05. 朝になっても

 白く丸いウミガメのぬいぐるみは、座布団代わりにもなる大型のクッションだ。

 ミャアはその上に身を沈め、膝掛けを布団にして寝た。

 場所は壁際、ベッドからは最も遠い位置ではあったものの、首を曲げれば寝姿が確認できる。


 襲ったりしないし、それどころか私の身を案じる味方だと、ミャアは懸命に説明していた。

 それで安心できれば、快眠できるんだけどね。


 得体の知れない何かが近くにいると思えば、寝も浅くなるというもの。

 たまにギュフッだか、ギギッだか唸るもんだから、その度にまぶたを開けてしまった。

 声を除けばピクリとも動かないのを見ると、ミャアは熟睡しているらしく腹立たしい。


 結局、まともに寝られたのは数時間くらいではなかろうか。

 カーテン越しに朝日が届き、部屋が薄ら明るくなっても、しばらくは身体を休めるべく眠っておこうと頑張った。


 だが、牛乳配達も済んだこの時間、二度寝するにはもう遅い。

 午前六時五十五分。

 本当なら、もう三十分は寝られたのに。

 ……言い過ぎか。遅刻したくないなら、プラス十五分が限度。その十五分が、冬の朝にはとてつもなく貴重なんだけども。


 甚だ残念ながら、朝が来てもミャアはいた。

 やや背中を丸め、私に向かって横向きに惰眠を貪っている。半身をカメクッションに沈めた様子は、実に快適そうだ。


 ベッドから抜け出した私は、足音を忍ばせて窓に近づいた。

 カーテンを少し開くと、差し込んだ光が部屋の中を照らしてくれる。


 ミャアが起きないのを確認し、今度はそうっとクッションへと歩み寄った。

 傍らにしゃがむと、幸せそうな寝息が聞こえる。

 腹立たしい。


 暗がりでは奇っ怪な化け猫に思えたのに、明るい場所では単なる小動物にしか見えなかった。

 動物には詳しくないものの、小さな頭に長い胴体は、確かにカワウソに近い。


 可愛いもの好きの紗代に、カワウソが遊ぶ動画を見せられれたことがあったが、形だけならそっくりだ。

 ただ、本物はもっと茶色かったはず。オレンジ色の体毛は、キツネやレッサーパンダを連想させた。


 どうしたものだろう。

 ペット用のケージを買ってくればいいのかな。

 クローゼットに閉じ込めるって手もある。


 いや、と、浅はかな考えを自ら否定した。

 受け入れてはダメだ。

 押しかけペット、それも妖怪系なんて、ロクなことになりそうもない。


 叩き出す、起こして説得する、ガムテープで拘束する、と対策を思案し、最も安易な案を採用することにした。

 見なかったことにして、逃げる。


 登校前に、難しいことを考えるのはよそう。

 帰宅して尚、ミャアが居座っているなら、その時に悩めばいい。

 殺虫剤の予備も欲しいしね。


 そうと決まれば、見つかる前に登校だ。

 より慎重に、衣擦きぬずれすら起こさぬように注意を払い、ハンガーラックに引っ掛けた制服へ手を伸ばす。

 ブレザーとスカート、加えてシャツやタイツなんかをベッドの上に並べれば、準備完了。


 五秒だ。

 無音で五秒を狙う。

 いつの間に着替えたの!? と体育の度に驚かれるくらいなのだから、やれば出来る。多分。


 残像を産む勢いでパジャマを脱ぎ、クルクルと一瞬で黒タイツを装着すれば、あとは大して難しくない。

 シャツにスカート、白ベストと進み、上着を羽織れば、はいっ、終了。

 見よ、この早業!


 スマホを充電コードから抜き、準備済みのバッグを持って扉へ向かう。

 この間、ミャアは寝言も立てずに、静止したままだ。


 ドアハンドルに手をかけた時、もう一度、闖入者へと振り返った。

 本当に物の怪なら写真に撮れるのだろうか、なんて考える。上手く写せたら、紗代に相談する際にも証拠に使えそうだ。


 スマホをミャアに掲げて、撮影ボタンをタッチ。これがマズかった。

 予想以上にシャッター音は大きく響き、オレンジ色の頭が持ち上がる。


「うーん、おはよ。早起きだね」

「やっぱり喋るんだ……」

「何を今さら。えっ、まだ信じてないの?」


 信じたくない、が正しい。朝からカワウソと対話していると、自分の気が狂ったようにも思えてくる。

 ともかくも、続きは夜にしよう。それまで大人しくカメと寝ておけ、そう命じる言葉に被せて、ミャアは朗らかに質問した。


「ねえねえ、朝ごはんは何?」

「……食べるの?」

「食べないの?」

「私は食べる。カワウソ用は無い」

「えぇーっ!」


 カワウソの食事って何だ。虫? 生魚?

 そんな用意があるわけなかろうと、人としての常識を説く。カワウソだけど。


 ところが、ミャアは人間と同じ物を食べるそうだ。

 箸も持てないくせに、お茶漬けがいいとか、味噌汁の具はワカメよりキノコがいいだとか。

 どういう嗜好なんだ、こいつは。


「朝は忙しいからトーストとジュース、ご飯なんて炊きません」

「あっ、パンも好きだよ。ピーナッツバター?」

「……ブルーベリージャム」

「いいね! 朝ごはんは大事だもん。ホントはさ、食べなくても平気なんだけど」


 じゃあ食べんな、と言い放ったところ、ミャアは腹を天井に向けて大の字に転がってみせた。

 ギューギューと唸りつつ、四つ脚をバタつかせるポーズは、最大級の抗議を表しているらしい。


 仰向けになっているうちに脱出しようと扉を開けた途端、今度は猛ダッシュで駆け寄ってきた。

「ぶるう、べりいぃーっ」とか叫びながら。


 私の足元を摺り抜けたミャアは、先に階段まで行き、遅いとばかりに振り返る。

 こちらを待つ気は無いようで、すぐにピョンピョンと一階へ下りていった。どうだろう、この我が物顔で走る姿は。

 ダイニングまで一直線に駆け、私が追いついた時には、既に椅子に立って配膳を待ち構えていた。


 テーブルの周りに置かれた椅子は三脚。私と母が使う場所を避けて、ミャアはちゃんと予備の椅子を選んだ。

 偶然なのか、カワウソの嗅覚が成せるワザなのか。


 母は一足先に出勤しているので、この騒動に巻き込む心配は無い。

 逆に関わってもらった方がいい気もするので、それも帰宅後に検討しよう。


 オーブントースターに食パンをセットしつつ、インスタントのコーヒーを準備する。

 ジュースでないのを見たミャアは、またヒゲを揺すらせて抗議を始めた。


「それ知ってるよ。苦くて飲めない」

「頭をスッキリさせたいから。誰のせいだと思ってんの」

「すごく苦い。飲めないもん」

「分かったわよ。アンタの分は、オレンジジュースにすればいいんでしょ」

「ぎゅっぎゅーっ!」


 これは快哉のつもりかな。どれも「ぎゅー」じゃ、微妙で判別しづらい。

 焼けたパンにジャムを塗り、皿に乗せてミャアの前へ。

 ジュースが出揃うのを待っているのを見ると、一応の行儀はわきまえているみたいだ。


 やや斜めに向き合って座り、無言でパンの耳から齧る。齧りながら、ミャアがどうやって食べるのかを窺った。


「いただきます」


 手まで合わせたよ。器用だな、カワウソ。

 二口、三口、苦労する様子も見せず食べ進め、美味しーっと感想を言ったところで、ひと休憩。

 さすがにグラスは持ちにくいらしく、手元に引き寄せて、鼻先を中へ突っ込んだ。

 これじゃ最後まで飲めそうもないので、溜め息混じりにストローを探しに立ち上がる。


「あっ、座って座って」

「何よ、それじゃちゃんと飲めないでしょ」

「あとでいいから。まずは大事な話をしないと」


 ぎゅへんっと喉を整えたミャアは、ここにきてやっと、自分が現れた理由を語り出した。

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