<4> 天体の泡沫

夏の日射しの下、テラス席のテーブルの上には、涼しげなグラスに入ったソーダ水が置かれている。

遠雷の前に置いてあるのは、縁から底にむかって透明、水色、藍色のグラデーションのソーダ水。翡翠の前にあるのは透明、ピンク、マゼンタで、ベリー系のシロップを使ったソーダ水。翡翠が自分のグラスを手に持ち、

「調理師免許合格、おめでとう」

笑いながらそう言って、遠雷のグラスにぶつける真似をしてみせた。

「そりゃどうも。もう二週間前だけどな」

遠雷は気が無さそうにそう言った。乾杯が済んでも飲むことは許されない。翡翠は遠雷の前からもグラスを引き寄せると、テーブルの上に並べたり動かしたりして、端末のカメラで二色のソーダ水の撮影している。

炭酸の泡がきらきらと輝いて弾け、まるで銀河が広がっているようだ。製品名は宇宙ソーダと言い、いかにも翡翠が好みだ。というか、最近になって特にこだわり出したと思うのは、気のせいではないはずだ。

遠雷は自分の影が写真に写らぬよう身を縮こまらせて、ぼんやりとそれを眺めた。



調理師資格の試験に受かったのは二週間前だ。

翡翠が運転免許を取ったのと入れ替わるように試験の準備を始めた遠雷は、図書館のサイトでレシピブックを山ほどダウンロードして、家にいる時は台所に立ち、片っ端から料理を作っていた。

食べきらないうちに次の料理を作るので、鍋も冷蔵庫もいっぱいになる。翡翠は学校へ弁当を持っていき、夜は友人を招待し作り置きの食事を振る舞って、遠雷の料理を無駄にしないよう、精一杯の努力をしてくれた。

たまに顔を合わせる時は、台所に立っているばかりの遠雷を見て半ば呆れたように、

「心配しなくても、遠雷なら受かるよ」と、言った。

「心配なんかしてない。ただ、完璧にやりたいだけだ」

翡翠は遠雷が作り続ける勢いに、うんざりし始めていたのかもしれない。遠雷自身も、ここまでする必要はないとわかっていた。それでも試験の当日まで、料理するのを止めるつもりはなかった。翡翠に答えた言葉も本心だ。遠雷はどこかで、一心に料理を作り続ける自分を楽しんでいた。

こんな風に目的を持つこと、それを目指して練習すること、そして、必ず達成できると確信するのは、初めてのことだった。

この身体を手に入れたからかも知れないし、月に来て生活が変わったからかも知れない。どちらでもあるし、どちらでもないのかも知れない。とにかく遠雷は、最後までやり遂げたかった。

迎えた試験日は、筆記テストと実技が少し。どちらも問われたのはごく基本的なことばかりで、遠雷は危なげなく試験に受かった。

翡翠は喜んでくれたが、果たしてそれは遠雷が免許を取ったことなのか、際限なく作られる料理が止まったからなのか、遠雷にはわからない。とにかく翡翠は、

「お祝いしなくちゃ」と言い、休みがなかなか合わずに二週間後の今日になってしまったが、彼が行ってみたかった、というこの店を訪れたのだ。

メニューを見て遠雷は苦笑した。なんのことはない、この店は以前、翡翠に一度行ってみたいと誘われて、遠雷がやんわりと断った店だった。

看板メニューは宇宙ソーダで、その他に何種類ものボリュームのあるケーキやパフェが売りの店だ。遠雷は甘いものが好きではないし、流行の店にも関心がないので、他の友だちと行ったほうがいいんじゃないかと言ったのだ。学校の友人は気恥ずかしくて誘えない、と翡翠は答えて、この店の話はそれきりになっていたのだが、忘れていなかったらしい。

遠雷の合格祝いを建前に、思う存分憧れの宇宙ソーダの写真を撮って、翡翠も今日、自分の目的を達成したというわけだった。

遠雷の前にブルーのソーダ水が押し出された。気は済んだのか、と目を上げると、翡翠が笑って頷いた。口に含むと、甘さと共に舌の上で泡が弾ける。遠雷は甘いものがあまり好きではないが、美味しいと感じた。気温のせいで喉が渇いていたからかも知れない。

時刻は午後二時半。空は夏空の見本のような青さで、遠くに入道雲が見える。

青緑のパラソルが、夏の日射しを透かしてふたりの上に青い影を作っている。遠雷はグラスから口を離すと天を仰いだ。柔らかい風が吹き抜けて、遠雷の髪を揺らした。

天気が良くてよかった、と遠雷は思う。

店内は混み合うというほどではなく、テラス席は自分たちの他に、若いカップルと、女性のふたり連れがいるだけだ。どの席でも煙草を吸っている。遠雷と翡翠がこの陽気にテラス席を選んだのも、同じ理由だ。

遠雷の目の前で、翡翠が煙草の箱を開けている。銘柄は『一角獣座』で、遠雷がいつも吸っている安煙草だ。灰皿を前に頬杖をついて、遠雷はテーブル越しにそれを眺めた。

外にいるには暑い上に、煙草の煙が好きではない翡翠がこの席に座った理由が今、彼の手の中にある。

「やった、地球だ!」

煙草の箱から長四角のカードを引っ張り出した翡翠は、満面の笑みで子どものように歓声をあげた。

「けっこう早く出たな。よかったな」

煙草の箱を受け取りながら、遠雷もつられて笑った。一本取り出して火を点け、一服する。

翡翠は合格祝いだと言ったけれど、宇宙ソーダも煙草のカードも、なんだか翡翠の楽しみにばかり付き合わされている気がする。けれどそれも悪くない気分だった。

こんな風にゆったりとした気分で、休日の午後を過ごすのは久しぶりだ。遠雷は翡翠が手にした小さな長方形のカードに視線を向けた。



七月の始めから九月の終わりまでの三ヶ月間、『一角獣座』を買うと、おまけのカードが同封されているキャンペーンをやっていた。六十年だか七十年前だかの、『一角獣座』発売当初に同封されたカードの復刻版らしい。

『一角獣座』は製品名の通り、パッケージに一角獣の星座があしらわれている。おまけカードも同じく絵柄のモチーフは天体で、翡翠が調べたところによると、太陽系の八惑星に月と太陽を加えた十種類の惑星と、四季の星座の中から特に有名な北極星やオリオン座などの絵柄が二十種類だ。遠雷は星座のことなどほとんどなにも知らないが、車の名前になっているので耳馴染みがある。

彼はキャンペーンが始まる前からこの銘柄を好んでいたし、キャンペーンのことなんて気にもしていなかった。ただ、カードが封入された最初の箱を開けた時は家にいて、大学に行く前の翡翠もたまたまそこにいた。

一服しようと換気扇を回したキッチンで箱を開け、煙草を引き抜こうとした時、絵の描かれたカードが入っているのに気がついた。取り出して見ると濃紺の背景に、水色に塗られたやけにおおきな尻尾のクマと、その上に小さなクマが逆さに描かれている。大小のクマの身体の中に、白抜きの点がいくつか打ってあった。

「動物のカードなんて、子ども相手じゃあるまいに」

煙草ではなく駄菓子のおまけのようだ。そう感じた遠雷は、半笑いで呆れながら翡翠にそれを見せたのだ。手渡されたカードをつかのま眺めた翡翠は、

「これ、星座だよ。おおぐま座とこぐま座だね。遠雷がいらないなら、おれにちょうだい」

と、言った。翡翠がこうやって無遠慮に他人のものを欲しがるのはかなり珍しい。気に入ったのか、と遠雷はふたつ返事でそれを譲った。次の煙草を開けたのは四日後で、仕事終わりで帰る前に、店の裏で煙草を吸う時だった。

四日前の珍しい翡翠の姿を思いだして、遠雷は路地裏の頼りない明かりの下で注意深くカードを見た。こないだと同じ長方形で、絵柄が違う。薄明かりの下で見ると、水色の背景に白抜きで円が描かれていて、その円は紺色の輪に囲まれている。木星のカードだった。

新しいカードをテーブルの上にメモと一緒に置いて置くと、次に顔を合わせた時、翡翠はまた喜んでお礼を言った。

「木星があるってことは、これ、月と地球のカードもあるのかなあ」

「よく知らないけど、全部で三十種類くらいあるみたいだから、あるんじゃないか。出たらやるよ」

「遠雷って、一箱どれくらいで吸い終わるんだっけ」

「だいたい三、四日で一箱にしてるけど、減らせる時は減らしてるから」

翡翠は箱の裏に小さく書かれたキャンペーンの詳細を読んだ。

「おまけカードは九月末までだって。十月くらいまではカードが入ってるのが出回ってるだろうけど…」

「全部は無理だろ。だいたい、ダブるだろうし」

彼の言わんとすることを察して、遮るように遠雷は言った。翡翠がわざと鼻白む。

「全部集められるとは思ってないよ」

「同じの吸ってる客にも聞いておいてやるよ。欲しいのがあるなら、早めに教えてくれ」

「そこまでしなくていいけどさ」

翡翠は首を振ったが、どこか嬉しそうにそう言った。それから一週間、次のカードはペルセウス、その次がシリウスと、星座が続いた。翡翠にとってははずれではないが、大きな当たりでもないらしい。

まあ、熱心に集めようと思ってたわけじゃないし、と翡翠が独り言のように呟いたのを聞いたので、遠雷は同じ銘柄を吸っている店の客から、金星のカードをもらった。翡翠は喜んでくれたが、カードを集めようとする彼の気持ちに再び火をつけることになったので、見ようによっては自分で自分の首を締めたかもしれない。

そんなことがあって今日、店の近くのスタンドで、新たに一箱買ったのだ。



翡翠はカードをひっくり返した。裏には絵柄となった惑星や星座の簡単な説明と、それにまつわる一行詩が濃紺のインクで印刷されている。

「『青い宝石は月面人の夢の中で輝く』だって」

「青くないじゃないか」

遠雷は空を見上げた。晴れた午後の空に、白い地球が浮かんでいるのが見える。夜になって太陽に照らされても、地球の輝きは赤味がかった褐色だ。

「地球にまだ大気があった頃は、海は青かったらしいから、大昔の話だよね。地球の表面は九割が海だし、夢の中なら海が青いころの地球が現れるってことかな」

そう言いながら、翡翠はカードを遠雷に渡した。親指ほどの小さなカードは、これまで見てきたカードと同じように二色刷りだ。水色を背景に濃紺の円が描かれている。円には白抜きで雲がかかっていた。その上の方に、白抜きの小さな円がもうひとつ浮かんでいる。地球の衛星、月だ。

「ってことは、この絵柄、今の地球じゃないんだな。地球人がいて、月面人はいなかった頃だ」

「言われてみればそうだね」

翡翠がソーダのグラスに口をつけて頷いた。

「地球が滅びずに青いまま、地球人と月面人が同時に存在してたらどうなるだろうな」

「それは永遠のテーマだよ。地球人には宇宙遺構を打ち上げる技術力があったから、きっと月にも来てたと思うよ」

「月面人はどうする? 地球人を追い返すか」

「そんなことしないよ。月政府が賓客として迎えるんじゃないかな。惑星間交流が始まれば、気軽に地球に行けるかも」

「地球に行っても、月面人は重力の負荷で地上に立ってられないんだろ? 快適な旅行とは遠いんじゃないか」

「そうだねえ、やっぱり中間地点に宇宙ステーションを置くのかなあ。そこで地球服に着替えて、地上に適応できるようにしたりとか」

「月から来た奴らを、地球人はどう思うかな」

「どう思うかって? 月面人が来たな~、くらいの感じじゃないの?」

首を傾げた翡翠に、遠雷はわざと眉を顰めてみせる。

「自分たちで環境汚染を作り出して滅びた連中だぜ、そう簡単に余所者を歓迎するか?」

「まーた遠雷は、地球人を愚かで好戦的な人類にするのが好きだねえ。滅びてない頃の地球の話でしょう。地球人だって、月面人に関心を持ってくれるよ」

「月が地球の衛星だっていうのは紛れもない事実だろ。月面人を下等だと考えるかも知れない。宗主国と植民地みたいに」

「月が地球に侵略されたことはないけどね」

そう言いながら翡翠はにやりと笑った。

「惑星間交流が始まったら、地球政府は月面人を招くんだよ。もてなすふりをして、月のことを聞き出すんだ。経済や資源や、月政府の機能のことを」

「そうやって月面人の視察団を引き留めて、気づいた時には月に帰る手段が失われてる」

「地球から提供されたシャトルだったからね。月面人たちは自分たちの運命が地球政府の手の中にあることに気づくんだ」

「地球人の攻撃性を目の当たりにして、月面人たちは絶望する。だけど地球には政府に抵抗する組織があって、その連中に助けられるんだ」

「抵抗組織と協力して、シャトルを取り返して燃料を調達して帰れることになるんだよね。その頃には月面人と地球人の間に信頼関係が生まれてるけど、敢えて交流を続けない選択をする。お互いに異質すぎるって、わかったから。ストームの『赤い庭』だね。おれが借りてきたの、読んでたの?」

遠雷はばれたか、と言って、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。

「端末借りた時にちょっとだけ。でも展開が少し強引じゃないか? 最初は親切だった地球政府の地球人が、いきなり暴力的になるだろ。相手は月政府の視察団なんだし、侵略の理由も説得力が足りないな」

「おれもそう思う。友だちに薦められて三作目までは読んだけど、飽きちゃった。でも『地球もの』って根強い人気があるんだよね」

翡翠はそう言って笑った。

「へえ『地球もの』って言うのか」

「うん、そうだよ。それにしても遠雷と話してると、地球に対するロマンが失われていくなあ。ただのディストピアSFみたい。地球人はそんなに野蛮じゃないよ。優れたものだってたくさんあるんだよ? 医療とか化学技術は月より進んでたって、証明されてるんだから」

「でも滅びた」

「そうだけど」

「だとしても、翡翠のやってることには価値があるだろ。地球人がどうして滅びたのかも、今の地球の調査も、これからの月世界の役に立つじゃないか。過去に学べってな」

「遠雷、過去は振り返らない主義だって言ってたじゃん」

「俺のは思い出の話。翡翠のは学問の話だろ」

「わかってるよ」

翡翠は笑って残りのソーダを飲んでいる。遠雷は目を細めてそれを見つめた。

地球を捨てたくて、あの頃を忘れたくて月へやってきたのに、翡翠といると、いつでも遠雷は、地球のことを思い出す。地球で暮らしていた時のことや、感じていたこと。

「でも、青い地球を絵柄に使うなんて、なかなかセンスがいいな。発売したての『一角獣座』は」

手にしたカードを差し出しながら言うと、それを受け取って翡翠はもう一度眺める。

「他のカードも全部水色と紺のインクだから、使える色の制限のせいだと思うけど。でも、そうだね。赤い地球よりも夢があるよね」

翡翠はそう言って、手にいれたばかりのカードを大切そうに自分の財布にしまった。

底の方に残ったソーダを飲み干して、遠雷は考える。

どうして出会ったのが、地球環境学を専攻する翡翠なのだろう。ほとんどの月面人は、地球に特別な思い入れなんてない。ただの夜空に浮かぶ天体くらいにしか感じていないはずだ。

翡翠の傍にいれば、いやでも地球のことが話題に上る。それなのにどうして自分は、この生活を選んでいるのだろう。

「あと何枚、集められるかな」

翡翠の声に、遠雷は答えを探し出す前に、考えるのを止めた。

「特に欲しいの、なんだったか」

「アルファ・ケンタウリ。ケンタウルス座の。それと北極星とオリオン座は絶対ほしい。はくちょう座とわし座は絵柄を見てみたいな。惑星はできれば全部ほしいけど…、九月までだから難しいね。あ、でもベテルギウスは遠雷が欲しいよね。オリオン座が出たら、寄こせって言わないから」

車選びの時に遠雷がこだわったことを茶化して、翡翠が言った。

「そうだな。ベテルギウスは翡翠にも譲れないな」

翡翠のグラスも空になり、遠雷は給仕に会計を頼んだ。支払いを済ませて店を出る。

「夕飯の買い出しして帰るか。なにが良い」

「今日は俺がカレーを作るよ」

「翡翠が?」

「ここのとこ遠雷ずっと料理してたじゃん。鬼気迫るものがあって気味悪かったよ。家ではしばらくお休みして」

「試験の日からやめただろ」

「冷凍したのがまだ残ってるんだよ」

駐車場を歩いて車にたどりつき、翡翠が先に運転席に乗った。遠雷は苦笑しながら助手席に乗り込んで、

「それじゃあ、タフタの散歩は俺が行くよ」と、翡翠に告げた。

翡翠は運転にすっかり慣れて、もう遠雷のアドバイスは必要ない。運転席に座る翡翠の横顔を眺めて、遠雷はぼんやりと考える。

もしも、と。

翡翠に本当のことを打ち明けたら、彼はどう思うだろうか。

以前、多色体質について話した時のように、わずかに顔を顰めて「気持ち悪い」と、多少の後ろめたさが混じった声で呟くのだろうか。それともハレーの町でカンナビスと名乗る女性と出会った時のように、「地球人症候群だ」と、気まずそうに呟くのだろうか。

それとも自分の話を信じるだろうか。

翡翠の反応を想像した時、拒絶されることは容易に想像できても、受け入れられるところは思い浮かばなかった。

だからまだ、今は言えない。

窓の外に照りつける陽射しは眩しく、巨大な入道雲が遠くに見えた。夏は始まったばかりだ。

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