<2> 月の祝祭

外の気温に比べて、広々とした室内はほどよく暖かい。床に敷き詰められた芝生が、足の裏に柔らかく当たる。わずかな湿気と緑の濃い匂いに、ふだんは古ぼけた保存家屋に暮らしている遠雷は、月に来て四年半が経った今でもどこか落ち着かない。

しかも今彼の腕の中には、小さな赤ん坊がいた。

その男の子は手に握りしめたおもちゃをしゃぶり、翡翠によく似た緑色のまん丸な目で、機嫌が良さそうに遠雷を見上げている。赤ん坊を抱くなど生まれて初めての遠雷は、そのあまりの小ささに、押しつぶしてしまわないかと、内心でひやひやしていた。

それなのに少し離れたテーブルに向かいあって座る翡翠と、彼の姉で赤ん坊の母親でもある手鞠は、興味深そうに遠雷と赤ん坊を眺めて、

「おっきくなったら、持ちやすくなったねえ。安定感が違うよ」

「あの時の倍よ、倍。もう重たくって」

と、呑気なことを話しながら、遠雷が昨日この家で、つまりカペラ市の翡翠の実家で作ったカスタードプリンを食べていた。遠雷の足元にはタフタが寝そべっているが、眠らずに顔を上げている。どうやら彼の不安を察知して、なにかあれば遠雷の抱える小さな生き物を助けに、すぐに動くつもりのようだった。

手鞠が息子と夫とその両親を連れてやってきたのは昨日だが、赤ん坊はその日一日ずっと他の大人たちに囲まれていて、遠雷はそれを遠巻きに眺めていればよかった。だからこんなふうに小さな赤ん坊を腕に抱き、特有の乳臭い匂いを嗅ぎ、衣服越しに柔らかさと体温を感じながら、膨らんだ小さな頬を間近で眺めるのは初めてだった。



十二月三十一日と一月一日を挟んだ一週間は、新年の休暇だ。遠雷の仕事も休みだし、学生の翡翠はもう少し休みが長い。翡翠は二十九日から三日までカペラ州の実家に帰省することにして、遠雷もそれに誘われた。

休暇中に特別な用事もないし、一緒に過ごしたい相手もいない。翡翠の実家は夏に一度訪れて、彼の両親は遠雷をとても気持ちよく迎えてくれた。また会えるのを楽しみにしてるよ、という翡翠の言葉の後押しもあって、遠雷は二つ返事でついていくことにした。

それともうひとつ、カペラの競馬を見てみたかったのだ。

月では年明けにあちこちで新年を祝う競馬レースが開催される。中でもカペラ市の競馬はもっとも有名な祭りのひとつだ。

なんでも翡翠の両親はレースに出場する馬主チームに名を連ねていて、この時期は休暇どころではないらしい。だがそのおかげで、観光客でカペラがごった返す時期でも、馬主席でレースを見物できるのだと、翡翠はどこか自慢気に言った。前夜祭、当日、後夜祭と続く催しは規模も大きく、翡翠も帰省に合わせてそれを見物するのを楽しみにしている。

タフタを連れて帰省ラッシュで混み合う空港から飛行機に乗り、二十九日の午後には翡翠の実家についた。

翡翠の両親、母親の茉莉と父親の鷲羽は、半年ぶりに再会した遠雷の、様変わりした髪の色を見て驚いていた。けれどすぐに以前会った時と同じように、息子の友人を温かく迎えてくれた。但し、遠雷が見る限り、もっとも歓迎されていたのはタフタだったけれど。

その日は買い出しに付き合ったり、茉莉の夕食作りを手伝ったりして、穏やかに過ごした。茉莉は料理が好きでかなりの腕前だが、遠雷の料理に感心し、とても誉めてくれた。鷲羽は遠雷のために高い酒を開けてくれ、遠雷は心置きなく飲んだ。

三十日になると、翡翠の姉の手鞠が、十月に生まれた赤ん坊の雫と、夫とその両親を連れてやってきた。彼らはその日この家に泊まり、翌日は近くのホテルに宿泊するという。三ヶ月になる雫は、遠雷からもタフタからも関心を奪い、その場の大人たちはみんな赤ん坊に夢中だった。

遠雷は茉莉に頼まれて、普段は作る機会のない焼き菓子を数種類、台所で作って過ごしたが、夕方が近づくにつれ、この一家には赤ん坊と同じくらい重要なことがあると気づいた。

翡翠の両親は、競馬レースの準備があるから、と娘婿の両親を連れて出掛けてしまった。以前から案内する約束だったのだそうだ。遠雷が作った菓子は、茉莉がみんなに配る、と言って持って行った。会場には他の親戚も集まっているらしい。この家のぶんは別に取ってある。

残った翡翠の姉夫婦と翡翠のために、夕飯は遠雷が作って、誰からも喜ばれた。もっとも、昨晩のご馳走がいろいろ残っていたので、簡単なものを少し足しただけだったけれど。

手鞠の義両親が帰ってきたのは日付が変わる頃だった。祭の始まる前だが、既にかなりの人出があり、それを見越した屋台や大道芸人たちが集まっているので、相当賑やかだったと話した。祭の準備は楽しかったようだ。したたかに酒が入って上機嫌の彼らに、息子が少し困った顔をして、その妻はどこか得意げだった。

そして今日、三十一日だ。

翡翠の両親が会場にある馬主チームの寄り合い所に泊まり込んだので、家の洗濯や掃除などは、ほとんど翡翠がやっていた。遠雷も勢い手伝わざるを得ず、朝と昼は彼が食事を作ってみんなに振る舞った。このぶんだと夕食も作った方がいいだろうな、と思っているところだ。

翡翠とふたりになった時、まさか人が出払うのを見越して、炊事させるために俺を呼んだのか、とわざと恨みがましく言うと、

「でも、助かってるよ」と、あっけらかんと翡翠に言われ、笑ってしまった。

その通り、遠雷は見知らぬ家で、店の客とは違う相手に、自分の料理を振る舞うのを楽しんでいたし、皆がおいしいと口々に言ってくれるのは、悪い気はしなかった。

午後になると、茉莉だけ一度戻ってきた。手鞠の義両親を、今日は馬房へ案内するらしい。これはレースに参加するチームの関係者でないと入れない。特にレース前のこの時期は、馬になにかあってはいけないから、関係者であってもかなり厳しく馬に近づくのは制限されているらしい。出掛ける支度をしていた義両親に、手鞠が夫にもついていくように勧め、話はすぐにまとまった。

遠雷も誘われたのだが、祭り見物は翡翠が別に予定を立てていた。盗み見た彼が遠雷の返事を気にしてかどこか不服そうだったので、遠雷は遠慮して、姉弟と一緒に家に残った。

家の中に人が少なくなると、手鞠はどこかほっとした表情になる。義理の両親との関係は良好のようだが、それでもなにかと気を遣うのだろう。

赤ん坊は翡翠が独占していた。

生まれたばかりの十月に会った時は、その小ささに恐れをなして抱けなかった翡翠だが、昨日も今日もおむつを変えたりミルクを飲ませたり身体を動かし体操させたり、乳児向けの絵本を読み聞かせしたり、なんともかいがいしい。

そんな翡翠の姿と、彼の近くに寝そべるタフタを交互に眺めて遠雷は、翡翠は自分より小さい生き物の世話をするのが好きなのかもしれないな、とぼんやり思った。タフタだって、今でこそ二十五キロで小さいとは言えないが、翡翠が引き取った頃には両手に乗るほどの大きさしかない子犬だったのだ。

傍でぼうっとしていた遠雷に、翡翠はいたずら心を起こした。抱えた雫を近づけて、せっかくだから抱いてみろ、と言ったのだ。

手鞠の手前、断るわけにも嫌な顔をするわけにもいかない。それで遠雷は仕方なく、柔らかくて小さな赤ん坊を、そっと自分の腕に抱いたのだ。

赤ん坊は機嫌がいいらしく、むずがることもなく見ず知らずの遠雷の腕に収まっている。

自分を抱えているのが何者なのか、じっと目を凝らして見つめている。遠雷はどうしていいかわからずに、翡翠がやっていたのを見よう見まねで、腕をゆっくり動かし、身体を揺すってやった。すると赤ん坊は嬉しそうに笑って、声を上げると両手を振った。

「翡翠に似てないか」

「あー、遠雷ちゃんもそう思う? みんなに言われるんだ」

わざとらしいがっかりした口調で、手鞠が言った。

翡翠と手鞠は、一目で姉弟とわかるくらい顔立ちや雰囲気が似ているが、手鞠のほうが目鼻立ちがはっきりしている。赤ん坊は未発達なせいか、顔の輪郭や唇の薄さが手鞠より翡翠のほうに似ていた。それに、目の色はそっくりだ。

「きっと優性遺伝だね。おれみたいに優秀な子に育つよ」

「まあ、翡翠みたいになってもいいけどさ」

呆れたように手鞠が答える。遠雷は笑って口を挟んだ。

「今だけだろ。成長すれば、もっと父親にも似るかも知れない」

「髪の色は濃くなるだろうからね。髪の色だけは自分の遺伝だ、って必死になってたの。いやいや、ぜんぶあんたの子だってば」

夫との産室でのやりとりを思いだしたのか、手鞠が笑った。

遠雷は再び、腕の中の赤ん坊に目を落とす。しゃぶっていたおもちゃを口から離し、にこにこしながら遠雷を見上げている。遠雷は昨日から、この小さな赤ん坊が大人たちから向けられる関心を見てきた。

こんな風に、とふと思う。

自分のすり替わったこの身体も、月面のどこかで両親や他の誰かの、たくさんの祝福に囲まれ、生まれてきたのだろうか。それとも誰にも望まれずに、それでもこの世界に生まれてきてしまったのだろうか。

遠雷は、この身体の持ち主を知る人間に会ったことはない。どんな経緯で、この身体が遠雷に提供されたのか知ることもない。この身体が遠雷にすり替わる前、どんな人々に囲まれ、どんな風に育ち、そしてどんな生活をしていたのか、遠雷は知る術が無いし、興味を持ったこともなかった。

いや、むしろそれを意識して考えないようにしていただけかも知れない。

「雫って名前、女の子みたいって言われなかった?」

翡翠が手鞠に話しかける声で、遠雷は我に返った。

「最近はどっちかわからないのも多いから。あたしの友だちの子どもも、女の子だけど夢って名前だし。雫って名前、お義母さんたちも気に入ってくれてるし、もうそういうの、だんだんなくなっていくのよ」

女の子には草花の名前を、男の子には自然にちなんだ名前を、それが月の習慣だが、最近ではそれも薄れているらしい。遠雷が月へやってきたわずか数年の間でも、ものごとはどんどん移り変わってゆく。小さな月面人が毎日どこかで誕生し、そのひとりが今、自分の腕の中で、よだれを垂らしている。よだれが頬を伝って遠雷の指先に触れたので、彼は母親の方を見ていった。

「よだれ垂らしてんだけど」

「あー、拭いてあげてー」

手鞠に言われた時には、雫が首にかけているよだれかけで、小さな口元をそっと拭っていた。それが楽しかったのか、子どもがまた声を上げて楽しそうに笑った。

「遠雷ちゃん、これお店で出してるの? すごくおいしい。明日用にもういっこ、とっといてもらえばよかった」

プリンの器を空にして、手鞠が名残惜しそうに言った。

「茉莉さんに言われて試しに作ってみただけだけど、気に入ってもらえてよかったよ。材料があればすぐ作れるけど、牛乳がもうちょっとしかなかったかもな」

「今日はスーパー開いてないよね、残念」

「手鞠、だんなさんと一緒に行かなくてよかったの?」

「少しゆっくりさせて」

苦笑しながら手鞠が言った。

「でも、遠雷ちゃんは昨日から買い物以外どこにも出掛けてないんでしょ。家の手伝いさせてばっかりじゃだめだよ。せっかくカペラに来たんだから、お祭りの会場くらい見てきたら? たぶんもうすごい人だけど、レースに出る馬も今日はお披露目に、コースを歩いて回るはずだよ。あたし雫と留守番してるから、どこかに行ってきていいよ」

彼女のこういう申し出を聞くと遠雷は、彼女と翡翠は紛れもなくこの家で育った姉弟で、そして茉莉と鷲羽の子どもなのだと感じる。思わず微笑んだ遠雷より先に、翡翠が答えた。

「あとでパレードを観に行くから。手鞠こそ、雫ちゃん見てるから出掛けてきていいよ。カフェくらいなら開いてるとこあるんじゃない」

「いいの、外寒いし人も多いし、今日は家でごろごろしてたい。あ、でも後でタフタの散歩、あたし行こうかな。ねえタフタ、あたしと一緒に行ってくれる?」

自分が呼ばれたと思ったのか、タフタが起きあがって手鞠の足元に近づいた。手鞠がその喉元を優しく撫でる。

「フラノとは違ってずいぶん大きいよね。色はまあ、なんとなく似てるけど」

彼女は懐かしそうに目を細めてそう言った。姉弟がまだこの家に暮らしていた頃に家族の一員だったその犬は、今でもしっかり居間に写真が飾られている。タフタと違って毛が短く、垂れた大きな耳とぴんと立った尻尾が印象的だった。写真で見てもなんとなく、目つきが似ている、とタフタしか知らない遠雷は思ったのだ。

「前も話したけどさ、子犬のころはフラノの小さい頃にそっくりだったんだよ。こんなに大きくなるなんて思わなかった。大きくならないで欲しかったわけじゃないけど」

「そうよね、違う犬だもんね。タフタはタフタで可愛いもんね」

手鞠はそう言いながら、足元の犬を撫でて話しかける。しばらくそうしていたが、ふと、タフタの毛並みに触れたまま顔を上げ、真顔で遠雷を見た。

「ねえ、遠雷ちゃんの髪の色、どっかで見たなって思ったけど、タフタにそっくりじゃない? 気のせいかもだけど、タフタの色にしようとしたの?」

翡翠は笑いだし、遠雷は赤ん坊を取り落としそうになって、危険を察知したタフタが体当たりするように遠雷に駆け寄ったので、一同は少々慌てる羽目になった。



出掛けていた家族が戻り、手鞠は雫を連れて、夫とその両親と近くのホテルへ行ってしまった。今夜はそこで過ごすらしい。遠雷は翡翠の両親と一緒に遅い夕食を摂ったが、話題は明日のレースのことでもちきりだった。それでも彼の作った焼き菓子は、振る舞った相手に好評だったらしく、茉莉にも鷲羽にも礼を言われたのは嬉しかった。

夜の十時過ぎ、翡翠と遠雷は家を出た。前夜祭のパレードを見に行くのだ。

三十一日のパレード、そして明日の競馬レースを観るために、この時期、カペラ市には多くの人が押し寄せる。普段は人口一万人足らずのこの町は、新年の休暇の頃には三倍近くもの人で溢れる。

会場は歩いて二十分ほどの距離だが、遠雷は既に飲んでしまったし、翡翠も珍しく会場で飲みたいというので、なら歩いて行こう、ということになったのだ。

すっかり日は落ちて暗くなっているが、辺りはそこそこ明るい。街灯以外にも、通りの家々が思い思いに、庭先を橙と緑の電飾で飾っているからだ。翡翠の家も、ささやかだが生け垣に電飾が点っている。

「これはカペラの新年を祝う色なんだよ」

「そう言えば、コノンにいた時は、青と白だったな。毎年飾りつけしてたよ」

電飾を眺めながら歩くと、人通りもちらほらあることに気がついた。目指すところは皆、同じようだ。少し寒かったが、それを見越して着こんでいる。歩いてるうちに、まもなく寒さも感じなくなった。

「あれ、ここ、昨日通った道か?」

道案内は翡翠に任せて、ほろ酔いでなにも考えずに歩いていた遠雷だが、どことなく昨日の夕方にタフタの散歩で通った場所のような気がして、ふとそれを口にした。

「そうだよ。おれの小学校の頃の通学路」

「夜になると違う場所みたいだな」

小学校の校舎には装飾がない。休暇期間のために門扉は閉ざされ、明かりもないので、鬱蒼とした校舎が暗がりに沈んでいる。道を曲がりながら、翡翠は反対の道を指さした。

「あっちに子ども向けの文房具屋と、駄菓子屋があるんだ。帰りに友だちと寄り道するの、楽しかったよ」

「二日に会う連中か?」

「そうそう」

年が明けた二日、翡翠は同窓会代わりの集まりに行くことになっていた。遠雷も誘われたが、これは丁重に遠慮した。知り合い同士の輪に入るのが嫌だというより、同窓会ともなれば必然的に昔話、思い出話に花が咲くはずだ。社交辞令だとしても、誰かが自分に話を振らないとも限らない。適当にはぐらかすことを考えると心が重く、面倒だった。

「こっちが中学。こっちの知り合いも来るんだよ」

翡翠がそう言って、指し示す。夜の暗がりに、樹木の生い茂る建物がぼんやり浮かんでいる。電飾で明るく彩られた通りに、小学校の校舎と同じくここだけが暗い。小学校のすぐ裏手に中学校があると聞いていたが、この道はタフタの散歩では通らなかった。

「高校は?」

「地下鉄で通ってたよ。三駅離れたところに行ってたんだ」

「楽しかったか?」

「うーん、学校はね、あんまり好きだと思ったことはなかったんだけど、卒業してみたら楽しかったのかなあ。友だち、多くないけど、連絡取り合ってる奴は何人かいるし」

翡翠が首を傾げてそう答えた。その間に大通りに出る。車の往来する音が聞こえ、行き交う人、というより祭の会場を目指す翡翠と遠雷のような人々の姿が急に増える。

通りに沿って緑と橙の提灯が無数に連なり、明々と今年最後の町を照らしている。

ざわめきが大きくなり、通り沿いにちらほら開いている店や、屋台が点々と並んでいるのが見えた。焼いたり煮たりする匂いや湯気が、辺りに漂い始める。

「カペラは休暇どころじゃないな」

「そうだね、一年で一番賑やかかも。夏の競馬も盛り上がるし、観光客が増えるけど」

普段とは違う町の姿を眺めながら遠雷が歩いていると、その横顔に話しかけるように翡翠が言った。

「遠雷が育ったのは、どんなとこ?」

「こんなに良い環境のところじゃなかったなあ」

辺りをぐるりと見回しながらそう言って、彼は軽く肩を竦めた。

荒涼とした大地、埃っぽい空気は吸い込むと、目や鼻の奥が痛んだ。まだその頃、彼の名前は遠雷ではなかったけれど、いつでも飢えていた。このまま死ぬのではないかという不安と恐怖と、いつも戦っていた。

隣で寄り添ってくれた人を本当は大切にしたかったのに、不安を紛らわせるために、不満と怒りをぶつけて傷つけた。それが生きることだと思っていたから、そうした振る舞いは自分だけじゃない。だが、お互い様だとしても、それは理由にならない。

「どの辺りかも教えてくれないの?」

翡翠がほんの少しだけ不満そうに、遠雷の顔を覗き込む。

「もう少ししたら話すよ。今は上手く言えない。でも、忘れないうちに話すよ」

それは遠雷の本心だったが、同時に彼は、多色体質の話をした時の翡翠の表情を思い浮かべた。翡翠は人見知りするが、人当たりは良い。大切に育てられたことが伝わってくるような人柄だ。そんな翡翠でさえも、自分とは異質な人間には、嫌悪感を抱くのだ。

「うん、そうして。遠雷がどういう風に、どんなところで育ったのか、知りたいもん」

まだなにも知らない翡翠は、そう言って深く頷いた。

大通りからパレードの出発地になる広場へ続く道へ入る。人の量がさらに突然、どこにいたのかと思うほど増えた。そして、先ほど嗅いだ屋台の匂いが一気に濃くなる。道の両端にはところ狭しと風避けつきの屋台がひしめきあい、その前に人垣ができている。ほとんどは酒を出す店のせいか、通りに立って大声でなにか言いながら、陽気に笑っている者もちらほらいる。

普段では眉を顰められる行為だが、今夜のこの場所には相応しかった。

その理由は遠雷にもわかる。今夜のカペラ市はどことなく浮き足立ち、幸せな気分に満ちていた。この人混みの中にも短いリードをつけて犬を連れて歩いているカップルや家族連れがちらほら見えて、翡翠はその度に犬に目を向け、

「タフタも連れてきてやればよかったかなあ」

と、溜め息のように言った。吐く息が白い。現在の気温は十度を下回っている。降らずにすみそうだが、雪の予報も出ていたのだ。一週間前に降り積もったという雪もまだ、わずかだが街路樹の根本や道の片隅に残っている。

「やめとけ、寒いし、この人混みだぞ。暖かい家にいるほうがいいだろ」

「そうなんだよねー」

翡翠はそう言って苦笑した。最初は連れて来る予定だったのだが、家を出る時、タフタは温風機の前に寝そべり、既に目を閉じて眠っていた。久しぶりに会う人々と遊んで疲れたのもあるのだろう。起こすのも忍びなく、そのまま家に残してきた。

通りに並ぶ建物に間に渡された無数の緑と橙の提灯の明かりが、翡翠の顔をまだらに照らす。それが表情を明るく見せて、遠雷もつられて笑った。

その時、人混みの向こうで小刻みな太鼓を打ち鳴らす音が響いた。辺りから歓声があがる。翡翠と遠雷も、顔を見合わせた。

「始まりの合図だよ、出遅れちゃったね」

続いてラッパの音が鳴り響いた。時計を見ると、時刻は十時三十分。再びの歓声。

遠雷も自分の胸が高鳴るのがわかった。なにが起こるのか知らなかったし、楽しみに待っていたわけでもない。それでも電飾で彩られた夜の町の輝きと、ここに集まった人々の表情や話し声、そして鳴ったばかりの太鼓とラッパの音が一体になり、この場所の空気はなにか楽しいことを期待させる気配に満ちていて、それが遠雷にも伝わった。

道行く人の流れが急に速くなり、みんなが我先にと広場目指して進んでいく。翡翠と遠雷もその波に乗って、広場に出た。会場は相当な混雑だ。詰めかけた人の向こうにロープが張られ、そこに集う華やかなパレードの梯団が、自分たちの出発を待っている。

大道芸人や踊り子たち、中世の衣装をつけた一団などが、人や動物や城、果ては月や地球を模した巨大な山車と一緒に、楽団を引き連れて大通りを歩くのだ。

夜に不似合いな陽気な音楽とともに、行列の最初の一団が動き出した。翡翠たちが歩いてきたのとは別の、パレード用に通行止めしてある道を通って、これから大通りへ進み出る。遠雷と翡翠からは見えないが、一斉に打ち鳴らされる太鼓の音と、それに合わせたラッパの音、耳を澄ますと、野太い男の声が合唱しているのも聞こえてきた。

続いて電飾に飾られた山車がやってきた。祭の色とは違う、青白い豆電球で飾っている。前後左右に四人の旗振り役が乗っていて、自分の背丈ほどの巨大な旗を振り回していた。

全員が一斉に慣れた手つきで旗を巻き、旗竿をぽんと空中へ放り投げる。再び掴むのは、時計回りに左の相手が投げた旗竿だ。一斉に拍手が起こり、旗振り役たちは八の字に旗を振って歓声に応えた。

これは少し離れたところにいる遠雷と翡翠からも見えたので、ふたりも惜しみない拍手を送った。観客の間に酒を売る行商人が見えたので、遠雷は呼び止めて熱いウィスキーを二杯買った。気持ちは高揚していても、場所が場所だ。翡翠は普段あまり酒を飲まないが、手渡すとぐいと呷った。

その機嫌が良さそうな様子で、遠雷はこの場の雰囲気に飲まれているのは自分だけではないのだとわかった。じっとしているとさすがに寒くなってしまうので、観客たちは思い思いに見物の人垣を離れ、無数に立ち並ぶ屋台で暖を取ったり、ロープ越しにパレードの一団にくっついて歩いたりしている。

翡翠と遠雷も、楽隊と踊りの一団や、いくつかの迫力ある山車、仮装行列などを見送って、しばしパレードから離れた。屋台はどこも人で埋まっているが、パレードから離れると、まもなくふたりで入れる屋台が見つかった。座るのとほとんど同時に、注文した温かいウィスキーがふたりの前に並べられ、遠雷は翡翠とささやかに乾杯する。この屋台だけでなく、周囲のあちこちから、陽気な叫び声や笑い声が聞こえてくる。

「遠雷、どの馬にするか決めた?」

「どうするかな。翡翠は親父さんとこの馬を買うんだろ」

明日のレースの馬券の話だ。レースに参加できるのは十二頭。まず最初に予選を勝ち抜いた二十頭が選ばれて、次に競技に参加できる馬主チームが十二組選ばれる。十二組のうち八組は去年参加できなかったチームで、残りの四組だけが抽選になる。二十頭の中から十二頭の出場馬が決まるのはその後で、参加が決まった馬主チームの馬が確実にレースに出られるとは限らない。さらに本戦の一ヶ月前に、どのチームがどの馬でレースに出場するかが抽選で決められる。この仕組みのせいで、出場する馬主チームに自分たちが大切に育てた馬が当たることは滅多にない。馬主チームにできるのは、自分たちの見込んだ騎手を用意することだけだ。

だからこそ、どの馬に賭けるか、その馬が一位になれるかは、観客にとって新年最初の運試しなのだ。

「スタークラウドは良い馬だよ。父さんは勝てそうだって言ってたし、あとはもちろん、プレアデスを買うよ」

翡翠の両親のチームは、運良く去年も今年も参加権を獲得していた。一昨年は参加できず、去年の馬は三着という結果だったので、今年はとりわけ熱が入っているそうだ。

「兄さんたち、明日はイータ・カリーナと『王者』アンドロメダの一騎打ちだよ」

つまみに頼んだ木の実を盛った皿を持ってきた屋台の店主が、得意げにそう言った。遠雷は笑って答える。

「じゃあ俺は、そのうちのどっちかを買うかな」

「オレの見立てじゃあアンドロメダだねえ。なんといっても去年の優勝馬だからなあ」

「一頭身差で引き離して、すごかったね」

翡翠の言葉に店主は嬉しそうに頷いて、奥に引っ込んだ。

「でも、去年とは馬の半分が入れ替わってるから」

翡翠が遠雷の耳元で囁く。遠雷は答えるかわりに軽く笑って、辺りのざわめきを聞きながらグラスの中身を呷る。パレードを眺めながら先に一杯飲んだせいで、どことなく既に酔いが回っているようだ。それかもしくは、この場の雰囲気に酔ったのかも知れない。

「妙な気分だな、こんな風に年明けを迎えるなんて」

頬杖をついてそう呟くと、翡翠が真顔になって彼の顔を覗き込む。

「嫌だった?」

「そんなわけないだろ、逆だよ」

遠雷は首を振った。

「なんだか俺も浮かれてる。こんなつもりじゃなかったのに」

「飲んでるし、遠雷、けっこう人の集まるとこ好きだもんね」

「うん、それもあるけど、なんかここに集まってる連中が全員幸せそうに見えるのも、良い気分なのかもな」

遠雷はこれまでに三度、月で新年を迎えている。三度だ。改めてそれを考えると、遠雷の胸の奥はかすかにざわめく。それが嬉しさなのか悲しさなのか、自分でもよくわからない。今までは三度とも彼はコノン市にいて、住み込みで働いていた宿泊所で年越しした。従業員のほとんどが休みを取るが、宿泊客はゼロにはならないので、彼を含めて残れる者は重宝された。そして遠雷と同じようにどこにも帰る場所がなく、共に過ごす相手もいない連中が何人かいて、遠雷は彼らと一緒にこれまで毎年ひっそりと、まるで世界の片隅にいるように、新しい年を迎えていた。

遠雷は今まで、それこそが自分に相応しいと思っていた。

なのに今年は打って変わって、賑やかな年越しの祭りのまっただ中にいる。夜中になっても祝祭の明かりが煌々と輝き、遠雷は去年までの暗がりにいた自分が、今年は明るい場所に引き出された気がした。それは決して、嫌な気分ではなかった。

「みんながみんな幸せってわけじゃないと思うけど、でも、ここにいる人たちはみんな、お祭り気分を楽しもうとはしてるかもね」

「誘ってくれてありがとな、翡翠」

「なに、変だよ。酔ってるの? そんな改めて言われることじゃないよ。父さんも母さんも、遠雷に会いたがってたしさ」

翡翠は照れくさそうに視線を反らした。

「大変なのは明日だよ、チームの観戦席があるけど、早めに行こうね」

「俺は翡翠の親父さんがあんなに熱く、行動的な人だとは思わなかったよ」

「なんかね、新年祭のことになると、目の色が変わるんだ」

「お兄さんたち、そろそろだよ」

風避けを払って、冷たい空気と共にふたりの背後から知らない男が声をかけてきた。酔っぱらっているのか赤い顔をしている彼は、言うだけ言うとすぐに外へ出る。再び顔を出した屋台の店主も、彼らを見てにやりとわらった。

遠雷と翡翠は、飲みさしのグラスを持って外に出る。立ち並んだ屋台から続々と人が外に出て来た。屋台の店主も同じだ。十秒前から、カウントダウンの声がどこからともなく上がる。

『はち、なな、ろく』

翡翠よりも先に、遠雷もそれに加わった。

『ご、よん、さん』

翡翠が呆れたように笑って、最後は一緒に声をあげた。

『に、いち』

その場にいた人々の声をかき消すように、ひゅう、と夜空に巨大な火の玉が打ち上げられ、次の瞬間、轟きとともに巨大な花を咲かせた。

『明けましておめでとう!』

辺りにたくさんの人々の声が湧き上がり、手にしたグラスを次々に打ち鳴らす。遠雷と翡翠はまずお互いのグラスを鳴らして、それから周囲にいる見知らぬ人々と順々に、グラスを寄せた。

花火が次々に打ち上げられ、澄んだ夜空に大輪の花を咲かせ、ここまで聞こえていたパレードの音をかき消す。

見知らぬ人々と笑い合い、口々に「明けましておめでとう」と、言い合う翡翠の姿を眺めた遠雷は、こんなに幸せな新年を迎えたのは生まれて初めてだ、と思った。



翌日の競馬レースで、遠雷は翡翠の両親のチームの馬プレアデスともう一頭、マゼランという最も人気のない馬を買った。ここまでの予選を勝ち上がるだけの実力がある馬だが、気分にムラがあると評判で、さらに今年は騎手との相性も悪いと言われて、敬遠されていた。

レースは当然の番狂わせが起こり、可もなく不可もなくとあまり注目されていなかったヒアデスという馬が最後の直線で追い上げ一着、僅差でイータ・カリーナが二着になり、『王者』アンドロメダは三着、という結果で、会場は盛大に沸いた。

スタークラウドは五着、翡翠の家族の馬であるプレアデスは残念なことに八着だった。自分のチームの馬よりも自分たちの馬の順位が低いことに、翡翠は大いに悔しがり、騎手の悪態をついた。さらにふだんは決してそんなことをしない彼は、外れ馬券をふたつに引き裂くと、観客席から放り捨てた。遠雷が驚くと、祝いごとだからいいんだ、とあっさり言った。

その通り、レース会場には花びらでも舞うように外れ馬券が舞い、観客の頭に降り注いでいた。

遠雷の買ったもう一枚、評判の悪いマゼランは、大一番とは思えない鈍い走りで予想に違わず最下位だった。だが、遠雷は馬券を破る気にも捨てる気にもなれず、アンディエルまで持って帰ってきた。

新年の祝祭が終わり日常に戻っても、しばらくの間、この小さな紙切れを見ると浮かれた祝祭の気分がよみがえり、遠雷を幸せな気持ちにしてくれた。

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