「石の人魚」

アキヨシフーエ

石の人魚


人魚の国は、ここからずっと北の、氷に囲まれた海の中にありました。

わたしたちの国の海から、小さなガラス瓶を流して、それが幸い沈む事なく、また途中の島に漂着する事なく漂っていると、この人魚の王国に辿り着くでしょう。この国は、そうして運良く流れ着いたもので溢れていました。何処かの王族の食器、嵐に見舞われた船の残骸、銀のボタン、革のブーツ、様々な国の貨幣に、騎士達の鎧や剣。それらは人間の繁栄と悲しみの思い出でした。


人魚の国の王子には、心奪われてやまない物がありました。それは、つい先日、城に流れ着いた石の彫刻でした。こんなに重い石の像が、どうして、この最果ての王国まで流れ着いたのか、誰もが不思議に思いました。そして、その石像が、上半身は人間、下半身は魚の形をしていたという事も、お城の人々を驚かせたのです。

王子の母君はこれをよくよく眺めてから「おそらくこれは、遠い陸地の人間が、わたしたちを想像し創ったものなのでありましょう」と言いました。王子は母君の後ろでその様子を見ていました。「母上、この像をわたしにください。わたしは、これがとても気に入ったのです」と母君にせがみました。こうして、人魚の像は王子のものになりました。


石の人魚は最初、ひどく汚れていましたが、王子が磨いてやると、それはたちまち、大理石の美しさを取り戻しました。王子は、この像を自分の御殿の中庭に置くことにしました。それから晴れた日には、人魚の白い肌が、ゆれる光の網に捕われているのを、王子はずっと眺めているのでした。


石の人魚と、氷の海の人魚の姿は、全く違っていました。人魚像の滑らかな肌、たおやかな尾ひれ、全てが、夢のような美しさをもっていました。けれども、氷の海の人魚たちは、そうではありませんでした。全身が鱗に覆われて、この石の人魚のように滑らかで、真珠のような肌を持つものはいませんでした。それに、彼らには二本の足がありましたし、手足には鋭い爪と、水かきがついていました。

「こんなに美しい人魚は、いったいどこにいるのだろう。できることなら、世界中を泳いで、探し巡りたいものだ。」王子はその事を強く思うようになりました。そして、どこにいるかも知れない美しい人魚の事を考えては、その美しさにどうしようもなく焦がれるのでした。

そうして、自分の身体をみてみると、身体中に生えた鱗が悍ましいとさえ思うようになったのです。


王子は年頃の青年でした。そして、次の新月の夜には成人し、妃をつけなければなりませんでした。

王子はこの事が浮かなくて仕方ありませんでした。

王子の憧れは、美しい石の人魚ただ一人であったからです。花嫁候補として選ばれた、この国でいちばん美しいと言われる娘たちを見ても、王子には、自分と同じ、鱗のびっしりと生えた、醜い生き物、としか思えなかったのです。

王子は、それでもこの娘らのひとりを妻とし、婚礼の儀は晴れやかに執り行われました。


しかし、王子は結婚をしても、石の人魚に会いに行くのをやめなかったのです。朝も夜も、美しく白く輝く石の人魚を眺めては、ため息をついているのでした。

王妃は、この事をひどく気に病みました。王子が自分のことに関心がない事は、誰の目にも明らかでした。見かねた王が、幾度も王子をたしなめましたが、この頃にはもう、王子は誰の言葉にも、耳を貸さないのでありました。

王妃はとうとう嫉妬に駆られて、この石の人魚像を壊すよう家臣に命じます。

粉々に砕かれた人魚像を見た王子は怒りに燃え、この家臣を剣で刺し、王妃には呪いの言葉をいくつも浴びせました。


その日から、王子は変わってしまいました。

毎日、呆然として、石の人魚の跡地に来ては、うわ言を言い、突然大声で笑ったり、泣いたりしました。

王はこれ以上、王子の憐れな姿を晒すまいと、彼を部屋に閉じ込めてしまいました。

そうして王子は、誰の目にも触れなくなりました。


それでも、王妃は、毎日王子を見舞いに行っていたのです。

そして、扉の前で王子に許しを乞いました。

「どうかお聞きください。私は、嫉妬に駆られただけなのです。私はあなたの妻として、ただ、あなたをお慕いしていただけなのです。どうかお願いです、あなたの妻を、部屋に入れてください。」

しかし、何度訪れても返事が返ってくる事はありませんでした。


ところが、ある日突然、今度は王子の方からお呼びがかかり、王妃は部屋に通されたのです。王子は窓の外をじっと見つめながら、王妃に語りかけます。

「長い間、お前を苦しめてすまなかった。本当に気が滅入ってしまっていたのだ。でも、今宵の満月を見ていたら、ようやく正気に戻ったよ。石の人魚は私の憧れそのものだった。魅せられたんだ。あれに出会って、私は本当の美しさというものを知ってしまった。そして、それは私を絶望させた。このからだに、びっしりと生えた鱗が、どうしても駄目なのだ。嫌気がさすのだ。悍しいとさえ思うのだ。だから、わたしは、お前を愛してやれない。」

「あなた、それはどうしてもなのですか?私はあなたをお慕いしているのです。石の人魚に心を奪われていようと、私の思いは変わりませんでした。それでも、どうしても駄目だというのですか?どうして、あなたは私を愛してくださらないのでしょう。そんなにこの鱗が嫌だと仰るのなら、いっそ捨ててしまいたい。」

王妃はそういうと、泣き出してしまいました。

人魚像が立っていた中庭に、月の光が一瞬差しました。

「そんなにも、わたしの事を愛してくれるんだね。可哀想な妻よ。さあ、もう泣くのはおやめ。一緒に月を見よう、もっと奥へ来て見てごらん。」

王子はそう言って、王妃を窓辺に誘いました。

「いいえ、月など映っておりません。波があんなにたっているのです。」

「いや、この部屋が明るすぎるのだ。扉を閉めてきてあげるから、そのまま、よく見ていてごらん。」

そう言って王子は扉を閉めに、部屋の入り口まで歩きました。

その間、王妃はじっと窓の外を見つめていましたが、やはり月は見えないのです。

「やっぱり駄目だわ。雲に隠れてしまっているみたい。」

「どうかな。」

王妃のうしろで声がすると、王子の腕が彼女を抱きました。

王妃ははじめ驚きましたが、終に自分が王子に受け入れてもらえたのだと思いました。

窓の向こうで、人魚像の跡地が、もう一度月の光に照らされて、砂のもやが立ち上がるのを王子は見ました。


王妃を抱く王子の手が、王妃の腹を撫でました。しかし、その手は鱗を掴み、一思いに剥ぎ取ってしまいました。

王妃が悲鳴をあげても、王子の手は止まりません。はじめから、王子はそのつもりだったのです。ぶちぶちと音を立てて鱗が剥ぎとられ、女の剥き出しになった肉には、凍てつく海水が、焼けるようにまとわりつきました。血が煙のように立ち込め、それは、まるで女の体が燃えているようでありました。やがて、鱗を全て剥がされ、絶命した肉体を、王子は茫然と見つめていました。

「鱗を剥いだって、俺たちはおれたちの醜い姿のまま。ああ、ほんとうにそうなのだ。これほど自分の肉体が憎いと思ったことはない。俺の身体は、あの美しい石の人魚にはなれはしない。今、俺は、その事が、醜い俺の肉体が、どうしても、どうしても許せないのだ。」


その時、やさしく、月の光が差しこみ、床に散らばった王妃の鱗を照らしました。それは、オパールや、ラブラドルの長石のように暗く輝いているのでした。

王子は、自分の鱗を一枚剥ぎ取り、空(くう)に投げました。

ゆらゆらと、宝石のように暗く光りながら落ちる鱗。

「もっと、もっとだ。」

王子は鱗を剥ぎ、それらは、一瞬舞い上がり、ゆらゆら落ちていきます。

月の光は、その一枚一枚を照らし、王子は赤い煙の中で、いつまでも見つめているのでした。


「石の人魚」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「石の人魚」 アキヨシフーエ @hue_akiyoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ