二十五話――変化その3



「あ……」


 呆然と、思わずこぼれ落ちたようなその声は、果たして誰のものか。

 嘲笑を凍りつかせている悪ガキ共の声か、それとも俺の妹エレナの声か、もしかしたら俺がこぼした声だったかもしれない。


 エレナは涙に濡れる頰に反する、乾いた瞳をふっと俺に向けた。

 心なし、その瞳には動揺が見え隠れし、怯えているようにも見える。

 ふいに、エレナの顔がゆがみ、目を逸らされた。

 それをキッカケに、俺の胸がズキンと小さく痛む。決して、走り過ぎが原因ではないだろう。


 俺は小さく吐息を吐き出して、目線を前方の悪ガキ共に向け直した。

 それまで凍りついていた彼らの肩がビクンと跳ね上がり、恐る恐る俺に視線が向けられる。


「……はぁ」


 一体、この状況をどうすればいいのか。

 最適解なんか、俺にわかるはずもないよな……。

 

 妹のことを理解できず、そのせいで妹に避けられ、逃げられて、危うく、話をするどころか追いつくことすらも出来ないところだった。

 まさか、エレナに幻術を使われていたとは……。

 全く、気がつかなかった。

 途中でアリアに出会わなかったら、俺はあのままずっとエレナの幻を追い続けていたことだろう。

 そして、アリアには適当な誤魔化をして、俺は本物のエレナを探し、見つけた。

 なぜか妹は、エレナは、ここにいるような気がしたから。


「……あー、まぁ、なんだ」


 最適解は、分かるはずがない。

 そもそもここで最適解を選び出せるような俺であるなら、こんな状況には陥っていないだろう。


 けど、やらなきゃいけないことくらいは、分かる気がする。


「お前らに……、一つ、言っておきたいことがある」


 俺が悪ガキ共を見据えると、彼らは怯えに顔を染めて一歩下がる。


 自分の声が震えているのが、分かる。

 どうしようもない。

 途方もなく胸の内で渦巻き続けるこの激情を端的に表すとするならば、怒り、だろうか。

 やっと、自分の妹が何に悩んで、何を求めていたのかが、分かったから。

 やっと、だ。

 しかも、その内容は、きっと俺のせいなのだ。

 俺が、エレナに無理をさせていたのだ。あんなに苦しませて、悩ませて、泣かせた。


 それに、今気づいた。

 

 つまり、俺が悪い。苛立たしい。今まで俺は妹の何を見てきたのか、と。


 しかし、奴らがエレナを傷つけたことに対する怒りは、そんな理屈にはこだわらず、止まらない。

 こいつらが、エレナを傷つけたことは、事実だと、そう思うと。

 自然と腕に力がこもるのを感じる。


「よし、お前ら……」


 彼らと俺の視線が、重なる。


「……早く俺の妹の前から、エレナの前から消え失せろ。……んで、二度と俺らの前に出てくんな」


 自分でも驚くほど、低く、地の底を這うような声が、怒りに染まって震える声が出てきた。

 それを聞いた悪ガキ共は声のない悲鳴をあげ、瞬間に背を向けて一目散に逃げ出す。


 それを見届けた俺は深く長大な息を吐き出し、力のこもっていた腕を下す。


 あぶないあぶない。あともう少しで、手や魔法が出るところだった。

 

 俺が再度大きく息を吐き出すと、手元にいたエレナが一歩離れて、どうしたらいいのか分からないよう酷く怖がったような顔を俺に向けた。


 それを見て再度俺の胸が痛む。

 不安、怒り、羞恥、虚脱感、悲哀、と、よく分からない感情が混ざって去来。


「え、エレナ……」


 でも、俺が今やらなきゃいけないことは。


「これだけは、聞いてほしい。……俺は、エレナのこと好きだから」



「……え?」

「俺はエレナのこと、好きだから」


 一瞬、エレナは何を言われたのか分からないようにぼんやりしていたが、やがてに何かに気がつく。


「……うそ、うそだよ。うそだよ、うそ。お兄ちゃん、うそはやめてよ……」

「うそじゃない」

「うそだよっ! お兄ちゃんは、優しいから、そんな……」

「違う」

「違うくない!」


 エレナが叫び、キッとこちらを見る。その瞳は、乾いていた先ほどと違って、今にも溢れそうになるほど涙がたまっていた。


「俺は、エレナのこと好きだよ。これだけは、変えようのない事実だから、信じてほしい」

「うそだよ! だって、そんな、そんな、だってお兄ちゃんは……、……」

「けど、エレナが言っているような、結婚は出来ない。――俺はエレナと結婚したいわけじゃない」

「――――」


 エレナの顔から感情が抜け落ちて、その視線を俺からそらす。

 その場から逃げ出そうとしたエレナを、今度こそ俺は捕まえた。


 エレナの肩に手を置いて、引き寄せる。


 きっと俺が悪い。


「エレナ、別に結婚することが全てじゃないんだって」

「…………」

「エレナは、まだ小さいから」

「……エレナは、小さくないよ。もう結婚だって……」


 けど、エレナはまだ幼い。きっと、それが原因でもある。


「俺はエレナことは好きだけど、別に結婚したいわけじゃない。そこを勘違いするのは、エレナがまだ小さいから、幼いからだよ」

「…………わかんない」


 ポツリとエレナはつぶやき、泣きそうな目で俺のことを見上げた。


「お兄ちゃんの言ってること、分かんないよ……。なんで結婚しちゃだめなの。お兄ちゃんはエレナのこと好きなんじゃないの。エレナはっ、お兄ちゃんのこと好きだよ? 本当に好きだから、大好きだから……、お兄ちゃんのためだったら何だってできるもん。お兄ちゃんが言ったことも全部言うとうりにする。エレナは、お兄ちゃんがいればいいんだもん。エレナは、お兄ちゃんだけがいればそれでよかったから、全部……、全部……、なのに、なんで、分かんないよ……」


 きっと、それがエレナが思ってることの全てなんだろう。

 今までの何が悪くて、何が間違っていたのか。

 ここでハッキリ、言わないと。


「エレナ、好きだから結婚するっていうのは、間違いだ」

「…………え?」


 エレナが目を丸くする。


「別にお互い好き同士だったら、すぐ結婚になるわけじゃない。好き同士じゃなくても結婚している人なんて、いくらでもいる」

「……」

「好きの種類にもいっぱいあるし、それが絶対に結婚に結びつくわけじゃないんだよ」

「……そう、なんだ。……じゃぁ、本当にお兄ちゃんはエレナのこと好きなの? 嫌いじゃないの? 嫌いになっちゃったんじゃないの?」

「当たり前だろ」


 俺はそう言って、エレナを引き寄せる。

 

「だから、好きだからと言って、その相手の言うことをなんでも聞くっていうのも間違いだ。好きな人同士だって、いくらでも喧嘩するし、すれ違う」

「……お兄、ちゃん」

「……ごめんなエレナ。何も気付かなかった。……でも、お兄ちゃんは、何があってもエレナの味方だからさ」

「っ!」


 俺がそう言った瞬間、エレナは大きく肩を震わせて、うつむいてしまった。

 そして、小さな呟きが聞こえる。


「……ほんと、に?」

「本当だって。だから、エレナにとって嫌なことがあるんだったら、逃げてもいいから。別に無理をする必要はない。俺のためだからって、エレナが嫌な思いをする必要はないんだ。エレナが嫌な思いをしたら、俺だって悲しくなる。だから、逃げてもいいから。エレナが苦しい思いをするくらいなら、耐えなくてもいいから。もし、そのせいでエレナに何かあっても俺がいるからさ」

「――――」

「――エレナの、やりたいようにやればいいんだよ。俺に嫌われたくないからって、無理に俺のために何かをしなくても、大丈夫だから」


 エレナが、弾かれたように顔を上げる。その左右色違いの瞳からは涙が溢れていた。


「……ごめん、ね、お兄ちゃん……エレナが、ごめんね」

「いや、俺も悪かった。ごめん、ごめんな。……俺はエレナのこと嫌いになったりなんかしないから」

「うん、うん、お兄ちゃん……お兄ちゃん……」


 胸の中で泣くエレナを受け止めながら、俺は考える。


 今回の件は、単純なすれ違いだ。

 まだ小さくて、思い込みが激しいエレナと、それを勘違いした俺。


 たった、それだけのことだ。


 きっとその内、エレナも成長して色々なことが分かるようになる。

 エレナが俺に抱いている感情の本質にも、きっとそのうち気がつく。

 そしたらその時、この日のことを、笑って話し合えるようになるのだろうか……。


 こうして、俺とエレナの兄妹のすれ違いは幕を閉じた。


 きっと、これからは、平凡な生活が続く。

 けれど、またいつかのように、突飛な事件や悩みに悩まされることもあるのだろう。

 しかし、きっとそれも何だかんだで収束して、また平凡な毎日が戻って来るのだ。


 俺は、そんな日常を思い描きながら――――――














 


 そんな平和な日々は、……、、、、、






「――――っ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る