第二十六話 宣教師①


「類い稀なる強者だと思っていたけれど、まさかこれほどとはね……」


 死闘を見届けたリーシュは、ドラゴンの胸に十字剣を突き刺したまま動かないスクートの姿を見ながら、息を呑むように呟いた。リーシュほどもあろう剣の刀身、そのほぼ全てが深々と突き刺さっている。


 身体を浮かせるほどの竜血が、落下の衝撃を抑えたのだろう。気を失ってはいるが、スクートの呼吸の音がかすかに聞こえる。


 ドラゴン。いざ戦うとなれば、リーシュでさえ一筋縄にはいかない難敵だろう。


 それをスクートはまだ人の身でありながら、己が剣と勇気にてこれを討ち滅ぼしたのだ。圧倒的な絶望に対し、いったいどこの誰が勝利をもぎ取れると予測できるだろうか。


 たとえ神と呼ばれる全知全能の存在がいたと仮定しても、その者でさえ勝利を確信することはできないだろう。


 これは過去の夢、スクートの体験を再現した悪夢である。現実にスクートが生存している以上、勝利は確かに約束されている。


 だがそれでも、戦いの最中で死の予感が何度よぎったことだろう。全てに絶望し半ば抜け殻になっていた男が、まさかこれほどまでの不屈の精神と溢れんばかりの勇気を兼ね備えていたとは。


 百人いれば、百人が彼の勇気を蛮勇と呼ぶかもしれない。だが蛮勇を勇気に変えてしまうほどの強さと覚悟が、悪夢の中のスクートにはあった。


 もはやスクートの過去が、教会の名の下に剣を振るう聖騎士であるということなど些細な問題であった。


 もとよりリーシュは、スクートの過去がどのようなものであれ受け入れる覚悟があった。目つきが鋭い従者だが、悪人の目とはかけ離れている。


 それに弱き者を守ろうと、命を賭してこれほどの大立ち回りを演じたのだ。こんなものを見せつけられれば、彼の過去を責めようという気が微塵も湧くはずもない。


 だが、だからこそ。リーシュの不安はより一層と肥大化していく。


 まだ彼は、聖騎士であるスクートは、絶望していない。


 これから先、悪夢は佳境へと至るだろう。ドラゴンにさえ絶望しなかったスクートが、絶望してしまうほどの何かをの当たりにすることになる。


 轟々と燃ゆるドラゴンの残り火は、主を失ってなお勢いを増していく。耐え難いほどの熱気だろうが、精神体であるリーシュには暖炉の火のほうがまだ暖かく感じるほどだ。


「――――っ!」


 そのリーシュが、寒気を感じた。身が凍てつくほどの悪寒が、地を這うねずみのように背中を走ったのだ。


 まるで経験したこともない絶対零度の凍土へ、裸体でなげ出されたかのような。


 世界の色が、光が。徐々に薄まっていくように暗くなっていく。悪夢を形作るスクートの心が、怯えているのだ。


 スクートが悪夢にうなされていたとき、しきりに口にしていたライオネルという存在。


 かの者が、ようやく現れるのだろう。絶望に抗った聖騎士を、さらに深い……自力では這い上がれないほどに深い絶望を与えに。


「……あれは」


 粉塵を吸い込まぬよう口を布で覆い大粒の汗を垂らしながら、気を失っているスクートへ駆け寄っていく青年の姿がリーシュの目に止まった。


「マルグ様、マルグ様! 生きておられますか!?」


 必死な声色で青年は叫ぶ。数度の呼びかけでようやく気を取り戻したスクートは、ドラゴンから十字剣を引き抜くと、満身創痍の身体に鞭を打って飛び降りた。


「まだ、逃げていなかったのか。だが助かった、あのまま気を失っていたら火の海に飲まれていただろう」


「逃げてはいましたが、あのドラゴンが地上へ真っ逆さまに落ちていくのを見て、いてもたってもいれずに戻ってきました。無力な自分でも、何かできると思いまして」


「命を粗末にするな、愚か者……うっ」


 ふらつき片膝をつくスクートに青年は手を差し伸べたが、彼は首を横に振った。


「ドラゴンの血は毒だ、知らぬ訳でもないだろう。おれは生まれつきどういう訳か効かないが、ただの人間が触れたら最悪の場合だと死ぬぞ。まだ歩ける、だから気にするな」


 剣を杖代わりにして、スクートは自身の血と竜血が入り混じった赤黒の身体を起こす。


「ここに来る途中、逃げ道の目星はすでにつけてあります。さあ、ついて来てください――――えっ」


 来た道を戻ろうときびすを返した青年が、呆けた声をあげた。スクートも何事かと青年の視線の先へと目をやり、そして身構えた。


 黒ずくめの外套がいとうを羽織った二十人ほどの集団が、そこにはいたのだ。


 その誰もが、黒鉄で作られた十字の首飾りをつけている。完全に音も気配も消した彼らのたたずまいは、鍛え抜かれた影形おんぎょうそのものであった。


 いったい、いつの間に。どこから現れた。警戒していたリーシュでさえ気付くことができなかった。


 流れるはずのない冷たいものがつたう錯覚を感じるほど、リーシュは眼前の集団の異質さを肌身で味わった。


殊勝しゅしょう、殊勝……。すばらしいものだ。まさかたった一人で、それも御術みわざを使えない身であるというのにドラゴンを倒してしまうとは」


 影形のひとりが、ゆっくりと前へと歩み出る。その一歩一歩が、ひたり、ひたりと。這いよるように、音もなく。


 まるで魂に恐怖の波を刻みつけるように。他の影形は目元が隠れるほど深くフード被っているが、その者だけは違った。


 酷くほつれ、草臥くたびれた絹帽シルクハット。身に着ける首飾りは、くすみがかった黄金の十字。鼻から下が歪に欠けている、ひびの入った壊れかけの白仮面。


 濁った黄色の瞳が不気味にのぞき、張り付けた笑顔のように吊り上がっている口角。


「さすがはあのの子だ。やはり、エストリアの血は争えんか」


 そして絹帽の男は両手を大きく広げて言った。


「会えて光栄だ、マルグ・エストリア。私の名はライオネル。神の教えをべ広め、世界をあるべき姿へと戻す……宣教師だ」


 直感的にリーシュは理解した。は人などではなく、人の形をした化け物だと。

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