II

 教室に入って友達の顔を見て、レイチェルはやっと現実に帰ってこれた気持ちになった。体の重さや世界が歪んで見える感覚が煙のように消えていった。もう怪物たちも怖くなくなっていた。

「クリスタ!」

「おはよう、レイチェル」

 フィリピン系のクリスタ・シフエンテスはレイチェルの幼なじみで親友だ。ナチスから迫害されたユダヤ人をフィリピン政府が受け入れたとき、大地主のシフエンテス家は政府に協力して積極的に亡命ユダヤ人たちを支援した。レイチェルの祖父アイザックはビジネス・パートナーとして、そしてそれ以上にユダヤ人を助けた恩義からシフエンテス家と親交を深めた。

 二人の友情は家族ぐるみのものだし、レイチェルは同い年だけど自分より気の強いクリスタを心から慕っていた。

「クリスタ、また嫌な夢を見たの。今日はもっと変な気分」

 高校生にもなってバカバカしい悩みだと思いつつ、レイチェルはクリスタに水曜日の悪夢のことを全部話した。

「戦って、怪物たちと」勝ち気なクリスタらしい答えだ。

「無理よ、あんな奴らと」レイチェルは首を横に振った。

「急所を狙えばいい。目とか、・・・金的とか」

 今度はクリスタの恋人のマイケル・ドミンゲス・オオシロが答えた。ボクシング・ジムに通う彼らしい発想だ。

「マイキーでも無理よ」レイチェルにとって、年は同じでも、クリスタはお姉さんのような存在で、マイキーは子供っぽくて、むしろ弟みたいだった。

「悪夢を見るのは水曜日なんだろ。じゃあ、火曜日の夜からオレが一緒にいてやるよ」

 マイキーがマイキーなら、ジョニーも相変わらずだ。

「兄さんが何するか分からないわよ」

「君の兄さんはそんなにオレを嫌ってるのか」

「可愛い妹をあなたみたいな野蛮人から守るのは当然でしょ」

 レイチェルは男はもっと紳士的であるべきと思っていた。ジョニーには少しでも変わってほしくて、わざと意地悪を言った。

「野蛮人ならとっくに君の唇を奪ってるさ」

「やめて。レイチェルは本当に悩んでるんだから、バカなこと言わないで」

 今度はクリスタが言い返した。

「レイチェル、学校が終わったらロロ・イスコ(イスコお爺さん)の所に行こう。タロット占いで悪いことを追い払う方法を教えてくれるわ」

「タロット占い、気がすすまないわね」

 レイチェルは占いやまじないの類を良くないものとして教えられてきた。

「大丈夫。ロロ・イスコは神様を畏れる正しい人で、フィリピン系からはとても尊敬されてるの」 

「わかった。行きましょう」


 レイチェルは親友のクリスタを信頼しているので、ロロ・イスコを訪ねることに決めた。ジョニーとマイキーもついてきた。最近はこの4人で行動をともにすることが多い。

 ロロ・イスコは西五反田の質素なアパートに一人きりで暮らしていた。

「ロロ、わたしの友達が悪夢に悩まされてるの」

 クリスタの話を聞いてレイチェルの顔を見るなり、彼はテーブルの上で裏返しにされたタロットカードの山から、一枚を抜いて差し出した。

「これがお嬢さんを苦しめているものだ」

 レイチェルが意を決してカードをめくると、そこには吊された男の絵が描かれていた。

「気味悪いわね」

 カードを置くレイチェル。

「ハングド・マンは魔術師オーディンを表している。彼は魔術を極めるために自らを木に吊し、彼自身への生け贄とした」

「悪魔に魂を売ったんですか?」

 レイチェルが尋ねた。

「いや、彼自身が悪魔だ。オーディンは神を畏れぬ罪深い儀式を行って見せ、古代のゲルマン人から神と崇められた。彼らは週の第4の日をオーディンに捧げたので、今でも Wednesday にはオーディンの力が強くなる」

「だから水曜日に悪夢を見るのね」

 レイチェルは幼い時に見た恐怖の裏に悪魔がいることを確信した。

「オーディンって奴が目の前にいたらぶっ飛ばしてやるのにな」

「ああ!」

 ジョニーとマイキーはすっかり戦う気になっていた。

「悪魔を追い払うには、どうすればいいんですか?」

 敵の正体がわかったところで、レイチェルの不安は消えなかった。

「心配しなくても大丈夫だ。神を信じ、心を強く持ちなさい。人は眠っている時に一番心が弱くなる。悪魔はそれにつけこみ、色々な姿で現れる。だが、神を信じる正しい人の前では無力だ」

「わかりました。ありがとうございます、ロロ・イスコ」

 レイチェルは勇気づけられてお礼を言った。


 その日の夜、レイチェルはマニラにいる父親に電話をかけ、思い切って全てを話した。悪夢のことはともかく、タロット占いや悪魔オーディンの話はしづらかった。父デイヴィッドは合理性を重んじる人物で、彼女の知る限り、祖父のように悪魔の存在について口にしたことはなかったからだ。だが、父の反応は意外なものだった。

「レイチェル、いつか悪魔に狙われたとき、話すように父さんから言われていたんだ。悪魔は人間皆を憎んでいるが、特にわたしたちユダヤ人を憎んでいる。わたしたちがアブラハムの子孫だからだ。奴らはわたしたちを呪うことが、神への反抗と考えているんだ。

 1889年にベルリンに悪魔ゼウスの祭壇が再現された。トルコの遺跡から発掘されたものをわざわざ組み立てたんだ。その同じ年にアドルフ・ヒトラーが生まれた。1930年代になって悪魔の祭壇が公開されると、ナチスがドイツを支配するようになった。ヒトラーはユダヤ人を悪魔の祭壇への生け贄とするためにホロコーストを起こしたんだ」

「そんな、じゃあわたしも生け贄にされるの・・・?」

 レイチェルはあの現実としか思えない悪夢のなかの怪物たちを思い出して、激しくうろたえた。

「心配ない、レイチェル。悪魔にできるのは人間の心の弱さにつけこむことだけだ。ロロ・イスコの言うことは正しい。神様を信じて、安心して眠りにつくんだ。君のお祖父さんだって、悪魔を恐れてはいたが、最後には勝ったんだ」

「わかったわ、お父さん。ありがとう」

 彼女は覚悟を決めた。同胞たちの血を流した悪魔と戦うと。


 次の週の火曜日の夜、つまりユダヤ人の伝統に従えば水曜日の夜、レイチェルは神に祈りを捧げてからベッドに入った。

 心を強く持って、恐怖に負けなければ悪魔に勝てるはず。恐怖、怖いものは怪物たち。自分を傷つけるもの全て。自分を拒絶する人。自分を愛してくれる人がいないこと。お父さんとお母さんは愛してくれる。兄さんも。ジョニーも多分、本気で愛してくれるかもしれない。でも、悪夢の中では一人っきり。自分を守ってくれる人はいない。

 違う、神様はきっと助けてくれる。先週だって、神様に呼びかけなければ、悪夢から目覚めなかったかもしれない。

 一人になることがあっても、神様は見守っていてくださる。ロロ・イスコが言っていた。人は眠っているときに一番心が弱くなる。それは夢の中ではいつでも一人ぼっちだからだ。でも、本当はそうじゃない。眠っている時も神様が見守ってくれてる。いつか神様に会えるなら、何も怖くない。ひどい目にあっても、その傷を癒やしてくださるから。神様にいただいた命を生きることに、怖がることなんてない。

 誰かがテレビをつけた。きっとオーディンだ。怪物たちの叫び声が響きわたる。

 レイチェルは起き上がって言った。

「主の御名によって、立ち去りなさい! 悪魔オーディン!」

 怪物たちは音も立てず、血しぶき一つ飛ばさずに爆発して消えていった。

 後ろには顎髭を生やし、黒いローブを身にまとったぞっとするほど肌の青白い老人が立っていた。

「あなたがオーディンね」

 レイチェルは落ち着いて言った。もう怖くはなかった。

「娘よ、お前の勇気を認めよう。お前はもっといい世界で生きるべきだ。怖いことや嫌なことがない世界へ案内しよう」

「騙されないわ。わたしはこの世界がたとえ恐ろしいものだとしても、いつか神様に会えるって信じて生きて行くから。もう一度言う、悪魔よ、立ち去りなさい!」

 オーディンは無数のフクロウになり、夜の闇の果てへ飛び去って行った。


 夜が明けると、レイチェルは少し早めだけど、気持ち良く眠りから目覚めた。兄さんと抱き合い頬にキスをし、父さんと母さんにも悪魔に勝ったと電話で話した。

 早く友達に会いたくていつもより足早に学校に向かった。子供のころから姉妹みたいなクリスタ、お人好しで弟みたいなマイキー、それに、あのプレイボーイだけど優しいジョニー。

 教室のドアを開けると、一番にジョニーと目が合った。神様に感謝しながら、レイチェルは飛び切りの笑顔をむけて言った。

「おはよう、ジョニー」

 

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水曜日の悪魔 ラリー・クルス @larry_cruz

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