青闇妖影鬼談

三谷銀屋

第1話 死神の禁忌

(一)


 びゅっ……

 刑執行人の獄卒が三日月の形に反り返った巨大な鎌を素振った。空を切る音が鳴る。

 その音を聴いた瞬間、左之吉は背筋に冷たいものが走り抜けたように思った。悪寒を振り払うように、チッとわざと大きく舌打ちをする。

 この日、地獄の空は厚い雲に覆われ、白茶けた色に塗り込められていた。じっとりと硫黄の香を含んだ生ぬるい風が吹く。地を這うようにゆるゆると吹き続ける。

 刑場は、濡れたような黒い石がごつごつと敷き詰められた荒れ野だった。百人あまりの者が集まっていた。群衆たちは歪な半円をなして広がっている。その中心には、五人の罪人が青い顔をして力なく座っている。五人とも腕を後ろ手に縛り上げられていた。そして、その背後には、肩をいからせ、肌の赤黒い筋骨隆々の獄卒……鬼が控える。頭上の角を光らせて恐ろしげな顔だ。鬼の手には、ぎらぎらと光る大きな首切り鎌。

 この禍々しい鎌によって今しも首を切り落とされそうになっている罪人達は、もとより普通の人間ではない。五人とも地獄の死神である。罪を犯した死神を、閻魔大王の命の下に罰しようというのだ。

 五人の周りに集まっている群衆も、やはり死神達だ。仲間に刑が下されるのを固唾を呑んで見守っていた。左之吉も、その中の死神の一人だった。

 刑執行人の鬼のさらに背後には、黒地の束帯の裾を風にたなびかせた古風な身なりの長身の男が立つ。色白で、鼻筋がくっきりと通っている。唇は紅を刷いたように赤い。彼の名は小野篁おののたかむら。閻魔王庁の書記官長だ。閻魔大王の名代として刑に立ち会っている。彼は死神ではなく人間だ。しかし、永遠の命を賜り、地上が徳川の御世に代わるよりも、さらに数百年前から生きているという噂だ。

 篁がおもむろに一歩前に進み出る。鬼が巨大な鎌を軽々と振り上げ、そして止まった。

 見ている死神達の間に緊張が走る。一方で、鎌の餌食となるべき罪人達はもはや覚悟を決めたものか、ただ無表情にぐったりと座り込んでいる。

 篁はさっと右手を上げた。

 鎌が振り下ろされる。再び、びゅっと鋭く風を斬る音。

 五人の頭が並んでぽぉんと宙に飛び、ぼっと火に包まれた。首を失った体からもメラメラと赤い炎が噴き出す。炎は瞬く間に五人の体と頭部を焼き尽くし、そして消えた。

 後には何も残ってはいない。五人の死神は消えたのだ。

 魂を現世うつしよから冥府に運ぶだけの存在として生み出された死神に生死はない。ただ消えて、存在が無に帰するだけだ。それが罪を犯した死神に対する最高刑であった。

 死神の罪とは、死んだはずの死人の魂を手順通りに冥府に連れてこないことだった。

 死神に拾われずに現世に取り残された死人の魂はやがて砕け散る。砕けた魂は輪廻の中に組み込まれず、二度と現世に生き返ることはできない。それだけでも死神の罪は重い。

 しかし、それもまだ良いほうで、生前の恨みの強い魂を放っておくと、やがてあやかしとなり、祟りをなす存在になる。

 刑に処せられる五人は、拾うべき魂を拾い損ね、不運にもその魂が悪霊と化して現世の人々に災いをなしたのである。

 世の理として決してあってはならないことだ。しかし、どうしても度々起きてしまうことではあった。江戸近郊だけでも、毎日数え切れない程の人間が逝く世の中にあって、全ての死者の魂を拾いきることは難しいのだ。閻魔大王はそれも全て分かった上で、それでも時折、気まぐれのように死神の刑を執行する。

 見せしめのためだ。

「くだらねぇな」

 刑の余韻が空気を圧迫し、静まりかえった死神達の輪の中から、突如、声が上がった。死神達は皆、ぎょっとして振り返る。

 声を出したのは、左之吉だった。

 小野篁は紅い唇をきゅっと歪めて左之吉を睨んだ。しかし、何も言わない。左之吉も口元に皮肉っぽい笑みを浮かべながら無言で篁を睨み返す。

 左之吉の隣にいた死神が「おい」と囁いて左之吉の袖を引っ張った。左之吉と仲の良い作衛門という死神だった。

 左之吉は作衛門の手を振り払い、踵を返す。篁に背を向けた左之吉の前で死神達が道を開けた。作衛門が「待てよ」と言いながら左之吉の背中を追いかけた。


(二)


「冷や冷やしたぞ」

 作衛門が言った。

 刑場の人混みの輪の中から逃げ出した二人の死神、左之吉と作衛門は、今、三途の川を渡る小舟の上にいる。地獄の岸辺から、現世に繋がる三途の川を横切り、その向こうの対岸へと二人は向かっていた。舟の上に立ってギイギイと軋む音をさせながら櫓を漕いでいるのは骸骨姿の渡し守だ。

「あの場であんな事を言えるのはお前くらいだ」

「何も言わねぇ方がどうかしてるぜ。皆、閻魔大王に怯えすぎだ。だから良いように使われた挙げ句に消されちまうんだ」

 左之吉は鼻で笑った。角張った顎に太い眉。どこか愛嬌のある顔立ちだ。

「消された奴らもそうさ。なぜ抗おうとしない? 人間だって死ぬ間際に、死にたくねぇと言って泣き叫ぶ。ところが、今日消された死神の奴らと来たら、ただぼんやり座って首刈り鎌の前に黙って首を差し出していやがった。間抜けすぎるだろう」

 左之吉の声には、憤りと嘲りが含まれていた。

「死神の運命は閻魔大王の掌のうち……そう思いこんでいるからな」

「馬鹿な話だ。俺も死神だが、その前に俺は俺だ。たとえ消されるにしても運命とやらには抗うさ」

 左之吉は前を向いてきっぱりとそう言い切る。作衛門はそんな左之吉を眩しげに見つめた。

「随分と威勢の良い事を言うんだなぁ」

 作衛門はうっすらと自嘲の混じった笑みを浮かべる。

「俺も他の奴らと同じだよ。死神の運命に従って、ただ従順に魂を運んでいるだけだからな。お前のように堂々とお上に逆らうような真似は怖くてできない。だが……」

 作衛門は一呼吸置き、そして、真っ直ぐに顔を上げる。

「もし俺が消されるような時は、せめて最期にひとあがきくらいはしてみたい……お前の言うように」

 左之吉は作衛門の肩を叩いて笑った。

「お前は消されないだろう。消されるようなヘマはやりそうにない」

 確かに作衛門はヘマなど踏みそうにない、慎重な死神だった。言われた通りのことを言われるままにこなし、上にも周りにも逆らうようなことは決してしない。

 それに対し、左之吉は自ら進んで問題を引き起こすような地獄一の厄介者だ。上役に対しても、書記官・小野篁に対しても不真面目な態度をとり続けており、時に反抗的ですらある。そして、本人もわざわざ反抗することを楽しんでいるようなところがあるので余計に手に負えない。

 真面目に勤めに励んでいる死神ですら罪を負い消されてしまうことがあるのに、面倒事ばかり起こす左之吉が消されずに死神を続けられているのが不思議だ、と皆が口を揃えて言う。そこは本人の要領の良さと言うべきか、決定的な「罪」となる一歩手前で毎回踏みとどまってはいるのだ。


 舟は三途の川の対岸の船着き場に着いた。

 左之吉は勢い良く飛び降りる。後ろを振り向くと、作衛門はまだ舟に乗ったままで降りる気配がない。

「このまま仕事か?」

「ああ」

 作衛門は頷いた。舟に乗って三途の川を遡れば現世に行くことができる。死神であれば現世まで歩いて行くこともできるが、便宜を考えて舟を使う者が多い。特に、海や川で死んだ者を迎えに行く場合はなおさらだ。

「行徳沖に」と作衛門は言った。左之吉はすぐに場所が思い浮かばなかった。

「江戸より東側にある漁村の沖合だ。葛西村よりも向こうの……」

 そこに迎えに行くべき魂があるのだろう。

「そうか。気をつけて行けよ」

 左之吉は、再び岸を離れようとする舟に乗った作衛門を見送る。

「ああ、そうだ」

 作衛門は急に何かを思い出したように岸辺に向かって声を出した。

「英太郎のやつは達者か?」

 作衛門は左之吉の同居人のことを聞いた。

「しばらく目玉を買いにいっていない。今度行くと伝えておいてくれ」

「わかった。伝えておく」

 左之吉は軽く手を上げて答えた。

「目玉の用事がなくっても、来てくれりゃあ、あいつは喜ぶよ」

 舟は徐々に遠ざかる。最後の左之吉の言葉は作衛門に届いたか分からない。骸骨の船頭の漕ぐ舟は意外に船足が早く、川の流れをぐんぐんと遡り、次第に小さくなり……そして不意に消えた。舟は現世に行ったのだろう。

 左之吉は作衛門は見送ると、青草の茂る堤を登った。小高い堤の道に沿って川上のほうへゆっくりと歩いていく。道の向こうには、「目玉売り屋」がある。そこが左之吉の帰るべきところであった。


(三)


「酒を飲むのはいいが、たらいの中にこぼすなよ」

 帰ってきたばかりの左之吉が湯のみになみなみと注いだ酒を目玉売り屋の店先で呷っていたら、店の主である英太郎に釘を刺された。

 小うるさい奴だ、と内心思いながらも左之吉は言い返しはしない。黙って酒を干した。

 店の土間に所狭しと置かれている大きな五個の盥からは、時折、ぴちゃりぴちゃりと水がはねる音がしている。目玉が泳ぐ音だった。

 ここは目玉売り屋だから、当然のことながら目玉が売っている。それは、あやかしや妖獣の眼球だったり、時に、神様の眼球だったりする。

 英太郎が土間に空の盥を置いた。両手でやっと抱えることができる程に大きな盥だ。その盥に英太郎が水差しで水を注ぐ。盥は冷たそうな透明な水で満たされていく。水差しの水が尽きると、次に英太郎は傍らに置いた小さい手桶からころんとした円い物を掌に掬い出した。目玉だ。英太郎の白い手の上から目玉はするりと盥の水の中に静かに滑り落ちた。英太郎はひとつずつ丁寧に手桶から目玉を掬い出しては、盥の中に入れる。目玉達はひょろっと長い尾をくねらせて、まるで生きた魚のように水の中を泳ぐ。女のように切れ長な英太郎の目が、盥の中の目玉達を真剣に見つめている。左之吉が柱に寄りかかって見ているうちに英太郎は十五個の目玉を盥に移した。

 目玉はどれも大きさが少しずつ違い、瞳の色も違う。元の持ち主の妖力が強ければ、目玉自体にも妙な力が宿っていたりもすることもある。

 買いに来るのは、主に閻魔王庁の役人か死神か獄卒だ。気分や日によって目玉を取り替えるのが粋で風流なのだそうだ。英太郎の店のおかげで、両目の瞳の色を違えている奴や毎日のように目の色が変わる奴が増えた。左之吉自身は目玉売り屋と一緒に住みながらも、自分の目玉を取り替えようと思った事等一度もない。しかし、地獄にはそういう事を楽しみにしている連中も少なくないのだ。

 不意に、ごぽり、と音がした。地の底から何かが湧き上がる音だ。左之吉は空を見上げる。

「夜が来そうだな」

 左之吉の言葉につられて英太郎も顔を上げた。

 三途の川の上の空は青く澄んで、明るい光に満ちている。

「俺にはわからねぇが……」

 英太郎は空を見ながら目を細めた。

「お前が言うのなら来るんだろう」

 地獄の「夜」は地上の夜とは違う。地獄には一日のうちに巡り来る昼夜というものはない。数十年に一度、あるいは数百年に一度、闇が訪れる。そして、その闇は数日で消えることもあるし、何年、何十年と続くこともある。それを地獄に住む者達は「夜」と呼ぶ。

 夜の来る気配は左之吉には何とはなしに分かる。いわゆる妖力というやつだ。しかし、死神ではなくなった英太郎には夜の気配は分からない。

 英太郎が死神を辞めて目玉売り屋を始めてからどれくらい経ったか。左之吉もはっきりは覚えていないが百年かそこらだろう。

 英太郎はかつて禁忌を犯して罪を負った。しかし、消されなかった。死神でなくなり、妖力が弱められて、目玉売りになった。それだけだった。

 左之吉は、先ほど目にした刑場の景色を思い出す。斬られた首が宙に飛び、炎に巻かれて跡形も無く消えた「罪人たち」。

 英太郎はあの者達よりも遙かに大きな罪を犯した。死んだはずの者を生き返らせてしまった。幼子を遺して逝った貧しい母親が哀しむのに同情して、現世に還してしまったのだ。

 生死の理を乱す「生き返り」は最も重大な罪であり、禁忌だ。

 なのに英太郎だけは消されない。死神でなくなることも許された。なぜなのか。英太郎自身もおそらく分かっていない。

 左之吉は英太郎の秘密を知りたいと思った。

 罪を犯しても、なお、その身を消されない秘密を。

 死神であることから解き放たれた秘密を。

 だから、百年前、左之吉は半ば押しかけるような形で英太郎と一緒に目玉売り屋で暮らし始めたのだ。

 百年という月日は地獄に住む者にとっても決して短いというわけではない。しかし、近くに暮らして月日を重ねたとしても、依然として左之吉には英太郎の「秘密」を知ることはできていなかった。ある程度推測ができる部分もあることはあるが、はっきりと確証を得ることができるようなものは、やはり見つからない。

「おい」

 仄かな酔いの気分に任せて左之吉がぼんやりと考え事をしているうち、英太郎がふと何かに気が付いたように顎でしゃくって空の向こうを示した。

「三つ鴉だ」

 左之吉も空を仰いだ。

 蒼天を背にして黒い鳥影が見える。風に乗って滑空してくる。近づくにつれ、バサリバサリと豪快な羽音も響いてきた。

 三本の足、三枚の翼、そして三つ叉の頭……漆黒を纏う異形の鳥・三つ鴉は、閻魔大王の一人娘・お辰の使い魔である。

「よお、何かあったのかい?」

 英太郎が腕を差し出すと三つ鴉がその腕にバサリと舞い降りた。一瞬、強いつむじ風が舞う。盥の中の目玉達が突然の風音に驚いたように、バシャバシャと水をはね飛ばした。

 三つ鴉の真ん中の頭がカァ! と大きな声で鳴いた。右の頭と左の頭はそれぞれ何やら文らしきものをくわえている。左の頭は英太郎に、右の頭は左之吉に、それぞれ、文を差し出した。

「お辰からか? 恋文かもしれねぇな」

 左之吉は急に色めき立ってニンマリと頬を緩ませて文を開く。そんな左之吉を見て、英太郎は呆れたように「馬鹿言え」と呟きつつ自分の文を開いた。

 英太郎宛ての文は、目玉の注文を書いたものだった。

 流行物が好きで粋好みなお辰は英太郎の店の常連客なのだ。お辰自身が店を訪れて自ら目玉を選ぶことも多いが、閻魔大王の片腕として仕事をこなすお辰は何かと多忙である。忙しくて三途の川を渡る暇もない時は、こうして三つ鴉を使いに寄越すこともしばしばであった。

 英太郎は三つ鴉を肩にとまらせたまま、注文の目玉を見繕い、盥の水の中からすくい上げる。瑪瑙色の瞳の目玉と、珊瑚のような薄紅色の瞳の目玉。二個の目玉を朴の葉でくるみ、三つ鴉の脚の一本に紐で括りつけた。

「おい、見てみろよ。やっぱり恋文だぜ」

 左之吉は有頂天な様子でニヤニヤしながら英太郎を肘でつつき、英太郎に自分の文を見せる。

「……恋文? どこがだ? ただの呼び出しじゃねぇか」

 英太郎は文を覗き込みながら怪訝そうな顔をした。

「馬鹿っ、よく読めよ。呼び出してる場所が問題だ。お辰の部屋なんだよ」

「だからどうしたってんだ」

「鈍いやつだな。お辰の部屋なんて滅多に行けるところじゃねぇだろ。そこで俺と二人きりで会いたいと言ってるんだ。それは、まぁ、そういうことだ。恋文と一緒だろう?」

 左之吉の口調に熱がこもる。英太郎はあきれ果てたように大きな溜息を吐いた。

 そんな二人の頭の上に広がる空は、いつの間にやら薄暗い群青色を滲ませていた。左之吉が言った通り、地獄の「夜」がやってきたのだ。

 三つ鴉の頭は、三つの声を揃えてカア! と鳴いた。闇の気配を漂わせた不穏な空へと、黒い翼をはためかせながら再びバサリと舞い上がっていく。


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