第13話 吉田茂と白洲次郎の出会いと別れ

 白洲次郎が吉田茂と知り合ったのは昭和4年のことである。


 次郎の妻・正子は薩摩の樺山資紀の孫娘で、吉田茂の妻・雪子は薩摩の大久保利通の孫娘。


 薩摩閥同士ということで、大磯の樺山邸で次郎と吉田は顔を合わせた。


 吉田51歳、次郎27歳の時である。

 

 その時は顔を合わせた程度だったが、二人はロンドンで親しくなる。


 きっかけは昭和11年に駐英大使としてロンドンに赴任した吉田を次郎が訪ねたことだった。


 何の約束もなく、やってきた次郎を吉田は歓迎した。


 次郎が駐英大使となった吉田を訪ねたのは、政治的な動きではなく、ごくシンプルに吉田を心配したからである。


 吉田は外務省で最も勢いがあった松岡洋右まつおかようすけとも軍部の東條英機とも対立していた。


 友人である広田弘毅ひろたこうきが組閣したときは、広田は吉田を外務大臣に迎えようとしたが、それも軍部の大反対でお流れになった。


 広田は気を使い、吉田を駐英大使にしたが、ロンドンにいても吉田の気分は晴れなかった。


 そんな吉田を心配して次郎は吉田を訪ね、吉田は次郎の気持ちを感じ取り、快く迎えた。


 二人は地下でビリヤードをしたり、楽しい時間を過ごした。


 駐英大使館には久しぶりに吉田の笑い声が響いた。


 後になれば吉田茂は総理大臣を歴任した男であるが、この頃の吉田は軍部に睨まれ、政治の中央から追い出された存在である。


 誰も近づこうとする人間はいなかった。

 

 そんな中、損得を考えずに心配してやってきてくれた次郎に、吉田は心を許したのだろう。

 

 24歳年の差のある2人だったが、そこから関係を深めていく。


 時代は進み、昭和17年には白洲次郎は農林大臣の推薦もあって、帝国水産の理事になる。


 帝国水産とは後のニチレイだ。


 蛇足ながらこの当時の帝国水産の社長は有馬頼寧ありまよりやすとう人で、久留米藩の大名家の出身であった。

 

 昭和の時代も幕末明治の名残があったのである。


 しかし、次郎はここで有馬と衝突し、今の町田に『武相荘』という家を建てて、百姓を始めた。


 明敏な次郎は東京が空爆される可能性があること、食糧不足になることを読んでいたのである。


 その後、終戦からサンフランシスコ講和条約での活躍はよく知られる通りである。


 昭和27年。

 

 サンフランシスコ講和条約が発効された後、白洲次郎は吉田茂に引退を進める。


 講和をした今が吉田の辞め時だと考えたのと同時に、吉田が政治世界に残り、熾烈な勢力闘争に巻き込まれるのを心配したのである。


 もう70代の吉田に有終の美を飾り、ゆっくり余生を送って欲しい気持ちもあった。


 だが、吉田学校の面々がそれに反対した。


 池田勇人たちからすれば親分である吉田に辞められては困るのである。


 本来なら次郎も吉田学校の面々の仲間になり、吉田を総理に据えて、おいしいポストに就くほうがいいはずだ。


 しかし、次郎はそういうことを望まなかった。


「結局、僕は吉田に対して個人的に愛情を持っているだけの話だ」


 次郎の語録の中にそんな言葉がある。

 

 ある自負が次郎にはあった。


「僕は吉田茂の側近じゃない。僕とじいさんは1対1の関係だ」


 吉田学校の門下生でもない、吉田の部下でもない。


 そういう関係ではないのだという思いが次郎には強くあった。

 

 だが、結局は次郎の思いは通じず、吉田は吉田学校の代議士たちの必死の説得に折れ、政界続投を決める。


 自分の思いが通じなかったことで、次郎は吉田から離れていった。


 もちろん簡単にすべて切れる縁ではないので、細く長く続き、昭和42年、白洲家に吉田茂急死の電話が飛び込む。


 その一ヶ月前、吉田は大磯の屋敷『海千山千楼』で89回目の誕生日を祝ったばかりだった。

 

 東京カテドラル聖マリア大聖堂。

 文京区にあるこの教会で吉田茂の葬儀が行われた。


 しかし、この葬儀は皇太子殿下ご夫妻もいらして日本武道館で行われた、あの国葬ではない。


 吉田茂の国葬は東京沿道だけでも七万人の人々が詰めかけ、大磯の自宅から国葬の会場である日本武道館まで沿道の商店街は半旗を掲げ、官庁も学校も半休となって、人々は吉田の死を悼んだ。

 

 この大聖堂で行われた葬儀は、そういった華々しい国葬とは別に、身内だけで行われた葬儀である。


 カトリックの信者であった妻・雪子を思ったのか、それとも雪子との間の子である健一たちのことを思ったのか、吉田は晩年に洗礼を受けた。


 そのため、大聖堂での葬儀となったのである。


 国葬には行かなかった白洲次郎だったが、こちらの葬儀には顔を出した。


 しかし、すぐに帰ってしまった。


 マスコミはかつて『吉田茂の側近中の側近』と言われた伊達男の姿を探したが、見つけられずに終わる。


 鶴川の自宅に戻ると、テレビでは吉田茂の追悼番組がやっていた。

 

 次郎はそれを見ることもなく、ただ部屋にこもった。


 吉田の死後、次郎は形見として吉田家にあった革張りソファーをもらった。

 

 ソファーの革が汚れても、次郎はそれを張り替えるのを許さなかった。


「じいさんの手垢がちゃんと残っているんだ。大事にしろ」


 次郎は張り替えようとすると、血相を変えて怒ったという。


 それは次郎にとって代えられない思い出の品だったのだ。


『白洲次郎 占領を背負った男』の著者・北康利氏は二人の関係についてこう記している。


【次郎にとって吉田は、父であり、師であり、戦友であるとともに、女性に対する愛など比較にならない深さの愛を注ぎ続けた懸想人けそうびとであった】


 これ以上にふたりの関係を表す美しい表現を他に知らない。


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他の吉田茂関連のお話。

『吉田茂と3人の父親/吉田茂の子供たち』

https://kakuyomu.jp/works/1177354054892405363/episodes/1177354054894362592

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