第7話 抗うならば死ね、迎合するなら死ね

 さて、シドの執務室に転移したシドとリドルなわけだが、両者の間では決して穏やかならない険悪なムードが流れていた。無言のまま両者は好き勝手に自分の席に座るし、余人が入り込めるスキなどないほどに口を開こうとしない。


 説明する、と言っておきながらこれだ。よほど両者の間で認識の隔たりがあり、そのことに苛立っていることがわかる。


 シドからすれば、軍人が首を突っ込むことかね、というのが正直なところだ。別にリドルの人権を侵害するわけではないが、しかし空気というものを読んでくれ、と願わずにはいられない。


 リドルは軍務長官でありヤシュニナ軍最高司令官だ。発言には細心の注意がいるし、国内唯一の武装組織を束ねているというのは周囲の想像以上に重責なのだ。


 さっきのリドルの発言はまさしく、その職務に対する責任をほっぽりだし、私人となったニンゲンのセリフそのものだった。ああ、それこそ発言に責任など持ち合わせない市民のそれだ。


 長年の付き合いで、こんなことはそれなりの頻度あったが、いつまで経ってもなれないものだ。特に自分の政治ショーの後で意気揚々としている時に水を差されるのは気分のいいものじゃない。


 突き詰めてしまえば、俺は今リドルの発言に苛ついているのではなく、あいつが俺の気分を害したことそれ自体に苛ついているわけだ。例えどんな正論であろうと、高揚させた気分を損なわせる発言をするやつは嫌われるし、爪弾きにされるものだ。


 対してリドルからすれば、シドのやっていることに憤ることは当然と言えた。あんな国民を戦争へ誘う、悪しき政治家の真似事など認めていいものではない。嫌悪すべきものであり、それは決して肯定などしてはいけないものだ。


 そも、彼の知る限り詭弁を弄し、若人を戦場へ送り出すニンゲンというのはろくなニンゲンをだったためしがない。かの大英の番犬を始め、戦争を強要するニンゲンなど後世での評価はかなりボロクソだ。逆に大量に人を殺しておいてなおも賞賛される某32代目などの希少なニンゲンはいるが、それだって死に際を美談化したからに過ぎない。


 自分の職務は軍人であり、軍人の職責とは国家を外敵から防衛し、国家の脅威を排除することだ。命令とあればどこへでも勇んで駆けつけよう。しかし、政治の道具としての進軍など、前線で死に絶える兵士のことを考えればとてもじゃないが許容できるものではない。


 政治について自分は無知だが、見栄のために軍を動かすことの愚かさは考えるまでもなくわかる。そしてシドが今実際にそれをやろうとしている。国民議会での演説、そしてその決定などはともすれば国家の破滅への切符を発行することになりかねない。


 もしここでシドから納得のいく説明が成されなければ自分はシドの首を撥ねるだろう。それほどの義憤が今、己のみのうちから湧き上がっているのを感じた。自然と腰の剣へと左手が伸び、隠せない殺意が体から際限なくこみ上げてきた。


 「まずは俺のあの演説の意図から説明する」

 数分の沈黙の後、シドから口を開いた。普段は決して見せない険しい表情を浮かべ、深く深呼吸をした。


 「――俺が国民議会で行った演説は、有り体に言えば釣りだ」

 「釣り?餌だと言いたいのか。……なにを釣るつもりだ」


 「一言で済ませるなら、内応者、だな。我が国の政治家が懐柔されているなんて考えたくもないことだが、可能性の一つとして存在する以上、打てる時に打てる手は打っておきたかった。ちょうど、俺が主張をぶちまけるのにちょうどいい頃合いだったからな」


 説明しながら、シドは腹の中でウェンザース議員に謝意を示した。かなり皮肉めいているが、彼の主張を曲解することで議会に国務長官として、国家元首としての方針を高らかに宣言することができた。もし、あの場でウェンザース議員といういい踏み台がいなければ、あれほどの盛況になることはなかっただろう。


 「待て。お前の言っていることは破綻している。そもそも、他国への内応者が議会内にいる、という時点で主張がおかしい。議会内に内応者を作る、というのは並大抵のことではないのはお前も知っているはずだ。


 政治家というのは口約束や金約束で思い通りに動いてくれる存在じゃない。利害関係の一致で動くものだろ。その気になれば連中は平気で自分の派閥のニンゲンを切り棄てるし、約束を反故にするぞ。


 そんな連中を内応者にする?不可能とは言わないが、手綱を握るのは難しい、と言わざるをえない。いつ症状が表出する劇薬ロシアンルーレットじゃないんだ。ギャンブルがすぎるだろう」


 実際、リドルの主張は的を射ている。ヤシュニナの議員にかぎらず、政治をしたがる連中というのはロクなニンゲンがいない。平気で人の期待を裏切るし、知らぬ存ぜぬ、時には忖度もする。はっきり言って狐と化かし合いをしている方が楽だな、と言ったくなるほどに骨が折れる。


 しかも話から察するにシドの語る内応者はただの内応者、というわけではないようだ。


 「確認だが、お前の語る内応者っていうのはただのスパイってわけじゃなくて、国家の中枢にいる存在ってことでいいか?――ただの議員ではなく、重鎮……っていうことでいいんだな?」

 「ああ、そうだよ」


 恐る恐る聞くリドルにシドは即答する。そのまっすぐな言葉から、嘘は言っていないとリドルは結論づけた。同時に悪寒めいたものを感じた。仮にも一国の政治に長らく携わっていたニンゲンが敵国へ内応など信じがたいことだ。本来ならばあってはならないことであり、そんな男を政治へ参画させたなどと国民に知られたらブーイングの嵐、退陣要求の雨あられは避けられない。


 だが、仮にシドの言っていることが正しいとして、だ。その内応者というのはどうやって作った?先に自分で上げたように金で釣り上げるにはあまりに無謀。すぐに裏切る。


 リドルが必死に思案していると、シドが助け舟を出した。


 「ひょっとして、どうやって内応者を作ったか、悩んでいる?」

 「ああ。金でないことはわかっているが、さてそれ以外の要因でどう人を釣るか、というのがわからなくてな。単純に脅迫、という線も考えてみたが、ちょっと合理性に欠けるからな」


 「そうだな、人を動かすのにもっとも効果的なのは恩を売ったり、なにか相手が喉から手が出るものを与える、とかだろうからな」


 シドに言われ、リドルは昔読んだ本に登場するとある王と別の王朝の使者の問答を思い出した。『てめぇが言うこと聞かねーとこの璧ぶっ壊しちまうぞー」と王に言うことで、王を意のままに操っていた。


 いや、あれはどちらかと言えば脅迫か、と首をひねり、思索を打ち切る。まぁ、要するにアメを与えて飼っている、ということか。


 「だが、どんなアメを用意する?リストグラキウスにそんなものを用意することができるか?あの国は言ってはなんだが、農業国家だ。狂信者の国、ということを除けばいたって普通の国だぞ。それに国内のニンゲンは質素で、首脳部にしたってあげることのできる宝物や宝具なんて……。――いや、待て。ちょっと待て。物品とは限らないか……?


 例えば医療系魔術でも十分見返りになる。治療……いや、それはないな。ヤシュニナの魔導技術はリストグラキウスよりも二世代は先だ。……となると……促成栽培ちからか?」


 「はい、せいかーい!リストグラキウスが内応者に与えたのは力!つまり、レベル分のステータス値ってことだぁね!」


 リドルの返答に気分をよくしたシドは椅子から飛び上がると、喜々とした表情で彼を褒め称えた。まるで生徒に期待していない教師が、生徒が完答した時に示す反応みたいだな、とリドルは思った。


 だが、シドの言わんとすることはわからないでもない。国内の議員で今のプレイヤーによる政治に不満がないニンゲンはいないわけではない。特に反政権派の議員はこぞってプレイヤーに対して懐疑的であり、中にはすぐれた身体能力を持つプレイヤーを憎悪しているのすらいる。


 議員の多くは煬人であり、またその多くは人生のほとんどを政治活動に費やしたものばかりで物理的な力は持ち合わせていない。長命種のような長い年月を生きた種族の議員でさえレベルは50以下だし、まして人間種の議員のレベルは推して知るべしだろう。


 プレイヤーと煬人の間には明確な成長差はない。レベル10以下のプレイヤーだってざらにいるし、アーレスのようにレベル100を超えている煬人もいる。ひとえにプレイヤーの実力に煬人が嫉妬しているとは言いづらい。しかし、先のシドの魔術の行使にも見られるようにプレイヤーがやや威圧的な存在となってしまうこともまた事実だ。


 「一応、俺らが強権を乱用しないように法律は作られているが、法律は必ずしも守られるべきものではない。あくまでそうあって欲しい、という願望に過ぎん。


 なるほど、そんないつ爆発するかもわからない連中を抑える力が欲しい、というのはわからんでもない。……実際ついさっきお前がやった魔術の行使はやや問題だと思うがな」


 「俺が精一杯叫んでもあの連中止まらないでしょ。あの場を丸く収めるには魔術で手っ取り早く威圧するのが効果的だった」

 「そこだよ。そういう、できない、できないっていう考え方がいけない。お前、そういうところがあるよな、百二十年前から。直せ、直せ、直せ」


 「まいったね、まぁ善処いたします。――一応レベル=強さっていうわけじゃないんだけどな。あくまで強さの目安の一つってだけ」


 実際、レベル差が30あっても、経験に裏打ちされた練度によって勝利する、ということはある。あとはアイテムなどによる補助なんかもレベル差を縮めるよい材料となる。


 だが悲しきかな。プレイヤーも煬人も、レベル=強さだと勘違いしている節がある。強さの目安としてわかりやすい、というのはわからないでもないが、レベル一強信者となっているのは愚かだ。


 それこそレベル一強信者の理論ならレベル150同士は同じくらいの力、になるのだが、あいにくこの場にいるシドレベル150リドルレベル150の力量の差は圧倒的だ。今彼らの位置はそこそこ離れているが、リドルが腰の剣を抜こうものならシドは一声もあげられず、絶命するだろう。


 「――とまぁ、それが俺の考えだ。要するにあれは挑発。あんな危ない発言をするやつが国家元首だぞーっていうのをリストグラキウスとか他の周辺国に敢えて知らせて、連中が国内に潜ませている内応者がどんな反応をしめすかな、っていうね。あ、ちなみにこの計画はもうセナに調べさせてる。言い忘れたけど」


 「それはどうでもいいんだけど。しかし大層な釣りだな。ともすれば内閣不信任案を出されていたかもしれないぞ?」


 「……それはそれ。これはこれ。オーケー?」

 「ノーだよ。まぁいい。次だ次。国家方針についてだ。さすがに講和を受け入れない、というのはやりすぎだろ」


 シド、というか国民議会の掲げた方針はまるで「こっちの条件を全部呑め、でねーとずっと戦争すっぞ!」と言っているかのようで、看過できるものではない。軍人の自分に国家方針にいちいち関与する権利があるのか、と疑問に思うリドルだったが、言わなければならなかった。


 将兵を無駄に殺す戦争など、国力をただ落としていくだけの愚策でしかない。自殺志願者でもないのに自殺への道を突き進もうとするを見るのはいただけなかった。


 「アレは脅しだよ。国力で言えばリストグラキウスはヤシュニナよりも大きく劣っているからな。それでもあの国がヤシュニナ俺らに毎回ちょっかい出して艦隊が半壊で済んでいるのは、こっちがリストグラキウスを潰すメリットがないからだ。


 リストグラキウスの基本産業はさっきも言ったが、農業だ。うちの国は第一次産業が南部の穀倉地帯以外は発達していないから、農業国を従属化できるのは美味しいと言えば美味しい。だが、海の向こうの国を属国化したりするのは結構面倒くさい。


 連絡手段の有無なんかもあるが、なによりあの広大な『ソールの海』を超えて農作物を輸入するリスクとリターンの天秤がリスクに傾いてしまっている。軍艦でも沈没するような海を、商船が行き交う、なんていうのは考えるだけでゾッとする。


 下手をすれば商船すべてが海の藻屑になりました、なんていうのも珍しくはない海だからな。そういった観点から属国化するメリットはない。だからこれまで見逃した」


 ふぅ、とシドは一旦深呼吸をし、リドルの様子を伺った。敵意は少し和らいだようで、今は腰の剣から左手をおろしている。なんだかんだ言って百五十年以上の付き合いだ。話せば分かる、とシドは胸をなでおろして、説明を続けた。


 「だが、うちの国だってそう何度も何度も連中の政治ショーに付き合うほど国力に余力があるわけじゃない。さっきの国民議会でもあげられたように、軍事費はリストグラキウスや他の国との戦争で年々上昇傾向にある。キュリーや各州の知事とも協議して、税収を引き上げられないかって模索してみたけど、ちょっとむずかしい。


 となると、だ。戦争をやめるのが一番手っ取り早い。戦争をするから軍事費はかさむし、物価は高騰する、輸出品にも規制が入る。周辺国との関係も悪化する。我が国はその類まれなる軍事力を背景にしてこれまで多岐にわたる成長、経済の維持を続けてきたけど、そろそろそのルーチンに歯止めをかけ、新しい経済、文化、内政、外交の体制を気づくべきだ。


 うちの国の外交体制はこれまで協調外交に過ぎた。戦争をふっかけられても追い返すだけで本土侵攻まではしなかった。だから、舐められていた。要はRPGのボスキャラと同じだと思われていたわけだな。ボスっていうのは一定のフィールドからは出ないから、叩き放題殴り放題。自分も相当のリスクを負うけど、母体が死ぬことは決してない。ヌルゲーもいいところさ。


 だが、これからは違う。俺らにちょっかいを出してきた国――具体的には戦争を仕掛けてきた国――は容赦なく潰す。徹底的に、合理的に、愉悦を以て!


 ――そのためにもリストグラキウスには生贄になってもらわなきゃな」


 熱弁しながら、シドの顔には笑顔が張り付いていた。これからヤシュニナにもたらされる至福にして幸福、快楽と愉悦にまみれた黄金時代の到来を想像するだけで、彼の表情筋は緩み、蠱惑的な愛らしい笑みを浮かべさせた。


 同時に燃えるリストグラキウスの首都、数多くの歴史ある建造物、逃げ惑う農民、助けられず歯痒い気持ちを覚える神兵達、助けてくれと自分にすがる上層部の姿を想像するだけで絶頂すら覚える。燃える都市というのはどこまでも情熱的であり、そして快楽を与えてくれる。


 「待て、シド。本末転倒している。俺らがリストグラキウスを滅ぼせばそれこそ余計な危機感を周辺国は覚えるんじゃないか?現に今でさえ国民議会でお前が熱弁したように、周辺国は我が国の潜在的脅威から侵攻を続けている。『邪悪な妖精の国』、とプロパガンダを流しながらな。


 にもかかわらず、本当に『邪悪な妖精の国』を体現してどうするつもりだ。それこそこぞって他国はヤシュニナに侵攻し始めるぞ。ヤシュニナの財政は元より、軍、経済、内政、その他すべてがパンクする!」


 さすがにリドルも警鐘を鳴らす。立場もあったが、何より軍人とて国民だ。一国民としてシドの狂気的な思想には苦言を呈さずにはいられなかった。


 また、ことはヤシュニナの周辺国だけの問題ではない。ヤシュニナが急激に領土を拡張する、などという事態になればそれはスコル大陸の北部に強大な覇権国家を確立することに他ならない。


 ともすれば、ことはスコル大陸、ハティ大陸の両大陸のパワーバランスを崩しかねない悪手となる。


 危険性としては大を超えて最大。国家の趨勢を左右しかねない危険な方針だ。ハイリスク・ハイリターンということに変わりはないが、どう考えてもリスクの方が大きい。


 すぐにそれに気づいたからこそ、リドルは猛烈に反対した。リストグラキウスを潰す、それは言いにしても周辺国にまで喧嘩を売られたから滅ぼしてやるよ、は行き過ぎた行動を言わざるをえない。


 「シド、考え直せ。どう考えても無理ゲーだ。リストグラキウス程度なら潰せても、他の国と事を構えるなんて馬鹿げている!」


 必死にリドルはシドに積めよよるが、シドはどこ吹く風とばかりに涼し気な表情で焦るリドルを見つめていた。錆銀のその双眸が恐ろしく感じるほどに彼はリドルを見つめていた。やがて、リドルは大きくため息をつくと腰の剣に手をかける。


 「シド……国家の趨勢を決める方針など、とてもではないが許容できない。次の議会までには撤回させろ」


 今のリドルの行動はクーデターに近かった。仮にも一国の軍のトップが国家元首に対し、剣を構えているのだ。決して脅しなどではない。重苦しい緊張感が両者の間で走り、二人の頬を汗が走る。

 そして、ついにシドが口を開いた。


 「……リドル、潰すのはリストグラキウスだけだ」

 「は?……何を言っている、リストグラキウスを潰せば、他国からの印象も悪くなるだろ」

 「かもしれない。だが、先んじて得るものがある」


 シドの言葉にリドルは首をひねる。戦争によって得るもの、土地、賠償金、人、資源、と候補はいくらでも上がったが、どれも決定打とはならなかった。リドルはシドに答えをせがんだ。


 「得られるのは恐怖さ。もっと正確に言えば協調性を訴える恐怖、だな」

 「つまり、他国としては自分の国が潰されないようにうちの国にいい顔をし始める、と?」


 「これまでのうちの国が敗北者にしてきた処置と比較すれば、の話さ。これまではただ追い返すだけだった。捕虜だって最低限人道的に扱ってきたし、他国へ積極的に攻めることもなかった。リストグラキウスや周辺国の認識は都合のいい戦争相手、さ。


 だが、それが転じてちょっと小枝でつついただけでこっちが死に物狂いで追っかけてきたらどうする?虎の尾を踏む、とでも言えばいいのか、連中は慌てふためくこと間違いないだろうな。


 同時に俺らの行動が暗にこう言っている、と捉える。『ちょっかいだしたら潰すぞ』ってな。そのためにもリストグラキウスには潰されてもらわなければならない。そのためにも、リストグラキウスの国民が俺らへの反抗意識が芽生えないように上層部を吊るし上げる必要があるな。すべてはこいつらが悪いって」


 想像するだけで顎が垂れ下がるシチュエーションだ。昨日までは万雷の拍手、こちらが身悶えしてしまいそうな美辞麗句を並べられていた連中が、朝起きたら鍬を片手に、松明をもう片方に持った国民に取り囲まれ、汚泥の中でもがいて豚の餌にされるわけなのだから。


 下卑た想像、下品な妄想を堕落だ、最低だ、と言うがニンゲンの快楽を満たす上でこれ以上のものはない。ああ、哀れなるリストグラキウスの上層部よ、高潔なる神の代理人共よ。貴様らに明日はない。貴様らには今しかない。今のうちに悦を満たさずんば死ぞ、と腹の中でシドは笑った。


 「……それ……m,は……掛け……か……?」


 剣から左手を降ろし、リドルはか細い声で問う。もう彼の心にはシドへの疑念はない。もっとも効果的であり、もっともヤシュニナの未来を確立するのに向いている策だと考えていた。だが、最後にどうしても残った疑念、いや疑念とすら呼べないわだかまりが彼の舌に言葉を乗せた。そのせいか、歯切れも悪かった。


 「掛けじゃないさ。ヤシュニナの未来を決める重要な一手。王手ではないが、反撃の兆し、とでも言おうか」


 「王手、などと言っていれば叩いただろうな。王手なんて言葉は確実に勝てる時以外は使わない言葉だ。そして軍人が王手、などと言うときは決まって弱い者いじめをしているときだ」


 今の状況じゃねーか、とシドは腹の中でリドルの言葉につっこむ。だが、野暮だし口には出すまい。リドルと対話することでお互いの考えていることは察せられたし、軍と疎遠になり、連中が勝手な行動を起こす、という事態の発生も防げた、と安堵した。


 当面の課題は早期の内応者の確保とプレシアの件だろう。内応者に関してはあたりが付いているし、こちらは意外と早く済むかもしれない。ヤシュニナの不凍港からプレシアまでは通常の軍艦では4日かかる。問題の重要度で言えばむしろこっちの方が重要だろう。


 「リドル、和解ついでにちょっと頼みを聞いてくれないか?」

 「なんだ?今のうちに援軍の、いや制圧軍の準備でもしておけ、か?」


 「それはお前の部下とか副司令官とかに任せろよ。――そうじゃなくて、お前には不凍港のある港街、ホッケウラに向かって欲しい」

 「……おい、シド。まさかを使うつもりか?まだ一個艦隊もないぞ?」


 驚くリドルにシドはほくそ笑む。確かにアレはまだ完成にはほど遠く、総数も五隻、ヤシュニナの一個艦隊の基準である八隻には及ばない。しかし、早めにお披露目してしまっても問題はないはずだ。なにせこれまでのガレオン船の維持費の80%を裏で手を回して投資した、まさに漢のロマンとも言うべき存在だ。

 見せたい、見せたい、と思わずして無邪気なロマンが語れるものか!


 その気概を感じてか、嘆息した後リドルは、わかった、小さく頷いた。

 「お前がそこまで言うんだ。ありがたく使わせてもらうぜ?」


 ――新設されたヤシュニナ海軍北洋艦隊をな。


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