第30話「別れの決心」






   30話「別れの決心」





 泉がその事件の話を聞いたのは、しばらく経ってからの事だった。

 施設の人達は、泉に黙っていようと思ったらしいが、望がどうしても泉にだけは伝えて欲しいと頼んできたようだった。


 そして、個別に電話がかかってきたのだ。

 その日、夜に楪家の人から電話がくると聞かされていた泉は、緋色からの電話だと思っていた。そのため、朝からドキドキしてその時間が早く来ないかと心待ちにしていたのだ。


 彼女と離れてから数年しか経っていなかったけれど、生まれてから彼女の声をこんなにも長く聞かなかった事はなかった。そのため、寂しくなってしまっていた。しかし、その気持ちを勉強にぶつけていたため、成績がぐんっと上がったのだ。その頑張りを緋色に伝えようと思っていた。きっと、緋色は「すごいね!」と、嬉しそうに褒めてくれるはずだ。


 朝からニヤニヤしてしまっていた泉は、友達にも「何にやけてんだよ」と、からかわれてしまったぐらいだった。


 けれど、その期待は一瞬で崩れてしまった。



 「楪さん…………」

 『緋色ではないんだ。私から君に話があったんだ。聞いてくれるかな』

 「………はい」



 電話口から聞こえてきたのは、望の低い声だった。いつもの優しい声ではなく、どこか暗いように聞こえた。



 「話っていうのは何ですか?………緋色ちゃんの事ですか?」

 『…………あぁ。泉くん、落ち着いて聞いてくれ。』



 電話口で、望が1度言葉を止めた。

 躊躇っているのか、それとも自分を落ち着かせようとしていたのか、泉にはわからない。けれど、一呼吸置いた後に望は話出した。



 『緋色が誘拐された』



 その言葉はとても残酷すぎて、泉の頭で理解するのに時間がかかってしまった。それぐらいに、予想出来ない言葉だった。



 「…………え…………」

 『緋色は学校帰りに図書館に行くといってね。その後から行方がわからなくなったんだ』

 「な………何言ってんだよ、緋色ちゃんが誘拐なんて………」

 『本当の事なんだよ………泉くん』



 望の言葉はとても強い物だった

 けれど、その声の中には深い悲しみと悔しさが伝わってくるものだった。

 泉は頭の中が真っ白になる。頭をハンマーで叩かれたような衝撃とは、こういうのを言うのだろう。大きすぎる出来事に、しばらくの間言葉を失った。

 けれど、すぐに出て言葉は、大切な緋色の安否だった。



 「緋色ちゃんは…………緋色ちゃんは、無事なのか!?」



 泉は声を張り上げた。

 電話をしているのは事務室だった。もちろん、みんな席を外してくれている。今思えば、泉に配慮してくれたのかもしれない。



 『無事だよ………見つかったのも早い方だった。けれど、数日はその男の部屋に監禁されていたみたいでね。身体には何もなかった。けれど、とても怖かったのだろう。………心がやられてしまったんだ』

 「………こころ………」



 その言葉を聞いた途端、泉は嫌な予感がした。彼女が怪我もないのには一安心だが、監禁という言葉を耳にして、怒りから体が震えた。

 沢山の本を読んでいた泉にとっては、知っている言葉とはいえ、日常では使わない言葉。あまりに酷い仕打ちに、泉は犯人の元に行き叩いてやりたくなった。



 『緋色は心に傷を負いすぎてしまって、どうしようもなくなったんだろうね。………自分を守るために、記憶を亡くしたんだ』

 「記憶………?」

 『今まで生きてきた思い出。両親が死んでしまって施設で過ごした事。好きな食べ物や物語の事。そして、私達の事。…………泉くんの事も、だ』

 「お、俺の事も忘れてしまった…………」



 緋色が自分を忘れてしまった。

 泉に更なる衝撃が走った。


 ずっと面倒を見てくれて緋色。毎日会っては沢山笑い、喧嘩をしたり、本を読んだり、庭を走り回ったりした。

 泉にとって大切な思い出を彼女はもう知らないのだ。

 それが、信じられなかった。



 「緋色ちゃんは……俺と会ったら思い出すかもしれない!だから、俺が会いに行けば………」

 『………緋色はまだ傷ついている。思い出せばどうなってしまうか………。だから、私達は緋色の記憶を無理に取り戻させようとはしない事にしたんだ』

 「……………」

 『今は彼女には安静した時間が必要なんだ。………けれど、きっとこの事件を知って乗り越えなければいけない日がくる。だから、私達はそれまで待つことにした。………本当の両親となり、嘘をつき続ける。彼女が20歳になるまでは。………それまでは、泉くんも手紙などは控えてほしい。君がそれでも緋色を大切にしてくれるのなら、大人になったら迎えに来てくれないか』

 「…………わかりました」



 本当は、今すぐにでも会いに行きたかった。

 しかし、会ってどうすればいいのだろうか。

 彼女が泉を見た事で記憶を取り戻し、そして苦しんでいるのを助けられるのか。彼女の辛い経験を乗り越えられる方法を知っているわけでもない。そして、彼女の傍にずっと居られるわけでもないのだ。

 泉はまだ幼い。そして、年上の緋色もまだ大人ではない。泉は10歳で緋色は15歳だ。

 

 泉は自分の無力さを感じてしまった。

 そして、望の言った通りにするしかないのだと思った。



 その日の夜は思いっきり泣いた。

 彼女の事を思い、そして何も出来ない自分の弱さが悔しかったのだ。



 そして、その後は自分はどうすればいいのか考え続けた。

 彼女を守るためには、どんな大人になればいいのか。


 まずは、今まで通り勉強を頑張る事にした。勉強をして、彼女を支える知恵をつけたかった。そして、苦しまないような生活をさせてあげるためにも、お金を稼げるようになりたいと思った。

 そして、次は力でも強くなろうと思った。緋色を守るために、施設のスタッフに頼んで空手を教えてもらうことにしたいのだ。スタッフの中には空手をやっているものがいたため、毎日稽古をして貰うことにして、体を鍛えようと思ったのだ。いつか、彼女に危険が迫った時に守れるようになりたかった。


 最後にもう1つ。

 緋色に笑顔が戻ってくるように。もし、記憶を取り戻しても楽しみが見つけられるようにと、泉は彼女が好きなファンタジーの小説家になろうと決めた。勉強や稽古の合間に、何作もの物語を作った。初めは文章を作るのに苦戦し、そして飽きてしまったりもした。けれど、毎日欠かさずに少しずつ物語を作っていくうちに、書いていくのが楽しくなっていった。

 いつかは本を作って、彼女に見せよう。そして笑ってもらおう。そう思った。


 そして、泉が大人になって彼女を支えられるぐらいに成長した時に、緋色に会いに行こう。

 泉はそう決心したのだ。



 それまでは、緋色に会わないと心に決めた。





 

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