次ぎなるカルチャー

ワカリマセーン

「これでよし!」

「父さん、何が「よし!」なの?」


 あ、つい声に出してしまったか。


 宰子ちゃんと若子ちゃん、二人と過ごす夏休み旅行はまだまだ続いている。

 なんでも本城さんが後で合流するんだそうだ。


 渡邊先輩も豪気だよな。

 俺たちや、本城さんの宿泊費を気っ風よくポンと出すのだから。


 で、今は宰子ちゃんに何が「よし!」だったのか返答する場面だ。


「次回作のタイトルを決めただけだよ」

「どんなタイトル?」

「宰子ちゃんが英語分かるか知らないけど、タイトルは『Break my fall』にしようと思ってる」


 彼女にだけこっそりと次回作のタイトルを教える。

 これは二人の秘密だぞ、と言うと、彼女は私の秘密も教えるよと啖呵切った。


「いいよ、君の秘密は聞くと胸が張り裂けそうな予感がする」

「……お腹空かない?」

「じゃあ、これで何か買って来てくれるか?」

「分かった」


 宰子ちゃんに二千円を渡し、俺は引き続き執筆に興じ始めた。

 当初は左手だけでどうやって執筆すればいいんだと絶望していた。


 今回のタイトルは『絶望』から着想を得た内容にしようと思い描いている。


 他の作家よりも執筆に時間は掛かるだろうが、それは今だけの話。

 こんな不自由な体でも、他に負けないぐらい執筆を頑張ろうと思う。


 そうして、俺たちが泊まっている部屋にはまた不器用で直向きな情景が生まれる。


 部屋の畳には万年床の布団が一組敷かれていた。

 若子ちゃんのものだ。


 彼女は「夏と相性がいいのは水! 氷! そして男の汗だ!」と訳の分からないことを言い、連日のようにプールに通って早速日焼けしていた。帰って来るとすぐに睡魔に襲われ寝てしまう。


 この夏休みの旅行が先輩の言う情操教育に適っているかと言われれば甚だ疑問だ。


『アキ、宰子たちの様子はどう? 元気にしてる?』

 するとウミンからSNSで連絡が来た。


 これも執筆の格好の訓練になると思って、しばらく彼女と会話しよう。


『宰子ちゃんたちは、案外楽しんでいるよ』

『それはよかった、アキから借りた猫だけど、名前は漱石にしたから宜しく』


 漱石? あの猫は夏目漱石大先生に肖ったのか。


『三浦、宰子たちの様子はどうだよ?』

 今度は渡邊先輩から同SNSで連絡が来た。


『宰子――』

 と打てば、ノートパソコンの予測機能で先程ウミンに言った内容が出力される。

 予測機能は大変便利だ、このままどんどん成長して貰いたい。


『先輩、もしよかったらでいいんですが』

『何だよ? 宰子はやらねーぞ?』

『今度の事業計画で、俺みたいな障碍者向けのプロジェクトを起こしてくださいよ』


 エンター。


『別にいいけど、何か遭ったのか?』


「どうして?」

『どうしてですか? 安価な音声入力装置とかあれば俺も執筆が捗ります』


 と思ったのは、今一瞬の言葉の反芻で想起した内容だ。


『俺の目から見たら、お前は自分の障害から目を背けてるようだったからだよ』

「……」


 見る人が見れば、どうやら俺は不自由な体から逃避していたようだ。


 それが一般的なのか、それとも異常だったのかは俺も知らないし。

 恐らくこう言っている先輩本人も預かり知れない所だった。


「父さん、ただいま」

「お帰り、何を買って……女将さん、どうしたんですか」


 まさか、宰子ちゃんが何かしたのか?

 品行方正な彼女に限って、それはないから尚のこと不思議だ。


「お邪魔します」

「お腹減ったって言うから、二千円で女将さんを買ったよ」


 ……ん?

 宰子ちゃんは一体、何を言っているのだろうか。


 不肖三浦彰(40歳)、ワカリマセーン。

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