第十七話 在りし日、翔る災厄


 燃え上がり火の海と化した街。誰もが心優しかった町人たちの断末魔。夜の闇さえも焦がさんばかりに舞い上がる無数の火の粉。


 全ては、灰と化す。希望も命も、何もかも。


 燃え盛る滅びに囲まれた塔。その頂に立つのは、満身創痍のスクート自身であった。赤き血を流しながら、刀身の十字剣にたずさえ、彼は空を飛ぶ災厄を睨みつけていた。


 万物を飲み込むような巨大な翼。振るえば木々を小枝のように粉砕するほどの力を秘めた尾。鉄よりも固い鱗を全身に纏い、その牙は研がれた刀剣のように鋭い。口から漏れ出る火炎の吐息は、あらゆる全てを焼き焦がす。


 ――――ドラゴン。生けとし生ける、生命の大敵。何の予兆もなく、どこからともなく忽然と現れ、その場に居合わせた者どもに絶望を振りまく災厄。


 かの存在に理性は存在しない。ただ本能が命じるままに、破壊と殺戮の限りを尽くす。そうして村や街を、ときには国でさえ滅ぼすこともあるのだ。


 ドラゴンは怒り狂っていた。矮小わいしょうな羽虫程度にしか思っていなかった人間に、片目を損なうほどの仕打ちを受けたからだ。槍のように太い大矢を撃ち込まれた痛々しい生傷からは、どろりと黒い血が絶え間なく流れ落ちていく。そう、黒く、泥のような血が。


 これはスクートの記憶の断片である。忘れることも許されず、無意識のうちに記憶の片隅へと追いやられた、まだ人間であったころの……最悪かつ最後の記憶の序章。


 高所から見た揺れる炎がかつての光景と結びつき、スクートを悪夢の中へ引きずり込んだのだ。


「……ト。スクート」


 だが囚われのスクートを呼ぶ声が、あやふやな意識の中でぼやけるように木霊こだましだす。


「スクート! しっかりして!」


 世界に色と音が戻った。知らずの内に彼はベッドへと寝かされていた。視界に映ったのは何事かと覗きこむフレドーにナタリア、そして一際心配そうな顔をしたリーシュであった。


「よかった、目を覚ましたみたいね」


「……おれは、いったい?」


「下を覗いた瞬間に気を失って倒れたのよ。とっさにフレドーが支えなければ、きっと真っ逆さまに落ちていったわ」


 辺りを見渡せば先ほどと様子が違う。医務室にでも運び込まれたのだろう。窓から差し込むほんのりと薄い茜色の光。本来であればまだ昼下がりを示しているはずの時計の針は、すでに夕刻を指している。


「そう、か。迷惑をかけてしまったな、礼を言う。どうにも悪い記憶を思い出してしまったようだ。普段ではこのようなことはないのだが……」


「なに、気にすることはないさ。礼ならリーシュにするといい、起きないからと休むことなく色々な魔法を試していたからな」


 見れば、普段は飄々ひょうひょうとしているリーシュの顔には疲れが浮かんでいた。


「すまない、また……世話をかけた」


 ゆっくりとスクートは起き上がり、リーシュに頭を下げた。


「……困ったときはお互い様よ。せっかく街まで来たけれど、今日のところはもう帰りましょう。どう考えてもいまのスクートは本調子ではないし、もう直に日も暮れる。最低限の話はつけておいたわ、続きはまた今度にしましょう」


 リーシュに支えられながら立ち上がるスクート。彼の顔はどこか怯えているように、フレドーの目には映った。


 妙なものだ。あれほどの強さを持ちながら、どうして何かを恐れる必要があるのか。フレドーは心の中で呟いた。


 リーシュよりおおよその話は聞いていた。自身の素性は一切明かさぬ、黒い血を流す剣士。かつてはしっかりと赤い血を持った人間であるということも。


 フレドーは論理より直感を信じる。これまで生きてきて、己の感が一番の論理であることを彼は学んだからだ。それほどまでに、フレドーの直感は鋭い。


 その己の感がこう告げているのだ。スクートを問いただせと。彼の中にある不安定な揺らぎを、少しでも理解しておけと。


「ああ、その、なんだ。水を差すようで悪いが、帰る前にひとつだけ質問がある。俺の目を見て答えて欲しい」


 フレドーは帰り支度をしているスクートを呼び止める。


「フレドー。わたしがさっき話したとおり、伝えるべきことはすべて伝えたわ。いまのスクートはどう見ても調子が悪い、また今度に……」


「いや、かまわない。答えられることは何でも答える」


 リーシュの静止を振り切り、スクートはフレドーを見据みすえる。


「すまんな。いや、聞きたいことは単純明快さ。何か悪意を持って、ミスティアにわざと迷い込んだ。……そういう訳ではないんだよな?」


「無論だ、誓ってもいい。それに外界には霧の森の奥に魔女の里があるなどと、噂さえも聞いたことがなかった。誰もが白霧の森を恐れ、近づこうともしていない」


「ならばどうして森に迷い込んだ?」


「……死にたかった。誰の目に留まらない場所でひっそりと。外の世界にはもうどこにも、おれの居場所なんてものは存在しなかった。当然だろう、おれは人間ではなく黒い血を宿す化け物になってしまったのだから」


 いかなる偽りも貫き暴くような視線と、独白にも似た真実の視線が混じり合う。一瞬の間が薄く引き伸ばされたような静けさの後、フレドーは微笑した。


「なるほど、迷い込むべくして迷いこんだか。悪人でもなければ嘘を吐き慣れた道化にも見えない。少なくとも里に害する存在ではなさそうだ、ひとまずは合格。そのうち一度剣を交えてみたいものさ。ホルス殿を手玉に取り、瞬く間に十人を屈した剣技……里一番の剣士として、ぜひとも味わってみたい」


 フレドーの目の奥に渇望の光が煌めいた。


「機会があれば、そのうちな」


「はは、つれないなぁ。まあいい、長話はまた今度だ。町の外れまで送っていこう、ムヴィスの手下どもが根を張っているかもしれないからな」


 そんなフレドーの懸念も杞憂に終わり、何事なく街外れまで到着するとベルングロッサの兄妹はスクートとリーシュの背中を見送った。


 色濃いスクートの影。フレドーの胸中に一握の不安が湧き上がる。何か良からぬことが起きなければよいが……そう願うフレドーであった。


「ナタリア。普段からお前は無口な奴だが、今日は輪にかけて無口だったな。久しぶりに親友のリーシュと会ったんだ、もう少しおしゃべりしてもよかったんじゃないか?」


「うん、できるならそうしたかった。でも……」


「でも?」


「リーシュの従者スクート。あの男は、きっと危険」


 ナタリアには覚えがあった。ずっと昔に読んだ古い書の一節にある、黒い血を宿し大空を翔ける恐るべき怪物の存在を。

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