<3> 地球人症候群

新年の祭り気分も過ぎ去り、すっかりいつもの暮らしに戻った頃、遠雷は車を買った。

型落ちした中古のプロキオンは、卵のようにまるっこく小さく、柔らかい乳白色。音の静かな電気自動車で小回りがきくのと、座席のデザインが選べるのが売りだった。もっとも中古車なので、淡い黄緑と茶色の座席は、遠雷が選んだわけではなかったけれど。

車が欲しかったのは遠雷で、ローンを組んだのも遠雷だが、この車を選んだのは翡翠だ。本当はこんなおもちゃのような車ではなく、大きくて無骨で色づかいも華やかな、いかにも乗り物めいたアンタレスやベガ、それに高価でとても手が出ないが、夢を語ればアルタイルやベテルギウスに憧れていた。

買うのは遠雷だから、うるさく言うつもりはないけど、そんなに大きい車を買ってどうするの。誰か乗せたい人でもいるの? 電力食うし、維持費もかかるよ。今までどおり必要な時だけレンタルじゃだめなの?

車を買いたいと相談した時、翡翠は渋い顔で十分口うるさくそう言った。彼の好みはプロキオンやスピカ、リゲルのような小さくて手頃な値段で、かつ高性能な車種だった。

本当に趣味が合わない。この話になった時、翡翠と遠雷はお互いに顔を見合わせて、溜め息を吐いた。

車のレンタルはそれまでにも頻繁に利用していた。交通量を抑えるために、狭い月ではカーシェアリングが普及していて、手続きしておけば希望の日時に車を使える。都度払いではなく年間登録すれば、利用料は破格だ。それでも近所とはいえ配車場所まで取りに行かなくてはならないし、荷物を置きっぱなしにはできないし、返却時間も気にしていなくてはならないのが煩わしい。それで遠雷は、自分の車が欲しくなった。

大型で見た目の派手なアンタレスは、予算的にもけばけばしくて悪趣味だよ、と言った時の翡翠の顰め面を思い出しても無理だとして、装飾の控えめなベガくらいなら、と中古で綺麗なものを探していた。

それを最終的に自分の好みとは百八十度違う車に決めたのは、プロキオンと聞いて試乗に付き合った翡翠が、振動が少ないのと、後部座席が見た目より広々しているのに気づき、この車だったらタフタも乗せられていいなあ、と半分独り言のように呟いたのを聞いたからだ。

遠雷はそれで翡翠の言葉を思いだした。車はあくまで移動手段、荷運びの道具で、扱い易い方が良い。自分がそう考え方を変えれば、意地を張って好みを貫く必要もない。それにプロキオンの中古なら、余裕で予算の範囲に収まった。

予定通り二月の初めに、中古のプロキオンは彼らの家にやって来た。ぴかぴかの中古車を眺めて翡翠は、

「賢明な判断だね」と、まるで自分の手柄のように嬉しそうに言った。

それまでタフタの遊び場だった庭の一角を区切って駐車場にした。ちっとも自分好みじゃないと思っていた小さな車は、乗り始めるとそれなりに快適だった。

車で通勤したくて、遠雷は仕事場で酒を飲む日を減らした。買物に行く回数も増えた。たまには翡翠の送り迎え、そしてタフタを乗せて、タフタの遊べる場所まで遠出した。

遠雷、ずいぶん気に入ってるね。物欲薄いと思ってたけど、買ってよかったね。

と、翡翠に揶揄うように言われるまで、遠雷は自分がプロキオンを手に入れて、浮かれていることに気づかなかった。彼の言うとおり、紛れもなく今ではこのおもちゃのような車に、愛着が湧いていた。

せっかく買ったんだから、なるべく使わないと損だろ、とその時は言い返したが、それから早や三ヶ月、日に日に気温があがり、緑が色濃く眩しいほど輝く季節になって、変わったのは翡翠のほうだった。

「おれも免許取ろうかな」

「要らないだろ」

大学へは地下鉄かモノレールで通っているし、そもそも歩いたところで三十分くらいの距離なのだ。

「でも、そのうち欲しいと思ってたし、なんか遠雷楽しそうだし」

免許を持っている者が同乗して、普通車に教習中の表示を出していれば、免許のない者もどこでも走れる。主に翡翠の授業のない午前中、遠雷が仕事に行く前の時間を利用して、運転の練習が始まった。最初は近所を一回り。慣れたら近場の市場まで。

初めの二、三回はハンドルを持つ手が緊張気味だった翡翠だが、勘は悪くない。みるみる運転に慣れていった。それから一ヶ月が経ち、翡翠は教習試験の申し込みをした。試験に先立ち、練習の仕上げにと、翡翠と遠雷は車で少し遠出することにした。

行き先はアンディエルと隣州プトレマイオスの境目にある、ハレーという町だ。

ハレーの北にはヒッパルコス平原、南にはアルバテグニウス湖があり、小さな町が古くから変わらない大自然に囲まれている。アンディエルからはおよそ二百キロほどの距離で、高速道路を使って行ける。町の名前は周期的に現れる彗星の名でもある。

日帰りできる場所だが、翡翠も遠雷も行ったことがない。少し調べると、タフタの遊ぶ場所もあることがわかって、運転の練習を兼ねた行き先にはもってこいだ。この機会に平原と湖を見てみよう、ということになったのだ。

土曜日の朝、早くに家を出る。アンディエルの町を抜け、どこが境目だったのかわからないような高速道路に乗ってしまうと、車の数がぐっと減った。翡翠が速度を上げる。時速百キロ以下では走らない。やがて無事にハレーについた。

大自然に溶けるような古い町並みを散策し、昼食を摂り、タフタを連れてヒッパルコス平原を歩いた。ハレーに戻って休憩し、なかなか充実した滞在だった。午後遅く、彼らは再び来た道を戻る。帰りは遠雷が運転するつもりだったが、

「おれ、帰りも運転するよ。ほとんど一本道だったし、高速下りたら変わって」

と、言うので、遠雷は助手席に乗った。タフタは犬用のシートベルトを締めるとすぐにうつぶせになり、眠り込む体勢だ。たくさん遊んで疲れたのだろう。

「日曜、やっぱりちょっと緊張するな」

翡翠が唐突に言った。週末の日曜に、翡翠は運転免許の試験を受ける。

「今日みたいにやってれば確実に大丈夫だ。だいぶ上手くなってる。学科も問題ないだろ」

「試験官が遠雷だったら良かったのに」

「心配ならついていってやろうか? タフタと一緒に後部座席に乗って、試験官に野次でも飛ばすか。それともずっと翡翠を応援するか?」

「どっちも絶対やだ! おれの気が散る!」

薄笑いで言った遠雷に、翡翠は顔を顰めて叫んだ。後部座席で、名前に反応した犬が小さく吠える。

「翡翠の友だちは、みんなを免許持ってるのか?」

「半々くらいかなあ。アンディエルだと、車がなくても特に不便はないしね」

道路の脇に、木立が現れた。このまま進むと高速道路へ乗り入れる。

「アンディエルはさあ、海がないじゃん。免許取ったら、そのうち海辺とか走ってみたい。タフタも乗せて。コノンみたく」

「あの日は」

突然出てきたその名前に、遠雷はあの町にいた時のことを思い出す。まだ一年半しか経っていない。けれどもう一年半も経った。

「大雨だったろ。外なんてよく見えなかったけどな」

翡翠の横顔を眺めて遠雷は言った。

「そうだけど」

「コノンだったら、現地で車を借りるんだな。カペラでもいいんじゃないか。親御さんの車借りて、静かの海がすぐそばだし、神酒の海もすごくきれいなんだろ?」

「せっかく慣れたんだから、この車で行きたいよ。でも神酒の海はいいね。もう何年も行ってないし、遠雷にも見せたいよ。まあ、それより先に受からないとね。試験の日も、これくらい車がいなければ気楽だなあ」

翡翠がそう言って溜め息をつく。行きに使った高速道路も、ハレーの町中も車の数が少なかったが、試験はアンディエルの町中を走行するので、ここと同じようにはいかないだろう。そんなことを話しながら、高速の入り口に続く、大きなカーブにさしかかった時だった。

「あれ」

翡翠が首を傾げて、わずかに速度を落とした。

「どうした」

視線の先を見ると、道路の脇に人影が見える。その人影は、両手を大きく振って、道路の中へ入ってくる。翡翠はさらに速度を落とした。

近づいていくと、道路の真ん中に立ったのは若い女だ。見た目は翡翠と同じくらいの年頃で、長袖のTシャツにジーンズ。その服装で外に出るには、まだほんの少し季節が早い。

女が彼らの行き先を塞ぐように道路の真ん中に突っ立ったままなので、翡翠は手前で車を停めた。彼女が近づいてくる。

「ヒッチハイクってやつか」

「ほんとにいるんだ。道路に立つなんて危ないな」

長距離道路でヒッチハイクする人々のことを噂には聞いていても、ふだん高速道路を使わないふたりは見たことがなかった。

車内にわずかに緊張が走ったが、翡翠は運転席側の窓を少し開けた。

「どうしたんです?」

「乗せてくれない?」

彼女は窓硝子に顔を近づけ、中を窺うようにして言った。翡翠が答えあぐねているので、遠雷は運転席側へ身を乗り出す。

「他あたってくれ」

女が顔を顰め、辺りを見回す。

「困ってるの。良さそうな車がなかなか通らなくて」

「俺たちの車は良さそうなのか?」

女がフロントウィンドウを指さす。

「『教習中』って出てるから」

翡翠と遠雷は顔を見合わせ、小さく笑った。そして女の方へ視線を向けると、今度は翡翠が口を開く。

「ヒッチハイクですか? どこまでです?」

「どこまで行くの?」

「アンディエルです」

女はつかのま考えるそぶりで、

「わかった。そこまででいいよ」と、すぐに頷いた。

「ヒッチハイクですか?」

翡翠がもう一度たずねる。

「まあ、そんなとこ」

荷物取ってくる、と彼女はすでに背中を向けていた。遠雷は翡翠に目配せする。

「このまま行くか?」

「でも、女の子だよ。こんなとこでひとりなんて」

翡翠は不承不承という顔ではあるが、それでも車を道路の脇に寄せた。彼女はすぐに、中身の膨れたナイロンバッグを抱えて戻ってきた。

「あれ、犬がいる」

窓越しに後部座席を覗き込んで、驚いたように彼女は言った。外から見た時は気づかなかったのだろう。

「俺が後ろに移るよ、荷物はトランクに」

遠雷は助手席から下りた。開けたトランクに荷物を置いてやりながら、

「中身はなに?」

「身の回りのもの。服とか」

「ちょっと見せてもらっていいか」

女が顔を曇らせる。

「知らないやつを乗せるんだ。おかしなものを持ってないか、見せてもらいたい」

遠雷が冷たくそう言うと、女はしぶしぶといった表情で、それでもバッグのファスナーを開けた。彼女の言うとおり、衣類と旅行用の収納袋が入っている。一見しておかしなものはなさそうだった。遠雷が軽く頷くと、彼女はわずかにほっとした顔で、ふたたびファスナーを閉めた。

彼女が助手席に乗り、遠雷は後部座席へ。少し窮屈になったタフタは、遠雷の膝に頭を乗せ、再び目を閉じる。翡翠が車を発進させた。女は座席の背にもたれ、深く息を吐いた。

「ありがと、助かった」

女がぽつりと言った。

「あなたたちは? 犬つれて旅行?」

「まあ、そんなとこ」

翡翠が前を向いたまま答える。それから高速に乗るまで、誰も喋らなかった。わずかに車内に緊張感が張りつめる。大きなカーブをふたつ抜け、高架の高速道路に乗り入れた。行きと同じように、翡翠がスピードを上げる。

沈黙を破ったのは女だった。彼女は振り向き、遠雷に、

「お腹すいた。なにか食べるものない?」と、言った。

バックミラー越しに、翡翠がわずかに顔をしかめたのが見える。遠雷は笑いながら、

「図々しいな」と、返す。

「キャンディ持ってたんだけど、バッグの中に入れちゃってた」

「スナック菓子しかない」

遠雷はそう言って、座席の下に置いていた袋から、ポテトチップスの袋を取り出した。ヒッパルコス平原で食べようと思って買ったのだが、昼食だけで満足し、結局食べずに残っていたのだ。

「それで良い。ちょうだい」

「車の中でもの食べないでよ」

翡翠が険しい顔で、女を見た。

「非常事態なんだから、しょうがないよ」

女は平然とそう言って袋を受け取り、さっそく封を開けている。

ぱりぱりと音を立ててポテトチップスを食べ始めた彼女から顔を背けて、翡翠は苦い顔をした。

「あんた、名前は?」

車内に漂うポテトチップスの匂いに、タフタが顔を上げたので、遠雷はタフタの顔を撫でながら聞いた。

「まず先に名乗ってよ」

「おれは遠雷、こっちが翡翠」

遠雷が軽く指さしながら言うと、ものを食べたまま、女が振り返る。

「エンライってなに? 翡翠はわかるけど」

「遠くに聞こえる雷」

「それをエンライって言うの?」

「そう」

ふうん、と彼女は頷いて、顔を前に戻した。

「あたしはカンナ」

「カンナビス? 偽名か?」

「よくわかるね。でも別に、本名でも偽名でもどっちでもいいでしょ。気に入ってるの」

「そんな名前つける親いないよ」

ふたりのやりとりを聞いていた翡翠が言うと、カンナは肩を竦める。

「そんなことないよ、子どもに変な名前つける親もたくさんいるよ。翡翠が知らないだけ」

その言葉に翡翠はふたたび、顔を曇らせる。

運転を代わったほうがいいかもな、と遠雷が思った時、カンナが続けた。

「あたしの親はちがうけど」

「やっぱり偽名だ」

「どうでもいいでしょ」

「ヒッチハイクで旅行? 学園都市のアンディエルに?」

「旅行っていうか…」

彼女はそういいかけたきり、黙ってしまった。ぱりぱりとポテトチップスを食べる音だけが、車の中に聞こえる。

「ふたりはなんなの? 兄弟? カップル?」

「一緒に住んでる」

「ふうん」

もう、お腹いっぱい、とカンナがポテトチップスの袋の口をねじって、遠雷に渡した。窓の外は徐々に日が落ち、夕日が空を茜色に染める。雲の合間に見える地球が、うっすらと光りだしているのが見えた。今日は欠けてゆく途中の地球だ。

バックミラー越しに、カンナも窓の外を見上げているのがわかった。翡翠は運転することに集中している。

「ここからその、アンでなんとかまでって、どのくらいかかるの?」

翡翠に顔を向けて、カンナが聞いた。

「三時間くらいかな。つく頃には日が沈んでるよ」

「そう」

「旅行じゃないの?」

「うーん…」

歯切れ悪くくちごもったカンナに、翡翠はまた顔を曇らせる。

「ねえ、もしかして、家出とかじゃないよね。おれたち、誘拐とかになったりしないよね」

「十八は超えてるだろ」

後ろから遠雷が言うと、カンナが不敵に笑った。遠雷は手を広げて、腕を伸ばす。

「身分証、見せてくれよ」

「持ってない。置いてきちゃった」

「十八は超えてるよな? 本当のことを言わなかったら、このままUターンしてハレーに戻る」

カンナは身体ごと、遠雷の方を振り向いた。

「あたし、いくつに見える?」

翡翠は顔を顰めている。遠雷は首を傾げ、わざと多めに見積もった年齢を口にした。

「二十五歳」

「ぶー、はずれ」

楽しそうにそう言って、カンナは初めて笑顔を浮かべる。

「ほんとは四十一歳なの」

「へえ、それならずいぶん若く見えるな、全身整形?」

「遠雷!」

「ううん、違う」

さすがにたしなめた翡翠を横目に、カンナは楽しそうな表情で首を振る。そして少し声を落とし、内緒話を打ち明けるようなそぶりで続けた。

「あたし、地球人なのよ」

「はあ?」

翡翠が素っ頓狂な声を上げた。主人の声にタフタがびくりと身体を震わせ、顔を上げる。おかげで遠雷は驚かずに冷静でいられた。

「翡翠、前、前」

前後の車とはだいぶ距離があるし、危険はない。ただ、助手席に相応しい相手ではなかった。

「あはは、驚いた?」

翡翠と遠雷を代わるがわる眺めたカンナに、遠雷は顔を顰めて見せる。

「嘘つきは嫌いだ」

「みんなそう言うけど、嘘じゃないよ。」

翡翠は横目で彼女を見たが、黙ったままなにも言わなかった。

カンナは再び背もたれに深く背を預け、小さく溜め息を吐く。

「あたしは病気なんだって。しばらく入院したほうが良いっていうの。そうしないと、治らないからって」

「地球人が治って、月面人になるの?」

横から翡翠が聞いた。カンナは肩を竦める。

「そういうことになるね。お父さんたちの言い方だと」

「病院から逃げ出してきたのか」

「ううん、病院に連れて行かれるとこだったの。持ってきたバッグは入院セット。タクシーに乗せられるところを、逃げ出してきたんだ。あたしは病気じゃないって何度も言ったんだけど、その度に、お父さんとお母さんはやっぱり病気だって言うの」

「いつからだ」

「え?」

遠雷の言葉に、カンナが振り向く。

「いつから月に?」

「一ヶ月前から」

「それまではどうしてた?」

「地球にいた頃ってこと?」

遠雷が頷くと、カンナは少し考え込むそぶりをし、そして少しだけ顔を曇らせた。

「それが上手く思い出せないの。なんだか半年くらい眠ってみたいな気分で、その前のことがはっきり思い出せないの」

翡翠がほんのわずかに、呆れたような視線を向ける。

「記憶が途切れ途切れなの。地球から月に来たせいなのかな。はっきりした記憶があるのが、一ヶ月前くらいから。気がついたらわたしは病院のベッドに寝てて…、両親がそばにいた。後で知ったんだけど、そこは警察の病院で、わたしは行方不明で捜索願いが出されてたんだって。無事に見つかって良かった、って、両親は喜んでくれたんだ」

だけど、と彼女は窓に持たれるようにして、記憶を探るような遠い目で続けた。

「気がついてびっくりした。こんな若い子の姿になってるんだもん。身分証の生年月日だと、二十三歳だって。嘘でしょ。あたしは四十一歳で、娘も息子もいたのよ。まだ十二歳と九歳で、一緒に月に行けるって聞かされてたのに…」

そう言うとカンナは顔を歪めて俯くと、両手で顔を覆った。

「あたしが今いるのはどこなの? こんなはずじゃなかった。地球に戻らなきゃ」

「アンディエルから地球に戻れるの?」

「わかんない。でも、もう病院へ行く準備はできてるからって言うの。お金も身分証も取り上げられて、どうしたらいいかわからない。だけど病院へ入れられたら、しばらく出られないっていうのはわかった」

暗い調子でそう言ったカンナが俯いたままなので、翡翠と遠雷はバックミラー越しに視線を合わせた。遠雷は先に小さく溜め息をつき、笑って見せる。

「地球には縁があるな。嬉しいだろ」

「もっとまっとうに関わりたいなあ」

翡翠も苦笑して、軽く肩を竦めた。彼らのやりとりにカンナが顔を上げたので、翡翠はそれまでとは違う、穏やかな口調で言った。

「カンナさん、きっとなにか、混乱してるんですよ。今の地球は人間が住めるところじゃないんですよ」

「警察も医者も両親も、みんなそう言ってた。だけど月の人は知らないんだよ、地球にまだ人間がいるってこと」

「だけどカンナさんは、自分がどうやって地球から月に来たのかもわからない」

「それは…、思い出せないの」

「地球ではどんな暮らしを?」

「それが…、とにかくひどくて、食べるものもろくになくて、飲み水も少ないし、みんな病気になって死んでいくの。なんだか水や空気が汚れてるとか言って…、だけどよく思い出せないの」

翡翠がやれやれ、というように溜め息を吐く。

「カンナさんの話だと、肝心なところが思い出せないみたいですね」

「わかってる。信じてもらえないのは、わかるんだけど…」

彼女はそう言ってもどかしそうに、両手のこぶしを握った。

「どうして月に来たいと?」

「月は楽園だって聞いてたから。子どもたちがお腹を空かせなくて良いし、危険もないって聞いてたから、お金を貯めて…」

「楽園じゃなかったか」

カンナはつかのま黙って、

「…地球にいた時」と、彼女はぽつりと言った。

「あたし、父親の顔も知らないし、母さんも途中でいなくなっちゃった。月に来て、あたしの両親だっていう夫婦がすごく優しいんで、びっくりしたの。でも」

と、彼女は言葉を途切れさせる。

「あたしはあの人たちの娘じゃないし、優しくされるのに慣れてなくて。どうしていいかわかんないの」

茜色の空が紫色に変わり、星が瞬き始める。地球もますます輝きを増して、今夜も赤く光っている。

サービスエリアまで一キロを示す看板が見えたので、翡翠と遠雷はそこで休憩することにした。カンナは不安そうにしていたが、食事を奢るというと、頷いた。

翡翠はタフタのトイレに行く、と言って、タフタにリードをつけると水の入ったボトルを持って、こういう場所に必ずある緑地帯の方へ行った。遠雷はカンナを誘い、食堂へ入る。ドーム型の広々した食堂は、天井が透明な素材でできていて、地球と星が見えた。

「月の建物って、ふつうの家だけじゃなく、どこもこういう植物でできてるんだね。室内なのに床が土と芝生って、慣れないよ」

カンナが心細そうに呟く。遠雷は悪いと思いながら笑ってしまった。

確かに月面人から見たら、彼女は完全に頭がおかしい。どこか気がふれていると思うだろう。月面人の多くがそこで育っているはずの、有機工法が見慣れないなんて。

ただ、と遠雷は思う。自分には覚えがあった。それは自分もかつて感じたことだ。

適当に食事を注文し、ふたりは動物同伴席になっている窓際の席に向かい合って座った。

不安そうに揺れる目で、彼女は窓の外に広がる駐車場と、遠雷を交互に眺めた。

その姿を眺めて、遠雷は地球の言葉で話しかけるかどうか迷った。黒南風と名乗った少年が、トリスネッカーで自分に話しかけてきたあの時のようにすれば、カンナの言うことが嘘か本当か、すぐにわかるはずだ。

「カンナビス」

だが、口から出たのは月の発音だった。

「あそこに地球が見えるだろ? ここは月だ。あんたはもう、月に来てるんだ」

そう言いながら天窓の外の夜空に浮かぶ、下弦の地球を指さす。

「あんたは今、動揺してる。月の生活にも、まわりの人間関係にも慣れない。そうだろ?」

カンナはどこか訝しげに遠雷を眺めて、小さく頷いた。

「ここから家に連絡するんだ。それで、迎えに来てもらえ。衝動的に飛び出しても、闇雲にアンディエルに行っても、なにも解決しない。地球には戻れないし、あんたの子どもたちのことも、わからない」

「だけど、このままじゃ病院に…」

「治ったふりをして、学ぶんだ。地球のことや、自分が地球人だって騒ぐのは、しばらく止めとけ」

料理が運ばれてきて、会話が止まった。給仕が立ち去ったのを見届けて、遠雷は再び口を開く。

「月のことを学ぶんだ。二十三歳に戻った気分でな。あんたは運が良い。今、周囲の人間に記憶が混乱していると思われてるんだろ? なにをたずねてもおかしくない。知らないことを学ぶんだ。地球とは違う、月のことを。月でどうやって生活すれば、自然に思われるのかを。時間はかかっても、冷静さを取り戻すにはそうするしかない。それでも地球に戻りたかったら、それから戻る方法や、子どもたちのことを考えればいい。今、焦って衝動的になにかしても、なにも変えられない」

カンナの目が少しずつ見開かれる。

「遠雷、あなたは…」

「俺は正真正銘の月面人だ。ただ、あんたの言ってることが嘘だって決めつける理由もない。でも、翡翠は信じない。あんたの両親と同じように、あんたのことを病気だと思うはずだ。だからこの話は、ここで終わりにしてくれ」

カンナの目が大きく揺れた。

「できそうか?」

「わからない」

カンナはそう言って首を振った。両目に涙が滲んでいる。

「怖くて怖くてしかたないの。子どもたちと必ず会えるとは限らないって、聞かされてたのに。捨ててきた地球の生活はそんなに悪かった? こっちに来てこの身体になってから、地球にいた時のことが上手く思い出せなくて…。頭の中で砂嵐が吹き荒れてるみたいに、漠然としたことしか思い出せない。あたしはどうやってここへ来たの? あたしはただ、子どもたちを捨てただけ? 自分が良い生活を手に入れたかっただけなんじゃないかって…。月に来たら自分の両親がいて、育った家があって、全然知らない知り合いがいるっていうことが、怖くて怖くて仕方ないの。あたしは一体誰なの? 地球から来たの? それとも本当に月面人で、なにか悪い病気なだけ? あたしには本当に子どもがいたの? 地球で暮らしていたことがあったの? 自分が何を言ってるか、それが本当なのか嘘なのか自分でも、わからないの」

「それが本当なら」

震える声で言ったカンナに、遠雷は続けた。

「怖くて当たり前だ。誰だって最初は戸惑うんだ。怖いから逃げ出したくなるのは、弱いからじゃない。誰だってそうなるはずだ」

「そう思う?」

遠雷は頷く。

「あなたも怖かった?」

「怖かったよ。怖くて怖くて、心細かった。自分はこんなに弱くて情けない臆病者なのかと、ずっと惨めな気持ちだった。一ヶ月どころじゃなかった。克服するには何年もかかる。まあ、全部想像だけどな」

「…今までどうやって暮らしてきたの?」

「手探りだよ。ひとつも思い通りにならなかった。がっかりすることもたくさんあったよ。でもそれも時間が経てば受け入れられたし、今の生活も悪くない。慣れることも、悪いことばかりじゃない」

遠雷はわざと曖昧に言って、笑って見せる。カンナも笑おうとして、しかし顔が歪んだだけだった。そして彼女は両手で顔を覆ってテーブルに伏せた。それからしばらくその場ですすり泣いていた。店内の注目を少しばかり集めたし、タフタを連れて現れた翡翠はなにごとかと慌てたけれど、遠雷は気にしなかった。

彼女が病気だろうと、本当に自分と同じような地球から来た人間だろうと、どうでもよかった。それが判ったところで、遠雷が彼女にしてやれることはなにもないのだ。

泣きやんだカンナは、それでもしっかりと注文した料理をたいらげた。スナック菓子だけでは物足りなかったのだろう。お腹が空いてたというのは嘘ではなかったようだ。

そして翡翠に、ここから家へ戻ると言った。彼女は端末を持っていなかったし、家の通話番号がわからなかったので、調べるのにしばらく手間取ったけれど、上手く連絡がつき、カンナの父親が迎えに来ることに話が決まった。

「ありがとう、遠雷、翡翠」

「落ち着いてくれて、よかったよ」

別れ際に、そう挨拶する。ドーム型の建物にカンナを残して、遠雷と翡翠は車に戻った。

「翡翠、運転を代わるよ」

先に運転席に回ってそう言うと、翡翠はどこかほっとした顔になる。タフタを乗せてから、翡翠が助手席に乗り込んだ。

「忘れ物は」

「ないよ、大丈夫」

遠雷が車を発進させる。既に日が沈んでいるので、行き先をライトで照らした。出口へと続く沿道にカンナが立っていて、彼女の姿が車の白い光の中に浮かぶ。

ためらいがちに手を振った彼女に、翡翠は窓を開けて手を振って応え、遠雷はクラクションを一度鳴らしてそれに応えた。

サイドミラーに映っていた彼女の姿が、どんどん小さくなり、やがて見えなくなる。

日はすっかり沈み、雲がかかった星空の間に、地球が赤く輝いているのが見える。

翡翠は背もたれに深くもたれ、大きく溜め息を吐いた。

「正直言って、ほっとしたよ。あのままアンディエルまで一緒かと思った。遠雷、上手く説得したんだね」

「説得ってほどのことはしてないけどな。まあ、ふだん客商売だからな。知らない相手と話すのも慣れてるし」

「そっか、そうだよね」

そう呟いた後、ふたりはしばらく黙っていた。サービスエリアからだいぶ離れた頃、翡翠が半ば独り言のようにぽつりと呟く。

「地球人症候群の人、初めて見たよ」

「俺もだ」

「嘘つく人ってよく喋るって聞いたことあるけど、確かにそんな感じ。だけど、カンナさんは泣いてたね。苦しそうだった」

「病気なんだろ。本人は苦しいはずだ」

月には『地球人症候群』という疾病がある。遠雷はそれを、翡翠から教えてもらった。

ある時突然、「自分は地球人だ」と言いだし、地球での生活を詳細に話したり、月面人としてのそれまでの記憶を一切失ってしまう症状のことだ。乖離性人格障害、俗に言う多重人格の一種だと考えられていて、つまり月では突然「自分は地球人だ」と言い出す者は、心疾患だとされているのだ。

遠雷は初めてそれを翡翠から聞いた時、自分のことだと思うよりも、ああ、やっぱり同じような奴が他にもいるんだ、と思って胸がざわめいた。

それを知った後に会った黒南風、そしてたった今別れたばかりのカンナ。

きっと確実に、月面には地球人が暮らしている。自分のように。

「地球のことを聞くチャンスだったのに」

「心の病だよ。そんなふうに面白がるなんて、不謹慎だと思う」

翡翠は神妙な顔でそう言って、それから少し考え込む。

「なにが原因で、自分は地球人だって思うようになるのかな」

遠雷は道路の先を見たまま、目を細める。車の通りは少なく、遙か先にバックライトが見えるだけだ。

「前にも話したことあるかも知れないけど」

翡翠の表情に、遠雷も笑うのを止めて続けた。

「辛いできごとがあると、脳はそれを忘れさせようとするっていうだろ? それまでの生活が辛くて、自分を助けるために脳が地球人だって設定を作り出すんじゃないか」

「そうかもしれないね、カンナさんにも、なにかあったのかも知れないね。だけど、本人がそれを忘れてて、忘れたことでラクになるんじゃなく、苦しんでるっていうのが、なんだか切ないね」

そう言って、翡翠はわずかに悲しそうな顔をする。

「地球人症候群って、どうして発症するのか、原因がわかってないんだよね。自分は平気なつもりでも、もしそうなるかもって考えると、怖いよ」

「俺がある日突然、自分が地球人だと言い出したら?」

「あ、でも遠雷だったら大丈夫な気がするなあ。いつも地球のことでホラ吹くし、今だって常識ないし。もし月のこと忘れちゃったら、俺がまた一から教えるよ」

そういって翡翠は小さく笑った。遠雷もつられて笑って頷く。

「そりゃありがたい」

「それに地球人症候群になったのが遠雷だったら、地球のこと教えてって頼めるよ」

「親切のお礼に、翡翠だけに、本当のことを教えてやるよ」

「なに?」

「地球人症候群は心疾患じゃない。取引したんだ。地球人は地球での過酷な生活にうんざりしてる。金を払って月面人になるんだ」

「言ってることめちゃくちゃだね。お金を払うって言ったって、どうやって地球人が月に来るのさ。それに、重力も酸素濃度も気温も気候も自転速度も、月と地球は全然違うんだよ。ほんとに月に来られたとしても、地球人が月で暮らせるわけないよ」

「さあ? 詳しいことが俺にわかるわけないだろ? ただ、上手く月面人になれたとしても、月での生活に馴染めるかどうかはまた別の話だ。地球人症候群だって診断されたそいつはきっと、月の生活に馴染めなかったんだな。それと、地球の生活に未練があった」

「またでたらめを…」

翡翠は苦笑して遠雷を眺め、それからふと真顔に戻り、しばらく黙って遠雷を見つめた。

どうした、と遠雷がたずねようとしたその時、

「遠雷も」と、翡翠が先に口を開いた。遠雷の横顔を窺うような表情で。

「月から逃げ出したいくらい、辛いことがあったの?」

一瞬、黙って翡翠を見つめてしまった。すぐに笑い飛ばすべきだった、と思ったけれど、すでに遅く、タイミングを逃してしまった。

「さあ、どうかな」

そう言って首を傾げるので、精一杯だった。

「地球人症候群にかかりそう?」

今度は翡翠が余裕の笑みを浮かべて、遠雷の表情を窺う。

「それは翡翠のほうじゃないか、いつでも地球地球って。地球人の気持ちを味わってみたいと思わないのか」

「おれは地球環境学が好きだし、地球に関心があるけど、地球人になりたいわけじゃないよ。あくまでも月面人として、地球のことを究明したいんだ」

溜め息交じりに翡翠が答える。遠雷もひとつ大きく息を吐いた。

「なら、用心することはひとつだ。もし誰かに、地球に行けると唆されても、絶対に耳を貸したりしないこと。本当に地球にたどりつける保証はないし、二度と戻って来られないから」

「誰かにって? 地球行きのシャトルに乗ってみないかとでも誘われるってこと?」

「さあ? どんなふうに誘いの言葉をかけてくるのか、俺にもわからない」

「でたらめな上に、いい加減なんだから」

呆れたように、翡翠が答える。

「なあ、翡翠、それでも約束してくれ」

「なにを?」

顔を上げた翡翠は、不思議そうな表情で遠雷を見る。

「もしも本当に今、俺が言ったような言葉で地球に行かないかと勧誘するような奴がいたら、絶対に断ってくれ。もしも迷うようなことがあったら、俺に言えよ。黙って決めるようなことだけは、しないでくれ」

その言葉に、翡翠が困ったような表情のまま、笑い飛ばした。

「どうしたの、変な遠雷。そんなこと起こるわけないよ。ありえないってば。地球人症候群とは関係ないじゃん」

「もしもの話だ。約束してくれるか?」

「その時、遠雷がいなかったらどうするのさ」

「どこにいても駆けつけるよ」

その言葉に翡翠は、仕方がない、というように頷いた。

「うん、そんなに言うなら約束するよ。遠雷に黙って、地球に行こうとしたりしない。でもそんな話、本当に馬鹿げてるよ。遠雷お得意の空想だと思うけどね。でも、約束する」

その言葉に、遠雷は頬を緩めた。自分でも思ってもみなかったほどに、気持ちが軽くなる。会話が途切れ、車内は再び沈黙に包まれた。けれどそこに気まずさはなかった。遠雷は黙ったまま車を走らせる。

やがて隣から静かな寝息が聞こえてきた。てっきり後部座席にいるタフタの寝息だと思っていたが、どうやら翡翠も眠ってしまったようだ。

道路の先に、電光表示版が見える。

アンディエルの市街地まで約五キロ。もう間もなくだ。先ほどから、高架下に広がる景色に、建物の明かりが増え始めている。

遠雷は一瞬だけ眼を閉じた。目蓋の裏に人影が映る。

あの、一緒に月に逃げようと約束した、愛しい女の影が。

その影が形を結ぶ前に、遠雷は目を開ける。そしてカンナを思い浮かべた。

まったく別人の姿で戸惑い、震えていた、月面に下り立ったばかりの彼女を。

彼女の言葉を信じるなら、彼女にもまた、理由があったはずだ。地球を離れて、月へ行きたいと強く思う理由が。

だけど、本当に辛いのは、地球での生活じゃない。地球を忘れることじゃない。

今の遠雷はそう思う。

地球にいた頃、あれほど強く願った月での生活が、自分の思い描いていたものとまったく違うものに変わっていくことだ。

遠雷はあんなに必死で、あんなに夢中で約束を交わした彼女のことを、もうはっきりとは思い出せなくなっていた。この身体に馴染むにつれ、地球での生活が、あの頃の記憶がどんどん薄れて、代わり映えしない日々の生活に取って変わられていく。

右に目を向けると、翡翠が半分背中を向けて眠っている。バックミラー越しには、後部座席を占領して寝そべるタフタが見える。

この狭苦しい車内に息づくものが、今の遠雷の生活の大半を占めるものだった。

地球にいた頃は想像もしていない、望んでいたこととはかけ離れた生活。月に来てからの四年で、こんなにも変わってしまい、そして今の自分はそれに慣れてしまった。

それと同時に、彼女を見捨てたような気分が続いている。その罪悪感が消えない。

その罪悪感を抱えたまま生活することにも、遠雷は慣れてしまった。

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