、五の字?」

「浜の方が騒がしいみてぇでよ。人が集まっとるらしいだね。カズならなんか知ってんべかと思ってな」

「さぁ……わしもさっき帰ったばっかりだ」

「どうもなぁ、漁に出てた若い衆が青い顔して戻ってきてナ、生き返りじゃあ言うて大慌てしとるだ」

「また生き返りか……」

 数馬は呟いたが、どうも腑に落ちなかった。不可思議ではあるが、ここ最近では死人が生き返ることは日常茶飯事となっている。誰が生き返ろうとも、剛胆な海の男たちが今更慌てふためくようなことではないように思えた。

「とにかく浜へ行ってみるか」

 数馬は五郎蔵ととも様子を見に行ってみることにした。千鶴に外出を告げ、貝殻の欠片が撒かれた道をシャリシャリと音を立てながら、二人とも早足で歩き、浜へと向かった。

 猫実村の松並木を越え、海を臨む三番土堤に登ると、浜には既に二十人ばかりの人が集まっているのが見えた。皆、一様に押し黙り海の方を眺めている。その場には異様とも感じられる静かな緊張感が漂っていた。

 数馬達も人の群の中に加わり海の方を見やった。「沖の百万坪」とも呼ばれる遠浅の海はちょうど潮が引いたところで、平らかな砂浜が一面に広がっていた。そろそろ日も沈みかけようという時分で、橙色の光が浜辺を穏やかに照らしている。いつもと変わらない風景だ。

 しかし、じっと目をこらしていると夕陽の中を誰かが海の方からゆっくり歩いてくるのが徐々にぼんやりと見えてきた。足を怪我しているのだろうか。がくん、がくん、とよろけるような妙な歩き方だ。

――おお……い……おぉーい……

 その人はこちらに向かって呼びかけているようだった。

 首を異常に前に突き出し、両腕をだらんと下げて、足を内股気味にしてガックンガックンと歩いてくるその人の姿が、近づくにつれ次第にはっきりしてくる。

――おーうい……おー……い……

 声は続いている。

 数馬はついにその姿を明確に認めた。

「うっ……」

 息を呑んで思わず手で口元を覆う。全身に粟立つような鳥肌が立ち、吐き気が喉元までこみ上げていた。

 それは「崩れかけの人間」だった。

 青黒く染まった皮膚はとろとろに腐敗してぶくりと膨らみ弛んでいる。右目は崩れ落ちたのか真っ黒な眼窩が開き、左目の瞳は灰褐色に濁っていた。口の辺りの皮膚は既に削げ落ちており、茶色い歯が剥きだしになっている。その上、体中の関節は妙な具合にあべこべに曲がっていて、ガクリガクリと揺れるように動くのはそのせいらしかった。じくじくと青黒く腐敗した真っ裸の体には海藻がべっとりと貼り付き、そこかしこにフナムシが這い回っていた。

――お……おお、いぃぃ……おーい……

 唇を失った口がゆっくりと動き、声を発する。一体誰を呼んでいるというのか。

 浜に居並んだ人々は皆一様に言葉もなく、ただ呆然としてこの奇怪な光景を眺めている。

 漁師たちが驚き慌てて逃げ帰ったというのは、この化け物を見たからだったのか。しかし、これが「生き返り」だと言うのは……。

 その時、突如として女の悲鳴が静寂を引き裂いた。

「うちの人だぁ……! うちの人だよぉ!」

 おごうという若い女だった。確か半年ほど前に村の青年のもとに嫁いできたばかりだった。しかし、婚礼から四月と経たないうちに持ち舟が沖で転覆し、夫の竹造は帰らぬ人となってしまったと聞く。

 おごうは崩れるようにその場に座りこみ、両手で顔を覆っていた。傍目から見ても分かる程、肩が激しく震えている。

「おごうさんよぉ、そんなはずはねぇべ。タケさんは葬式だってあげたし……」

 若い漁師がおごうを宥めようと声をかけた。

「けどよ……タケさんの体はまだ見つかってねぇだろ」

 その隣で別の漁師がぽつりと呟いた。

――おおおお……いおおおうぅい……

 近づいてくる。呼び声はより一層大きくなり、うねるような旋律で浜に響きわたった。

「先生……!」

 おごうは急に顔をあげ、数馬を見つけると驚く程の速さで四つん這いで這い寄ってきた。髪を振り乱し、涙と鼻汁にまみれた顔を上げておごうは数馬の袖に縋りつく。目の中に狂気のような光が見え、その視線だけで数馬を逃すまいとしていた。

「おごうさん……」

「斬ってやってください! あの人斬ってやって!」

 数馬はひるんだ。自分にあの化け物と対峙しろというのか。

「斬って! お願い! 斬ってやってよおおお……!」

 懇願する声はもはや悲鳴に近かった。おごうは数馬の腕を掴んだ。おごうの爪の先が数馬の腕に食い込む。

 数馬は溜息を吐いた。片手でおごうの手を握るとその手をゆっくりと腕から引き離す。

 覚悟を決めた。死に物狂いで数馬を頼ってくるこの女の視線の縛りからは逃れられそうにない。

 鯉口を切り、刀を鞘から引き抜く。すらりと伸びた刀身は海辺の残照を映して冷ややかな光を放っていた。

 数馬は江戸の町道場での稽古の記憶を必死に引っ張り出そうとしていた。ある程度の剣術の基礎なら一通り身に付けはしたが、数馬の剣の腕は弱くもなければ特に強くもないといった程度だった。それも道場での竹刀を使った稽古の上でだけのことで、真剣で斬り合う経験など勿論あるはずがない。しかし、あの化け物がもし反撃に出て数馬に襲いかかってきたならば、それ相応に対処しなければならないだろう。

――おおおおおお……いい……うおおおお……

 近づいてくる。化け物はすぐ目の前だ。数馬は刀を右手にぶら下げて砂浜へ踏み出した。濡れた砂に足が沈み込む。歩きにくいと思った。当たり前のことだが道場の板の間とはまるで違う。

 化け物との距離が縮まった。強烈な腐臭が鼻を刺す。思わずウッと呻いた。口の中に酸っぱいものがこみ上げるが必死に耐える。

 化け物は目の前に立つ数馬のことなど全く気にも留めないようだった。おそらく見えてはいないのだろう。ただ、不気味な呼び声を上げ、体をガクリガクリと揺らしながら一歩ずつ一歩ずつ前進していた。

 数馬は刀を正眼に構え、臭いにやられないよう息を止めて相手を真っ直ぐに見る。腐り切って崩れ果てた青黒い顔を見つめた時、数馬はふと、その中に真面目で無口で優しかった近所の青年の面影を認めた。

――竹造……本当にお前なのか!

 心の内で数馬は呼びかける。それと同時に体は自然に動いていた。

 左肩から袈裟懸けに斬りつけた。かつて道場の稽古で藁束を斬った時よりも遙かに軽い手応えであった。変わり果てた竹蔵の体は真っ二つに裂け、砂の上に転がった。背後からどよめきが起きる。

 数馬は刀の柄をしっかと握ったまましばらくその場を動けないでいた。動悸が激しい。今になって体の芯から抑えきれない震えが湧き上がってきていた。

「カズ!」

 五郎蔵が数馬の後ろに駆け寄ってきた。

 その時だった。

――おおー……い……おおお……いいい……

 数馬は、いや、その場にいた誰もがぎょっとした。

 胸から上を切り離された竹造の口から、なおもあの声が響いていた。

――おおおい……おお……いぃ……おぉぉ…………

 声は次第に小さくなり、ついに止んだ。数馬は足下に転がった竹造の頭を見下ろす。風が吹いた。竹造の体は風に吹き散らされるようにさらさらと崩れた。さらさらと、さらさらと、まるでもとから砂でできていたかのように。終いには竹造の胴体も頭も砂と一体化してしまい、風に吹き散らされて夢のように消えてしまっていた。

「カズ、こりゃあ一体……何が起こってるんだんべぇ……この海で」

 五郎蔵が呆然と呟いた。数馬は五郎蔵を振り返る。だが、数馬とて何も答えることはできない。

 数馬は口を閉ざしたまま刀を鞘に納めてふと空を仰いだ。いつの間にか日は沈み切っていた。天には星が瞬き出し、夜の青い薄闇が静まり返った行徳下郷の村をひっそりと包み込んでいる。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る