第3話 夜の闇と夕月

(一)


 英太郎は店の前に立って暗い空を見上げていた。

 地獄に、そして三途の川に、夜が来た。しかし、まだ完全な闇夜ではなかった。黄昏時の夕闇に似て、光のかすかな残照を含んだ仄青い闇だ。

 闇の向こうを透かせば、三途の川の中で逆巻き、白い飛沫を上げる水の流れが妙にくっきりと映えて見える。

 左之吉が言っていた通りになった、と英太郎は思った。左之吉が感じ取った地獄の底から伝わる夜の気配……百年も前ならば、自分にもその気配が分かっただろうか。

 死神を辞めてから、徐々にではあるが、妖力は確実に失われていく。己に宿る妖力が完全に消えた時、自分は一体どうなるのであろうかと、英太郎は時折考えることがある。

 妖力が無ければ、ただの人間と同じことになるのかもしれない。しかし、英太郎は人間ではない。もはや死神でもないし、かと言って、あやかしでもない。

 自分は一体、何というモノなのか。

 そんなことに漠然と思いを馳せていると、このまま心が夜の闇に溶け込んで二度と戻って来られないような気分になる。英太郎はそれ以上考えることを止めた。

 ちゃぽり、ちゃぽり、と、目玉達が水をはね飛ばす音。ざあざあと絶え間なく響く三途の川のせせらぎ。他に何の音もない。静かだ。

 静寂の中に一人で佇んでいると余計なことに心が捕らわれる。

 こんな時に左之吉がいてくれたら、とふと思う。破天荒で騒がしい奴だが、いれば気は紛れるし、いなければ妙に寂しい気がする。

 しかし、その左之吉は、今、お辰に呼ばれて三途の川の対岸の冥府に出掛けていってしまっている。どんな用向きかは知らないが、左之吉は、逢い引きの誘いに違いないと言い張って嬉しそうだった。

 お辰にちょっかいを出すのは止めておけ、と英太郎は何度か左之吉に忠告したことがある。閻魔大王の一人娘を相手に万に一つでも何かあれば、どんな罰を受けるか知れたものじゃない。最悪、存在を消されるかもしれない。しかし、左之吉は英太郎の言うことにも全く聞く耳を持たない。英太郎も最近では諦めていた。お辰の方も、わざと冷たい態度ではいるものの、おそらく腹の底では左之吉のことは心憎からず思っている。いくら気を揉んだところで結局、あの二人はなるようにしかならないだろう。

 店先に立って、青闇を見つめながらあれこれ考えを巡らせていたら、目の前をふいっと淡い光の塊が横切った。人魂だ。普段は気が付かないが、闇の中で見ると意外に明るく瞬いている。また、ひとつ……先ほどよりも小さな人魂がふわふわと飛んでくる。英太郎は反射的にさっと手を伸ばした。人魂の光は逃げることもせず、英太郎の掌にすっぽりと収まった。あまりにも容易く捕まえられたものだから拍子抜けする。

 何か入れるものは無いかと見渡せば、店の土間の片隅に小さな竹籠が転がっていた。英太郎は竹籠に人魂を放り込み、蓋をした。籠の目は粗いので、蓋を閉めても人魂の光が外側に漏れている。籠に紐を括りつけ、店の軒先に吊す。仄かな光ではあるが、だいぶ手元が見やすくなったように感じる。咄嗟に思いついたものだが、急場の灯りとしては案外使い勝手が良いかもしれない。

 気になるのか、盥の水の中から目玉達が人魂の入った籠をじぃっと見上げている。色とりどりの瞳が、人魂の光を映して、てらてらと輝いていた。

 その時だった。

「ご亭主……ちょいと良いかね?」

 不意に背後でガラガラとしわがれた声がした。振り返る。店の前に古ぼけた編み笠を目深に被り、腰を折り曲げた老爺がいた。客か、と英太郎は思った。しかし、初めて見る客だった。籠の目から漏れる人魂の光の下、編み笠の影が余計に濃くなっているようで人相は全く分からない。

「目玉ぁ買うてくれんかね?」

 彼は言って、唐突に枯れ木のように細い、赤茶けた手を英太郎に突き出した。皺だらけの掌の上にコロンとした小振りの目玉が載っている。

「目玉買うてくれ」

 老爺は重ねて言う。

 目玉売り屋は、売るための目玉を仕入れることもまた大切な仕事のひとつである。英太郎のもとにあやかし達が己の目玉を売りにやってくるのも珍しいことではなかった。

 この老爺、風体から察するに、冥府で働く者ではなく、おそらく通りすがりの下等なあやかしの類であろう。

 英太郎は何も言わずに、差し出された目玉を指先で摘んで持ち上げ透かし見た。美しい円の輪郭を描く眼球はうっすらと靄のような光を帯びている。

「青い瞳か……」

 英太郎は目玉を掌の上でゆっくりと転がしながらポツリと呟いた。深くて暗い青の瞳だった。まるで今日の空の色のようだ、と英太郎は思う。

「幾ら欲しいんだい? それとも他の目玉と取り替えるのかい?」

 英太郎は振り返って老爺に問うた。瞳の色が地味なのが気にかかるが、形も白目の色もそこそこ良いので、それなりの値で買い取ってやろうと思った。

「銭ぁいらねぇ」

 しかし、老爺はケ、ケ、ケ、と乾いた笑い声を立てて言った。

「替わりの目ン玉もいらねぇなぁ。俺は、ほれ、沢山持ってるんだよ」

 彼はくたびれた着物の袖をまくった。よく見ると細い腕には、弛んだしわの間に埋め込まれるように五、六個の目玉があり、その一つ一つがぼんやりと光りながらギロギロと蠢いていた。片方の掌にも目玉はあった。しかし、もう片方の掌には目玉はなく、べこりとへこんでいる。英太郎に渡されたのは、この掌にはめ込まれていた目玉だったのかもしれない。

 老爺……いや、老爺らしきモノは剥き出しになった腕を持ち上げた。掌と腕の眼球で英太郎をじろじろと見ているようだった。いい気分はしない。英太郎は思わず半歩後ずさった。

「お前さん、あやかしじゃあねぇなぁ。人間でもねぇ」

 掌と腕に光る目玉達は全員ぴたりと動きをとめて英太郎をじっと見ている。

「死神でもねぇのか。半端なヤツだな。だから三途の川なんぞにいるのか」

「……からかう気なら帰ってくれ」

 英太郎は不機嫌になった。相手に目玉を突っ返そうとする。

「こっちも商売でやってんだ。あんたの遊びにゃあ付き合ってられねぇんだ」

「遊びじゃあねぇ」

 老爺らしきモノは顔を上げた。編み笠の下の顔が露わになる。目も鼻もなかった。あるのは耳まで裂けた大きな口。人魂の放つ仄かな明かりの中で、真っ赤な唇がぬらぬらと光りながらニタリと笑った。

「その目玉はお前さんが使うといいぜ」

 蚯蚓みみずのような歪な唇が震えながら言葉を紡ぐ。

「どうせお前さんはこの場所から離れられない身なんだろう? しかし、その目玉を使えばどこだって行けるぜ。俺ぁ旅の神だ。旅の神の目玉は持ち主をどこへだって連れて行ってくれるんだ、お前みたいな半端者でもな。……ま、その代わりにお前さんの魂を喰っちまうかもしれねぇがな……ひっ、ひひひひ……」

 肌が粟立つような不気味な笑い声だった。

「俺は目玉売りだ。買い取った目玉は売るだけだよ」

 笑い続ける赤い唇に向かって英太郎は言う。

「銭もいらねぇ、替わりの目玉もいらねぇ? じゃあ、何が欲しいってんだ。タダだってんなら俺もこの目玉は受け取れねぇ。タダより怖いものはねぇからな」

「酒だ」

 老爺らしきモノの口から紫色の平べったい舌が出て、べろんと巨大な唇を舐めた。

「酒をくれ」

 腰に下げていたのか、目玉まみれの枯れ木のような腕が空の徳利を握って突き出した。

「良い酒はここにはないぞ」

「なんだって構わねぇんだよ、酔えりゃあいい」

 英太郎は目玉を帯に挟んで徳利を手に受け取った。とりあえずこの怪しげで厄介なあやかしに早いところ帰って欲しかった。軽い疲労感を覚えながら溜息を吐いて店の奥に入り、徳利に酒を注いで戻ってくると、しかし、もうそこに老爺らしきモノの姿はなかった。

 手に持った徳利がふっと軽くなる。徳利の中からケ、ケ、ケ、というあの耳障りな笑い声が響いた。徳利を逆さに持って振る。干されてしまったようで一滴の酒も出てこない。その代わりに、ぽとりと小さな石ころがこぼれ落ちて地面に転がった。摘み上げると、びいどろのように透き通っていて、内側に夕闇の青さを封じ込めたような不思議な色をした美しい石だった。

 英太郎は拾った石をしばらく眺めた。何の変哲もない石だ。老爺らしきモノの気配はもう辺りからは消え失せていた。

 英太郎は、帯に挟んであった青い瞳の目玉と一緒に小石を盥の中にちゃぽん、と投じた。

 小石は水底に静かに沈んだ。目玉の方は、水に入れた途端に元気良くスイスイと泳ぎ出している。

「俺は半端者、か……」

 英太郎は土の上に胡座をかき、盥の中を動き回る目玉達を頬杖を突いて眺めながら、闇に溶けるような低い声でポツリと呟いた。


(二)


「はぁ……はぁ……。くそっ遠すぎるだろ!」

 一体これまでに、何百段、いや、何千段の階段を上り続けただろうか。左之吉は薄暗くて急な階段を這うようにしてよじ登りながら額から吹き出た汗を掌で拭った。

「お辰のやつ……逢い引きにしたって、もちっとマシなところ選ぶだろ……いてっ!」

 ぶつくさ文句を言いながら上へ上へと階段を上っていたらいきなり脳天をガツンとやられた。暗くて気づかなかったが、行き止まりらしかった。

「何やってるのぉ? 馬鹿みたい」

 左之吉が頭を押さえて悶絶していると、ウフフ、という含み笑いと一緒にお辰の声が闇の中に涼やかに響いた。

 馬鹿とは何だ、こんな所に呼び出したのはそっちじゃないかと腹を立てながら顔を上げると、今までなかったはずの大きな座敷が、途切れた階段の向こうに忽然と広がっていた。

 座敷の中も暗いようだった。うっすらと青味を帯びた闇の向こうに相手の姿を探そうとするが、その輪郭はぼんやりと闇に溶け込んでいてよく分からない。部屋の方にいきなり足を踏み出すのもなんとなく不安だ。その場に立ちすくんだまま、目を細めたり瞬きを何度もしたりして闇の向こうを透かし見ていたら、不意に頭上でぽっと軽い音が鳴った。辺りが急に明るくなる。見上げると座敷の天井付近を十二、三個の火の玉がうろうろと飛びかっていた。

「遅かったんじゃないのぉ?」

 お辰は座敷の真ん中にゆったりと座って脇息にもたれ掛かり婉然と微笑んでいる。紫地に髑髏と赤い蝶の絵が散らされた打ち掛けがふんわりと畳に広がっていた。お辰の背後、左右には二人の童が控えている。一人は首から上が馬、もう一人は牛の頭をしている。牛頭ごず馬頭めずの童だ。

「遅いたぁ随分じゃねぇか。こんな馬鹿みたいに高いところまで人を呼びだしておいてよ」

 明るくなった座敷の中を左之吉はずかずかと歩いてお辰に近づくと、ニヤリと笑ってお辰の柔らかな顎に指をかける。上を向かせ、左右で色の違う瞳を覗き込んた。右は瑪瑙のような鮮やかな深緑の瞳、左は華やいだ薄紅色の瞳。英太郎の店から買い取った目玉だ。両の瞳の奥で蜜色の焔がちろちろと揺らめいている。

「人を試しすぎなんじゃねぇのか? 俺に会いたけりゃあそっちから来りゃあいいのに。全く素直じゃな……痛っ!」

 バチっと青い火花が散る。左之吉は一瞬のうちに吹き飛ばされ、気が付くと座敷の端に仰向けになって転がっていた。

 あはははは、とお辰は体を仰け反らせて笑っている。

「気安く触らないでっていつも言っているでしょ? いつまでも自分の立場が分からないのねぇ、あんたは」

――分かっていない? 分かっているさ、とうの昔から、そんなことは。

 左之吉は火傷のように赤くなった右手をさすりながら起き上がり、胸の内で文句を垂れる。

 お辰は、冥府を統べる閻魔大王の一人娘だ。そして父親の右腕の如き存在でもある。閻魔王庁の雑事のほとんどはお辰が取り仕切っている。死神や獄卒の中には閻魔大王よりもお辰のことを恐れている者もいるくらいだ。

 片や左之吉はいつまでもうだつの上がらない下っ端死神だった。

 身分が違う、と言われれば確かにその通りだろう。

 だが、それならばなぜ、お辰は自分のことばかり特別に扱うのだ、と左之吉は思う。お辰が左之吉を見る眼差しは、他の死神や獄卒に対するものとは明らかに違っている。今だって、こうしてお辰の部屋に直々に呼び出しておいて、わざとからかうような真似をする。

 期待をさせておいて突き放す。左之吉にはお辰の真意が分からない。

「頼みたいことがあるのよねぇ」

 左之吉の胸の内には無頓着に、お辰はさらりと続ける。

「馬頭や、呼んでいらっしゃい」

 馬頭の童が立ち上がってしずしずと隣の間に続く障子を開ける。

 馬頭が何かを促すようにブルルっと大きな鼻を鳴らすと、馬頭よりも少し背の高いくらいの子供がおそるおそると言った風情でゆっくりと歩み出た。ひょろっと痩せていて、髪もぼさぼさに伸ばし放題伸ばしたようなみすぼらしい子供だった。

「左之吉、この子供の面倒をお前に任せます」

「は?」

「鬼の子なんだけど死神になりたいんですって。いろいろ教えてやってちょうだい」

 お辰は子供を見ながらにっこりと微笑んだ。

 左之吉はあんぐりと口を開けて何も言えない。

「それと……」

 お辰はすっと軽い仕草で立ち上がった。打ち掛けの裾が持ち上がる瞬間、微かな金木犀の香りが鼻腔をくすぐった。

「私はしばらく留守にするわねぇ。無間地獄まで出かけてくるから」

 お辰の言葉と同時に目の前の障子が音もなくぱっと開く。

 霧混じりの強い風が吹き込み、左之吉は思わず息を止め、目を細めた。牛頭・馬頭の童は頭を低くし、鬼の子供もしゃがみこんで風を避けるように両腕で顔を覆う。

 開け放たれた障子の向こう。そこには夜の青い薄闇が大海原のように広がっていた。その中を白い霧が嵐のようにごうごうと暴れ、渦巻いている。

 左之吉は風に煽られながらも、うっすらと淡い光を含んだ青闇に必死で目をこらした。遙か彼方にあるらしき巨大な黒い影がぼんやりと視界に浮かび上がる。おそらくは、あれは現世と地獄の間に聳えたつといわれる死天山という山なのだろう。

 左之吉は、この部屋に辿り着くまでに上ってきた気の遠くなるような階段の長さを改めて思い出していた。ここは地獄の世界を眼下に見下ろす摩天楼なのだ。

「火車!」

 お辰が闇に向かって呼ばう。

 その途端、死天山の方角から煌々とした光の玉が風を切り裂いて飛んできた。近づくにつれて、それが燃えさかる炎の塊だと分かったが、あまりにも眩しすぎてその姿形をはっきりと判別することはできない。

 お辰の乗り物である火車。誰よりも速く遠く、縦横無尽に地獄を駆け巡り、八大地獄の最下層である無間地獄までも数日で駆け抜けると言われている。左之吉も噂には聞けども目の前で見るのは初めてだった。

「じゃあねぇ。十日くらい留守にするわ。後のことは小野篁に頼んであるから」

 お辰は燃えさかる火車に乗り込んだ。

「おい、待てよ!」

 左之吉はようやく我に返ってお辰に追い縋ろうとするが、火車の熱気が強すぎてなかなか近づくことができない。

「何よ?」

「何だって、俺にこんなガキ押しつけていくんだよ!」

 風の唸りと火車の熱を押し返さんとばかりに左之吉は怒鳴った。

 お辰はそんな左之吉を見てニコリと花のように微笑む。

「だって、お前はあたしに逆らえないでしょう?」

 火車の明かりに照らされ、お辰の瞳の中の焔が琥珀色の光を放ってちろりと揺らめいた。

 ごうっ、と音を立てて火車の炎が広がり大きくなる。左之吉は、一瞬だけ、炎の中で毛むくじゃらの長い尾がくねり、三角形の耳がひくひくと動くのを確かに見た気がした。火車は、にゃあ、と獣の声で鳴いた。

 お辰を乗せた火車はふわりと闇に舞う。と、思う間に炎の塊と一体になったお辰は、光の残像を残し、ひゅうっと流星のように下界へ向かって飛び去っていった。

 障子がパタリと閉まる。嘘のように静寂が戻った。

 左之吉は脱力して、畳の上にどてりと座り込んだ。

「あのぅ……」

 遠慮がちな、か細い声。横を向くと鬼の子供もぺたりと座って左之吉を見上げていた。ぼさぼさと伸びきった髪の中に玉虫色の尖った角が見えた。

「あー……しょうがねぇなぁ。お辰の頼みじゃあ断れねぇし。俺も暇じゃあねぇんだけどなぁ……はぁ」

 目では子供を見ながら、左之吉は牛頭と馬頭にも聞こえるようにわざと大きく溜息をついて言った。

 子供は唇をぎゅっと結んで下を向いた。すん、と鼻を啜る音が微かに聞こえる。傷つけてしまったらしい。

「と……さぁ、行くぜ。これからまた、あのクソ長い階段を下っていかなくちゃあならねぇんだ。シャキっとしな」

 ここで泣かれても面倒だと思い、左之吉はぶっきらぼうに言うと子供の腕を持って立ち上がった。

「階段……降りなくても帰れるよ」

 子供がぼそりと言った。

「は? 何いってるんだ。俺はここに辿りつくまで、何百何千段もずっと上り続けて……」

「左之吉さん、お辰様のお部屋は高いところにあるって最初から思っていたでしょう? たくさん上らないとお辰様に会えないって」

 子供は左之吉を見上げ、小さいがはっきりとした声でそう言った。

「そりゃあ……」

 左之吉は思い返す。お辰の住まう部屋は地獄の空に向かって天高く聳え立つ楼閣の最上部にある。死神達も獄卒達も、誰もがそう言っている。だから左之吉も疑うことなく、そうだと思っていた。

「高いところにあると思い込むからその通りになっちゃうんだよ。だから、今度はその逆のことを思い込んでみて。この部屋は高い場所にはない。よく知っている場所にすぐ繋がっているって」

 鬼の子供のくりっとした黒い瞳が左之吉を真っ直ぐに見上げている。からかっている様子ではない。しかし、思い込め、と言われてもそう簡単ではないのも確かだ。現に部屋の障子が開いて見えた外の景色は、左之吉が今まで見たこともないような「雲の上の風景」であったのだ。

「ねぇ、目を閉じて。そしてよく知っている場所を思い浮かべて」

 子供は迷いのない口調で再び言った。牛頭、馬頭の方をちらりと見たが、いつものように茫洋と座しているだけでその表情は読みとれない。

「よし……わかった」

 ここは言われる通りにしてみるしかないだろう、と左之吉は腹をくくった。目を閉じる。

「行くよ」

 左之吉の左手を小さな掌が引っ張った。手を引かれるままに左之吉は足を踏み出す。

 普段は死者の手を引いて三途の川の土手道を歩いている。そのせいか、手を引かれる立場になると妙にあべこべな気分になった。

 一歩、また一歩とゆっくりと前へと進んでいく。このまま先へ行くと左之吉が先程上ってきた長い階段があるはずだ。足を踏み外し、下へ転がり落ちてしまうのではないか。一瞬そんな気がして動悸が速くなった。しかし、子供は何のためらいもなく真っ直ぐに前へ進んでいく。

 左之吉はひとつ深呼吸をした。そして、頭の中に自分がよく見慣れた、ある場所の風景を思い描いた。

 不意に足下に、柔らかい草と土の感触が伝わる。

 目を開けた。

 そこにあるのは群青色の薄闇。そして、その中をゆったりと流れる大河……三途の川だった。

 左之吉は思わず後ろを振り返る。骨のような数本の枯れ木が枝を広げた黒い影になって静かに佇んでいるだけだった。建物など何もない。

「ほら、ね」

 釈然としない表情で呆然としている左之吉に子供がニッと笑いかけた。

「……お前、名前は?」

 左之吉はふと思い出したように尋ねた。

「夕月」

「えーと……女か?」

「うん」

 夕月は左之吉の手をしっかり掴んだままコクリと頷いた。


(三)


 日が経つにつれて地獄の夜はさらに深くなった。闇の中にうっすらと混じっていた青い光は、滑らかな黒檀の色の中に溶けて消えかかっているようにも思える。

 三途の川も例外ではなかった。水は黒く逆巻き、時が経つにつれて今しも不気味な闇に呑み込まれようとしている。

 しかしその三途の川のほとりにあって、今は英太郎の目玉売り屋の店だけが唯一、真昼のような目映い光を店先に煌めかせていた。

「人魂提灯ちょーだいな」

「はい! どの色がいいですか?」

「あら? 色があるの?」

「はい! どの人魂もよく見るとちょっとずつ火の色が違うんですよ。お好きなのを選んでくださいね」

 一度は客足が遠のいたものの、このところは夜がやって来る前にも増して店は結構な賑わいを見せていた。客の目当ては目玉よりもむしろ新しく売り出した「人魂提灯」だった。要は、三途の川の土手で穫れた人魂を竹や木の蔓で編んだ籠に入れただけのものだ。しかし、夜の闇が続く地獄では案外に便利で、しかも風流であると徐々に人気が出てきている。それに加え、提灯を客に手渡しているのが店主の英太郎ではなく、見たこともない子供であるということも噂好きの連中の間では密かに注目の的だった。

「そうねぇ、じゃあ橙色をちょうだい。夕焼けの色みたいなのを」

「わかりました。ちょっと待っててくださいね」

 人魂提灯は店の軒にも吊してあるが場所が足りなくなって店の前の木の枝にも吊り下げてある。さらに昨日からそれも足りなくなってしまい、英太郎が竹を組んで台を作り十個程の提灯が新たに吊り下げられるようにした。客の注文に応えた子供……夕月は橙色の人魂を探すために小走りでひとつひとつの提灯を見て回っている。

「ね、あの子……英太郎さんの子供?」

 常連の女客は目を夕月に向けながら、意味ありげな笑顔で傍らに立つ英太郎にそっと耳打ちをした。

「違ぇよ」

 英太郎は苦笑した。これを聞かれるのは一体何回目なのか、もはや数えてもいられないくらい来る客来る客に尋ねられている。

「死神見習いなんだ。左之吉が面倒見てる」

「へぇ……左之吉の……」

 女は意外そうに目を見開いた。女は閻魔王庁で働いている。左之吉のこともよく知っているのだ。その目には、あの左之吉が、という侮りと疑問の色が微かながら浮かんでいた。左之吉はお辰に直々に子供を任されたのだ、と言ったらこの女はどんな顔をするだろうか。

 そこへ夕月が竹籠でできた人魂提灯を手にして戻ってきた。竹の目の間からやさしげな蜜柑色の光がふうわりと滲んでいる。

「この色でいいですか?」

「あら綺麗ねぇ!」

 女客は提灯を受け取ると顔の前で掲げて覗き込み、目を輝かせた。

「ありがとうね」

「あっ……いえっ」

 夕月はお礼の言葉に照れて頬を赤らめる。女客は、そんな夕月を見て、ほほほと愉快そうに笑った。


「夕月、少しは休んだらどうだ? 菓子があるぞ」

 床几に座って黙々と木の蔓を編み籠を作る夕月に英太郎は声をかけた。

「んー、もうちょっと……これ作り終わったら」

 夕月は籠作りに夢中で顔も上げない。

「そんなに作ったらまた吊り切れなくなるぞ」

 英太郎はそう言って笑い、夕月の隣に腰掛けた。傍らに饅頭の入った器を置いてやるがそれにも気がつかないようだ。

 夕月が堅い木の蔓を手で掴んでぐいぐい引っ張る度に、乱雑に生い茂った髪の毛がふわふわと揺れるのを英太郎は黙って静かに眺める。あまりに一生懸命に籠を作っているものだから下手に声をかけてはいけないような気持ちになる。

 夕月が左之吉に連れられて英太郎の家にやってきたのは五日前のことだった。左之吉がお辰に急に呼び出されて「死神になりたい子供」を押しつけられるように任されたこと、子供の名前が夕月で女だということ、そして、鬼の子供だということ……突然聞かされた話に英太郎は首をひねった。不可解なことが多すぎる。

 なぜお辰は左之吉に直接夕月を託したのか。通常であれば死神でももっと上の者を介して新入りとして適当な組に配するはずだ。それができない理由があるのか。そして、夕月が鬼の子供だということも引っかかる。罪を負った死人を罰する地獄の獄卒はだいたいが鬼の一族の者だが、鬼が死神になる、という話は少なくとも英太郎は今まで聞いたことがなかった。

 英太郎と左之吉は二人でああだこうだと推察を話し合ったが、結局、納得のいく説明を付けることはできなかった。ただひとつ分かったことといえば、夕月が相当何らかの「訳あり」の子供ではないかと言うことだけだ。

 しかし、訳が有る無しに関わらず、任せられた子供には責任を持たなくてはならない。お辰が夕月の身を左之吉に預けたということは、当然、英太郎が関わってくることをお辰が見越した上でのことだと英太郎は理解していた。

 幸い、夕月は素直で真面目で明るい娘で、特に世話が焼けるようなこともない。左之吉はまだ様子を見ているのか自分の仕事に夕月を連れて行くことはなかったが、夕月は暇な間は英太郎の店を進んで手伝ってくれていた。

 人魂提灯を売り始めたのも、実は夕月がきっかけだ。最初は夕月が店番の合間に人魂を採って遊んでいたのを、左之吉が見つけてこれを売ったらどうかと英太郎に言い出したのだった。簡単なものだから売れるようなものでもないだろうとは思ったが、別に元値がかかるわけでもなく、夕月の暇つぶしにでもなればよいと考えて作らせていたところ、意外にもそれが当たったというわけだ。

 そういうわけで、今、店先に吊り下がって静かな光を放っている人魂提灯の籠は全て夕月が編んだものである。そればかりではなく、中に入っている人魂も夕月が堤を歩き回って採ってきたものだった。

「できた!」

 夕月が叫んだ。英太郎は出来上がった籠を手に取る。

「なかなか良くできてる。作る度に形が良くなるな」

「……ありがとう」

 英太郎が褒めると夕月ははにかんだように笑った。

「ねぇ、英太郎」

「何だ?」

「人魂って何だろう?」

 夕月は膝の上で籠を弄びながら、ふと思いついたように言った。

「死神が手を引いて連れてくる死人の魂はヒトの形をしているでしょう。でも人魂は丸くて光っているだけ……あれは何なんだろう?」

 死んだ者の魂は死神が手を引いて彼岸へと導く。死人は死神に手を引かれ三途の川の土手道を歩き、川の渡し場に送られるのだ。三途の川も、そしてそのほとりに立つ英太郎の店も生と死の狭間にある。死の国へと向かう魂達を英太郎はこの店から数え切れない程見送ってきた。そして、夕月の言う通り、その魂達はだいたいが皆、生前の姿を象ったままで冥府へと渡る。それは魂そのものが持つ「記憶のカタチ」であった。

「人魂はな、タマシイの欠片なんだ」

「かけら……」

「人の魂ってやつは案外もろいんだよ。生きている時の悲しみや怒りが強すぎるとすぐに砕けたり壊れたりする。壊れた欠片は人の心を喪って彼岸にも渡れず、カタチを無くしたまま永久に漂い続けるモノになる……」

「それが人魂?」

「ああ。だが、それだってまだ良いほうだ。彼岸に渡れなかった魂の中には現世でさまよい続け、闇に取り込まれて幽鬼やあやかしになっちまうやつだっている」

 だから……と英太郎は、夕月の目を見て続ける。

「死神の仕事は大切なものなんだ。魂が壊れたり迷ったりしないうちに三途の川の向こう岸に届けてやる役だ。生前に負った罪によっては地獄で責め苦を与えられるかもしれんが、それでも輪廻の輪の中には組み込まれている。輪廻の掟に従っていればいつか生まれ変われる」

「ふぅーん……」

 夕月は分かったような分からないような顔をしていた。少し複雑な話をしすぎたかと英太郎は思った。

「死神の仕事かぁ……左之吉は早く私も仕事に連れて行ってくれないかなぁ」

 夕月は籠を傍らに置くと溜息を吐く。

 死神見習いのつもりでやってきたのに、目玉売りの店番やら籠づくりやら人魂採りばかりやらされては確かに飽きも来るだろう。

「夕月は何で死神になりたいんだ?」

 英太郎は尋ねた。疑問に思いながら今まで何となく聞けなかったことだ。

「いろいろな場所に行けそうでしょう? 死神は地獄にも行けるし現世にも行ける。私、人間が生きている世界を見てみたい」

 夕月は目を輝かせた。思いの外、単純で微笑ましい理由だと英太郎は思った。

「俺も実は、昔は死神だったんだ。辞めちまったけどな」

 英太郎は言った。

「……辞めちゃったんだ。なんで?」

「死神の癖に人が死ぬのが嫌いだったんだよ」

 英太郎の答えに夕月は不思議そうな顔をする。

「人が死ぬのはかなしいからな」

「かなしい……?」

「ああ。だけど死神は本当はそんなことを考えちゃいけないんだ。かなしいとかさびしいとかいう心は死神は持っていたらいけない心だからな」

 人と人とが死によって引き裂かれる悲しさ、寂しさ。そういうものに心を動かされるようでは死神として失格だった。しかし、英太郎の心は人間達の心の悲しみや寂しさに共鳴し、そしてそれがなんとしても耐え難く苦痛に感じた。

 英太郎はふと過ぎ去った昔に思いを馳せ、しばし口を閉ざす。夕月も今度は何も聞こうとはしなかった。夕月は夕月で、目を真っ直ぐに三途の川の向こうに向け、何かをじっと考え込んでいるようだった。

「おーい、夕月!」

 その時、不意に呼び声がした。

 店の軒先を潜って入ってきた人影を人魂提灯の明かりが照らし出す。左之吉だった。

「仕事連れていってやるから支度しな」

 左之吉の一言で夕月は跳ね上がるように立ち上がった。

「連れて行ってくれるの!」

 夕月は大喜びで左之吉に飛びつく。

「おう。初めてやるにゃあちょうど良さそうな仕事が入ったからな」

「どこ行くんだ?」

 英太郎が尋ねる。

「行徳の沖あたりを舟でな……拾い残してる魂がいくつかあるらしいんだ」

「行徳沖……?」

 英太郎は眉をひそめた。何か引っかかるものを感じる。

「……最近、あの辺りじゃ死神が何人か行方知れずになってるって聞くぜ」

 英太郎の店の常連客には閻魔王庁の役人も多い。世間話等から地獄や死神達の事情はある程度把握しているつもりだ。

 ここ二、三年ほどの間、ちらほらとそんな噂とも真実ともつかない話を聞くのだ。死人を迎えにいった死神がそのまま帰らなくなることがあると。

「まぁそんな噂もあるっちゃあるけどなー。大方、誰か仕事すっぽかしてトンズラこいてんじゃねぇのか。いねぇって言ってもそのうち戻ってくるだろ」

「しかしなぁ……」

「ったく、心配性だなお前は。もし何かの大事がありゃあ俺達死神にも上から何か言われてるはずだろ? そんな噂話、いちいち気にしてたらキリがないぜ」

 左之吉が言うことももっともではあった。やはり自分は心配し過ぎなのかもしれない。

「英太郎、私、行きたい!」

 夕月が英太郎の袖を引っ張って期待に満ちた目で見上げてくる。

「夕月もいることだし危ない場所にゃあ行かねぇよ」

 左之吉にもこう言われて特に反対する理由もない。もっとも「いい加減」の権化のようなこの男に夕月を任せるのに不安がないわけではないが、もう三百年近くも死神稼業をやってきた奴ではあるのでそれなりに信用してやらなくてはいけないだろう。

「……気をつけていけよ」

「ありがとう!」

 夕月は嬉しそうに顔を輝かせた。

 しかし、英太郎の心の奥には、言葉にできないような漠然とした不安が未だ引っかかっていた。

「おいおい、そんな小難しそうな顔するなって。色男の顔にしわができるぜ?」

 むっつりとしていると、左之吉が脳天気に笑って英太郎の肩を叩いた。しかし、その左之吉の脳天気さがより一層、英太郎の心に不安の染みを広げるようでもあった。


(四)


「おせーなぁ、夕月のやつ」

 左之吉は桟橋に結わえた小舟の中に腰をかけ、夕月が来るのを待っていた。闇が溶けたようなぬばたまの色の水がちゃぽちゃぽと舟の腹を打つ音が響く。

 左之吉が乗った舟の左右にも同じような形の小舟が六艘ほどずらりと並んでいた。死人を彼岸に渡すための舟よりも一回り小さい。死神達が使うための舟だ。

 今、舟に乗っているのは左之吉だけではなかった。左之吉の後ろには、白い骨を闇の中にぼんやりと光らせた骸骨の船頭が物も言わず佇んでいる。

「支度してから行くって言ってもなぁ。ただ俺についていくだけなんだから支度も何もねぇじゃねーかなぁ」

 左之吉のぼやきに船頭は何も答えない。そもそも舌がないので答えようはないのだが、何も聞こえていないかのように身動ぎもせずに静かにただ佇んでいる。左之吉も骸骨からのいらえは無いのは承知で独り言を言っていた。

「……ここへ来るまで迷ってるんじゃねぇだろうな」

 英太郎の店で待っていてここまで一緒に来てやれば良かったのかもしれない、とふと思う。しかし、年の割にしっかりした子供だし、堤の土手道は一本きりだ。迷いようがないはずだ。

 何となく落ち着かない気持ちで待っていると、堤の上で桜色の光がぴょんぴょんと跳ねるように揺れるのが見えた。人魂提灯の明かりだ。提灯を手にした夕月が転がるようにこちらに駆けてきたのだ。

 姿が見えなければ迷ったのではないかと不安になるが、走っているのを見ても転ばないかとそれはそれで心配になる。

――俺も英太郎の心配性がうつったかな。

 左之吉は苦笑する。

「ごめんね、左之吉! お待たせ!」

 夕月が勢いよく飛び乗って、舟は左右に大きく揺れた。

 遅いぞ、と叱ろうとして左之吉は夕月の纏う雰囲気がどこかいつもと違うことに気が付いた。

「どうしたんだよ、その頭?」

「あっ、あのね、英太郎がやってくれたの。仕事に行くんならもっと身なりを整えて行けって……」

 ぼさぼさに生い茂っていた夕月の髪の毛が頭の後ろで綺麗に結わえられていた。

「ふぅん、良いじゃねぇか」

 左之吉はにやりと笑った。男だか女だかよくわからない子供だと思っていたが、なるほど、こうして髪を整えただけでも随分と娘らしく見える。

 夕月ははにかんだように微笑みながらうつむいた。髪が整えられた分、頭に生えた小さな角がつやつやと剥きだしになっている。

「出してくれ」

 左之吉は振り向いて骸骨の船頭に声をかける。カシャンと乾いた骨の音が鳴った。返事のつもりらしい。船頭がぎいぎいと櫓を漕いで、舟はゆっくりと川を遡る。行く手には人魂達がふらりふらりと飛び交い、川面を仄かに照らしていた。

 左之吉は舟の中から堤の上を見上げた。一際明るい光の塊が見える。ややあって、それが英太郎の目玉売り屋に鈴なりに吊り下げられている人魂提灯の群だと気が付いた。人魂の微かな明かりも集まれば随分と輝いて見えるものだと今更ながら感心する。

 瞬く明かりを見ながら、ふと、お辰の乗っていた火車を思い出す。今頃、お辰は無間地獄の深淵を火車に乗って駆け回っているのだろうかとぼんやりと考えた。

「あっ、英太郎!」

 夕月が急に弾けるように声を上げ、堤に向かって大きく手を振った。人魂提灯の明かりの中に、確かに英太郎らしき人影が見える。堤に立ってこちらを見送っているようだった。やはり夕月のことが気にかかるのか。

 生真面目な顔で夕月の髪を梳き、丁寧に結わえてやっている英太郎の姿が目に浮かんだ。

――あいつ、女嫌いなのかと思ってたが、幼い娘の方が好みなのかねぇ……。

 左之吉は首をひねった。

 左之吉から見ても英太郎は女からもてる方だと思う。色白で顔の造作は整っている。寡黙で不愛想なところはあるが、かえってそこに惹かれる女も多いのだろう。英太郎の店に目玉を買いにやってくる常連の中には、明らかに英太郎に会うことを目当てに通い詰めている女客も少なくはない。ただ、当の本人はそんなことには全く無頓着だ。女達の熱い視線に気が付いていないのか、それともわざと気が付かない振りをしているのか。とにかく浮いた話は何一つ聞かないのだ。

――まぁ、普通の女よりも幼い娘が好きってんなら説明はつくわな。

 左之吉は一人で納得した。

 以前、左之吉が手違いであの世に連れていきそうになったおろくという娘に英太郎が売り物の目玉をはめてやったことがある。あの時もやはり幼い少女に心を惹かれていたのかもしれない、などと勝手に想像を巡らせた。

 そうこうしている内に、骨だけの船頭の操る小舟の船足は徐々に早くなる。周りの景色が崩れて溶け、墨をぶちまけたようになって後ろへ流れた。行く手に光が見える。人魂の薄明かりとは違う。力強く目を射るような光だ。闇は薄くなり、忽ちのうちに光に呑み込まれていった。

「わぁ! 綺麗な空……!」

 夕月が空を見上げて突然叫んだ。左之吉もつられて上を見る。頭上には久しぶりに見る青空が広がっていた。鴎達がギャアギャアとかしましく太陽の下を飛び交う。水面に立った漣は陽光を反射してきらきらとしている。

 左之吉達を乗せた舟はいつの間にか海原の真ん中をぷかりぷかりと漂っていた。

「ね! 左之吉……ここが現世?」

 夕月が興奮したように左之吉の袖を引っ張った。

「ああ、ここが行徳沖……のはずだな?」

 左之吉は骸骨の船頭を振り返った。船頭はカシャンと音を立てて頷いた。

 少し遠くを見渡せば漁師の釣り船と思しき小舟が幾艘も波間に漂っている。さらにその向こうには陸地と人家の集まりも見える。彼方にはうっすらと筑波の山並みも見渡せた。

 左之吉は目を閉じた。辺りの気配に気を張り巡らせる。潮の香りの中に死人の匂いを感じ取ろうとした。しかし……。

「……おかしいな」

 左之吉は再び目を開け、何かを考え込むように上唇を嘗めた。夕月が左之吉の顔を覗き込む。

「どうしたの、左之吉?」

「いや……拾い損ねた魂がこの辺りに漂っているって話だったんだが……」

 死者の気配がまるでなかった。これでも勘は良い方だと自負している。過去一月ばかりの間にこの海で溺れ死んだ者が一人でもあればすぐに気が付くはずだ。

 明らかに話が違う。もしかしたら左之吉達が拾いに行くはずだった魂は既に他の死神が連れて行ったのかもしれない。そういえば、作衛門も先日、三途の川のほとりで別れた時に、行徳沖に行くとか言っていた気がする。

「ったく、篁もいい加減な仕事の振り方しやがるぜ」

 左之吉は舌打ちをした。お辰の留守を預かっている小野篁はいけすかない男だが、仕事に関しては優秀な書記官ではある。しかし、やはり死神連中の統率は小野篁だけでは荷が勝ち過ぎているのかもしれない。お辰の有能さに改めて感じ入った。早くお辰に戻って来てほしいと思う。それは仕事の上だけの話ではもちろん無いのだが。

「何もやることはねぇみてーだ。とんだ無駄足だぜ」

 左之吉は舟の中にゴロンと横になった。

「……寝ちゃうの?」

「寝る他にやるこたぁねぇよ」

「寝てる間にタマシイが見つかるかもしれないのに」

 流石に夕月は不満そうだった。

「……じゃあ、舟の周りを見張っててくれよ。何か見つけたら起こしてくれ」

「うん」

 夕月は素直に頷き、寝そべっている左之吉の足下で膝を抱えて座った。

 緩やかな風が吹く。暖かな日の光が心地よい。こうして船底に横になっているだけでも、気怠げな眠気が左之吉の体を包んでいく。

――ああ、気持ちが良い……現世の「昼」ってやつは本当に。やっぱり夜の闇ってのは俺には合わねぇんだなぁ……地獄の暗がりなんて鬱陶しくてかなわねぇや……。

 そんなことを取り留めもなく考えながらうつらうつらとしていると、視界の端で不意にきらりと何かが光った。頭を僅かに持ち上げて見やれば、夕月が何やら青いびいどろの欠片のような物を手に持って、日の光に透かして眺めていることろだった。

「……何だい、そりゃあ」

 左之吉は重い瞼を持ち上げて何とはなしに尋ねた。

「英太郎のお店のね、目玉の沢山泳いでる盥の中にあったんだ。綺麗だから勝手にとってきちゃった」

 夕月は青い小さな石を指先で摘んでうっとりと眺めている。石は明るい日差しの中できらりときらりと不思議な光を放つ。まるで青い石そのものが生きていて自ら瞬いているかのようだった。

「ふぅーん……」

 左之吉は曖昧な相づちを口にしながら今度こそ瞼を閉じた。

 ふっと意識の糸が切れるように眠りの中に引き込まれていく。

 左之吉は眠りの底で黒い影を見た。

 ひらひらとした薄い膜のような漆黒の影が幾層にも重なり合い、水の中で揺れながら蠢いている。

 これは不吉なものだ、と左之吉は夢の中で直感した。

 影の塊が揺らめく度、影の膜と膜とが重なり合うその隙間の奥に、血が抜けたように白く精気がない人間の顔がちろちろと見える。それとともに、細く微かな呻き声のようなものが途切れ途切れに聞こえてきた。

 見ている内に影は徐々に左之吉に近づいてくる。逃げなければ、と思うが体は石のように重く、その場から一歩も動くことができなかった。どうすることもできず、じわじわと迫ってくる得体の知れない影をただ睨みつける。

 その時、ふと影の怪物の動きが止まった。影の向こうで青い光がきらりと瞬いた。影はその体をぶるりと震わせて膨張させ、動きの向きを変える。影は何かを包み込むように呑み込んだ。何を呑み込んだのか……暗い水底に沈められているかのように視界が揺らいではっきり見ることができない。ただ呑み込まれゆくモノの中に先程の青い光が再びキラリと瞬いたことだけが分かった。そして、その青い光を握りしめているのが子供の小さな細い手だと気が付いた時、左之吉の胸の奥は突然冷たい刃を突きつけられたかのようにドキリと軋んだ。

「くっ……」

 左之吉は眉間に力を矯めるような気持ちで、己の意識を深い眠りの底から上昇させる。目を覚まさなければならない。直感がそう言っていた。

 瞼を持ち上げる。

 目を開けると、金縛りが解けたように体が自由になった。舟の縁を掴んでまだだるさの残る体を半ば無理矢理に起きあがらせた。

「はぁ……はぁ……」

 自分でも驚く程、息が荒く苦しかった。動悸が激しい。額に滴る冷たい汗を掌で拭った。

 日はいつの間にか傾いていた。空は闇の青さと陽光の残照とを混ぜ合わせたような不思議な色に染まっている。

「夕月?」

 左之吉は舟の中を見回した。答える声はなかった。すぐそばにいるはずの夕月の姿が消えている。

「おい! 夕月はどこだ?!」

 骸骨の船頭に掴みかからんばかりの剣幕で尋ねるが、船頭は、まるで分からない、というように首を横に振った。

「ったく、使えないやつだな! 寝ていやがったのかよ!」

 左之吉は自分のことを棚に上げて青筋を立てた。

「夕月!」

 もしや海に落ちたのではないかと思い、舟から身を乗り出して水面を見下ろす。波が白い泡を立てて舟の腹に寄せ返しているだけで、何かが浮かんでいそうな気配はない。

「夕月……!」

 左之吉は立ち上がって叫んだ。その左之吉の声もただ波音の中に虚しく吸い込まれるばかりで、呼び返す者はいなかった。

 足下でカサリと木の蔓でできた小さな籠が転がる。夕月が舟に乗り込む時に持ってきた人魂提灯だ。辺りが暗くなるにつれて籠の中の人魂が幽かな桜色の光をほんのりと放ち始める。

 左之吉は持ち主を失った人魂提灯の明かりを呆然と見つめた。

――近頃、行徳沖で死神が行方知れずになることが……。

 出かける間際に英太郎が言っていた言葉が今更ながら耳に蘇った。



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