番外: メモリに挑戦した男
この話を書くにあたり参考にした文献およびテレビ番組
(1) NHK, 「プロフェッショナル仕事の流儀」, 2007年5月8日初放送「勝負の決断は
こうして下せ」, エルピーダメモリ破綻後のNHKのインタビューも参考とした
(2) 坂本幸雄著, 「不本意な敗戦 エルピーダの戦い」, 2013年, 日本経済新聞出版
(3) 坂本幸雄著, 「正論で経営せよ」, 2017年, ウェッジ
1990年代後半、日本のメモリ業界は同年代前半に世界制覇を果たしたのとは逆に韓国に追撃されてついには大赤字を出す事業になってしまった。
電気メーカーがメモリ(DRAM)を製造していたため、集中的な資本投資ができなかったこと、大型コンピュータむけに品質にこだわりすぎたためにコストがかかりすぎたこと、日米半導体協定の影響などもあり最終的に経営者たちは半導体事業を放り投げはじめた。
電気大手三社のDRAM事業は本社から切り離され、エルピーダメモリという新会社に押し付けられた。押し付けられた、というのは公式な見解ではないが事実上、この会社に押し付けて破綻を迫ったも同然であった。坂本幸雄もそのように述懐しているので、多分本当だったのだろう。エルピーダ、という社名は「希望」を表す「エルピス」からとられたものであったが、もはや希望なんてものはそこに存在しなかった。
エルピーダの経営は迷走し、日本のDRAMシェアは数パーセントにまで低下した。だれもがこの状況をあきらめざるを得ないと考えていた。出身の会社が異なる社員間はお互いに話もしない状況だったという。
そこに、坂本幸雄がやってきた。UMCジャパンの更生で一躍有名な立て直し屋として名をとどろかせた。もともとはテキサス・インスツルメンツに倉庫番として就職した男だったが、地頭がよく、素早い仕事ぶりに目をつけた米国人により大抜擢された。そのあとは順調に出世するが、ある時突然、退社して半導体業界の救世主となった。
坂本さんの著書には、テキサスインスツルメンツで社長にしてもらえなかったから、とか五十を迎えたら米国ではたいていアーリーリタイアしてるから、とかそんなことが書いてあった。
とにかく、坂本さんの気さくで凡庸とした外見と優しい言葉遣いが気にはなっていて、ウォッチはしていた。そんな、坂本氏なのだが仕事になるとすさまじい決断力を発揮する。一兆の投資を自分の責任で決める。あっという間にエルピーダを世界三位にまでシェアを押し上げた。舌鋒鋭く、「決められない経営者」を批判する言葉は印象に残る。
あと、もうすこし、そんなときに東日本大震災と未曾有の円高がやってきた。おりしも、DRAM不況であり一つのDRAMが1ドルでは70円にしかならない。コンビニのおにぎりより安い、と坂本氏は言っていた。さらに不幸は続く。
頼りにしていた米国のマイクロン社長が、エルピーダとの連携を決めた後に趣味の自家用飛行機で墜死してしまったのである。更に銀行への融資返還期限が迫り、銀行は躊躇なく取り立てをはじめようとしていた。坂本氏はあえて「破綻」という手法を選択し銀行の貸したてを棄損する事態となった。しかし、従業員たちは守られ、広島工場での生産も続いた。そして、自ら破綻あとのマイクロンとの提携をすすめたあとに退社している。坂本氏は散々に債権者らに脅されたそうである。
坂本氏の著書から、「あと半年まてば銀行は大きな利益を手にできたのに」と貸し手の見る目のなさを批判されている。また、みずからについてもメイン・バンクを作らなかったことが失敗だと自己批判している。
希代の経営者だったのに、そして日本の期待の星であったのに非常に残念なできごとだった。
そいつは電卓から始まった いわのふ @IVANOV
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