第二十五話 竜狩り


 大弩バリスタを再装填したマルグは、さらに一本の太矢ボルトを手にとり、傾き崩れつつある戦鐘を見上げた。


「さあ、やろうか」


 マルグは身体全体を引き絞った弓弦のように伸ばし、そして渾身の力で太矢を戦鐘に向かって投げ飛ばす。


 人体ならば三人分は容易に貫通しそうなほどの勢いを乗せ、太矢は戦鐘に激突した。


 響き渡るたった一度だけの鐘の音。だがそれだけで充分であった。いまいちど愉悦を妨げられたドラゴンは、怒り狂いながら半壊した迎撃塔へ迫ってくる。


 その迫力は先にも増して凄まじい。並みの人間ならば到底耐えられるものではないだろう。


 だがマルグは酷く冷静だった。守り人たるエストリア家の誇りが、散った者たちへの責務が。そして死の淵に立つ彼の肉体と魂が、死をも恐れぬ極限の集中力と覚悟を与えているのだ。


 翼を撃ってもあのドラゴンは止まらない。弱点である頭と心臓は、鋼にも勝る鱗によって覆われている。


 もし仮に貫通できたとしても、ドラゴンは脳と心臓を破壊しない限り絶命することはない。生物を超越した存在に、常命じょうみょうの常識は通用しないのだ。


 炎を吐く瞬間に喉を狙ったとしても、それでも致命傷にはほど遠い。


 ――――ならば、目を狙う以外の手立てはない。


 大弩バリスタの引き金を力強く握り、すべての集中力を照準器の先へと向ける。


 数歩先の針穴に糸を通すような芸当を、たった一度で成功させなければならない。外せば待っているのは死、のみだ。


 大弩バリスタの射線とドラゴンの目が重なる一点、ただその瞬間を狙うだけ。


「スゥゥ……」


 マルグはゆっくりと息を吸い、そして止めた。


 徐々に遠ざかっていく鼓動の音は、水面に浮かぶ波紋のようになめらかに伸びて間延びしていく。猛るドラゴンの突貫が、風に揺れる雲のごとく緩慢になっていく。


 災厄の咆哮でさえ無音と化す、彼だけの世界。そしてついに、射線と眼は重なり合う。


 ――――ここだ。確信を得たとき、すでに大弩バリスタは放たれていた。


「グオオオオオォォォ――――!!?」


 ドラゴンの絶叫と共に、世界に音が戻る。


 放たれた太矢はドラゴンの眼を貫き、脳に達するほど深く突き刺さっていた。その眼からは、おびただしい量の黒血が滝のように流れ落ちていく。


 目を射抜かれ脳さえも貫かれるという、人の身では知覚はおろか想像さえもできない激痛。ドラゴンは発狂したかのようにもがき苦しむが、だがそれでも地へ落ちることなく耐え続けていた。


 まともなドラゴンならば間違いなく落ちている。それだけにいま相対している存在が、いかに強大であるかをマルグはいま一度思い知らされた。


 そして同時に決意を新たにした。あの怪物を、たとえ刺し違えてもこの場で討ち果たさなければならないと。


 怒り、恨み、殺意……あらゆる悪感情が混じったドラゴンの片目は黒色に充血し、もはや視線だけで人を射殺せるかと思うほどの圧があった。


「ゴアアアアァァァ――――ッ!!!」


 そして地獄の門のような大口を開け、喉元に太陽のように輝く灼熱を溜めだした。


 兵士を全滅に追いやった先の吐息よりも、はるかに威力のある一撃がくることは明白であった。全てを焼き尽くす業火は、マルグも、亡骸も、塔さえも灰へと帰すだろう。


 大弩バリスタの再装填は間に合いそうにもない。


 逃げる道も、遮る盾もない。


 ――――いや、もはや背を向け逃げる道など必要ない。盾がなければ、作ってしまえばいい。


 見よ。その全てが、眼前にあるではないか。


 死中に活を、求めろ。


「ものは……使いようだ!」


 マルグは剛剣をもって大弩バリスタの土台を叩き斬ると、間髪をいれずにがらくたと化した大弩を突き刺した。


「勝負!」


 そしてそれを、ドラゴンの頭に目掛けて思いきり投げつけた。


「グオオ!?」


 万全のドラゴンであれば、無駄な足掻きだと歯牙にかけることはなかっただろう。驚くこともなければ、喰らっても僅かな痛痒にさえならない、避ける必要さえいらぬ攻撃。


 しかし片目を潰され距離感を狂わされ、脳まで太矢が突き刺さっている状態では、さすがの化け物であってもまともな判断などできるはずもなかった。


 不意を突かれ、焦りと驚愕がまだ未完成の炎を吐き出させた。しかしそれでもドラゴンはやはり化け物である。


 至近距離ならば鉄をも容易に溶かす業火は、飛んできた大弩バリスタを焼き溶かす。さらに迎撃塔の頂上が炎の余波にあてられ、がらがらと音を立てて崩壊していく。


 瓦礫も、骸も、戦鐘も――――しかしその中に、マルグの姿はない。


「どこを見ている、化け物」


 すでに彼は、空を飛んでいるはずのドラゴンの真横にいた。半身を焦がしながらも上段に十字剣を構え、いまにも振り下ろさんと力を溜めて。


 大弩を投げ捨てるのと同時、マルグはすでに大きく跳躍していた。大弩を盾に身を隠し、ドラゴンの潰された右目に向かって死角へと潜り込むように。


 僅かに炎を受けてしまったが、兵士長の水がその一瞬を守ってくれた。


 犠牲と死力を尽くし、マルグは絶望という深淵の中に、希望という名の光を見出したのだ。


「墜ちろ、ドラゴン!」


 全身全霊をのせた捨て身の袈裟けさ斬りは、ドラゴンの翼膜を完全に引き裂いた。


 慣性を失ったマルグは、抗えぬ重力のまま頭から地面へと落ちていく。黒い血を浴びながら、飛行能力を失ったドラゴンと共に。


 片眼を失い、脳を貫かれ、さらに落下の衝撃で流石のドラゴンも満身創痍となるだろう。だが心臓が動いている限り、災厄は決して終わることはない。


 対するマルグは、このまま落ちれば間違いなく死ぬ。だがマルグは後のことのなど何も考えていなかった。地上へと自身が達する前に、ドラゴンを屠ればよいのだから。


「うおおおっっ!!」


 戦いはまだ終わっていなかった。マルグは十字剣の腹をドラゴンに打ちつける。だが全体重を乗せた一撃も、強固な鱗によって弾かれてしまう。鉄床を金槌で殴りつけたような重厚音が無慈悲に響き渡る。


 だがそれこそがマルグの狙いだった。あえて弾かれることによって、彼の身体はとある場所に向かって軌道を変えていく。


 マルグは着地した。だがそれは地面ではなく、なんと塔の壁面だった。


 壁を走り、走り、駆け墜ちる。背を低め、十字剣を腰だめに構えながら、確かにマルグは壁を走っていた。


 狙うはただ一点、ドラゴンの胸部……その奥の心臓を。


 そのときであった。マルグの持つ十字剣が、白いもやを纏ったかのように淡く光りだす。


「これは――――」


 初めての経験だった。何かを念じたわけでもなく、マルグの意思とは無関係に光は発現した。いままで何百万と剣を振るってきたが、唐突に剣が白く光りだすことなど一度もない。


 高位の聖騎士は武具に御術を纏わせるすべを持つ。であれば、御術を使えない自身がなぜ。


 だがマルグは深まりゆく思考を払拭した。いま成すべきことは好奇を論じることではなく、目の前の災厄を打ち倒すことだ。


「全てを、この一撃に!」


 壁面にひびが入るほど強く踏みしめ、マルグは放たれた矢のごとく跳躍した。


 白光が流星のような軌跡を描き飛んでいく。やがて光がドラゴンの胸へと吸い込まれると、次の瞬間には吹き上がる黒に光は飲まれた。


「うおおおお!!」


 白光を纏った十字剣は、鋼の強度を誇るはずのドラゴンの鱗を驚くほど容易に貫いた。


 まるで逆流した滝のごとき勢いで真っ黒な竜血が噴出し、マルグの身を押しのけようとする。しかし彼は傷口に左腕を突っ込み身体を固定させ、さらに奥へと十字剣を突き刺す。


 ――――剣先が、ドラゴンの心の臓へ達したとき。


 天をも震わさんばかりの断末魔が、業火の海で残響した。


 地上へとその亡骸は墜ち、山の向こうまで届くほどの衝撃が大地を揺らす。


 僅かに間をおいて、無数の瓦礫と共に戦鐘が地に激突する。


 戦いの終わりを告げる最後の鐘の音が、荘厳そうごんに鳴り響いた。

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