第6話 日米半導体協定

 当時の日本は世界の工場であり、製造業ではどこも勝てる国はない、とまで言われたほどであった。


 半導体がとくに激しく、シェアは年々増大していった。


 インテルの足元まで揺らぎ始め、米国はついに日本に対して日米半導体協定の締結を迫る。内容は、日本国内における米国製半導体のシェアを20%以上にしろ、というものであった。当時の日本ではありえないようにも思えた。


 しかし、PCメーカーの調整などもあり、約束は実行された。


 当時は日本電気のPC9801シリーズが国民機としてシェアを独占しており、なおかつ日本電気が作るV30シリーズCPUもi8086より性能が高い互換CPUとして活躍していた。


 インテルにとっては日本電気にCPUのシェアを握られたらたまらない。そこで、裁判が始まった。内容は、マイクロコード、というCPU内部の命令系統に関するもので、それに特許性があるかどうか、というものであった。


 日本電気は最終的に裁判には勝ったものの、すでにインテルは次世代CPUを開発しており、今更という状態になった。


 さらに、日本を脅かす事態がこのころからはじまった。日本の各メーカーは半導体への投資を抑制しがちであったうえ、韓国サムスンが強力な投資をはじめた。もともと、半導体技術を供与したのは日本ではあったが、当時の論調では「それが当たり前」のような雰囲気が醸し出されていた。


 そのうえ、日本は品質を最重要視していたため、だんだんと製造コストが高くつくようになってきた。プラザ合意による円高効果もジョブのように効いていた。


 さらに驚くべき事態がおきた。米国で再度、メモリを生産するメーカーが出現し、PC用の「それなりの」品質に合わせた安いメモリを生産しはじめた。また、日本では技術者を軽視する傾向が強く、不満を持つ者たちが韓国に製造指導に向かったり、あるいは人の引き抜きが始まった。


 90年代中盤には、ほぼ次世代メモリで韓国に負けることが明らかになりつつあった。


 また、インテルも高性能CPUで「RISC型」に性能面で劣ることが表面化し、ライバルとなるワークステーション・メーカーが次々に台頭した。インテルは躍起となってハイエンドCPUを開発したが、どれも高性能RISCには性能面で勝てなかった。しかし、PC用ではマイクロソフトのウィンドウズ95の成功とともにインテルのCPUが一般に普及し、財務は好転した。いまだモトローラのCPUに頼るアップルのマッキントッシュは価格と性能面でまともな勝負ができなくなりつつあった。そこで、アップルはCPUをIBM開発のRISC型に切り替えることにした。


 IBMはまた別な面で困り始めた。自社の開発したIBM PCは部品をビルドアップすれば完成できるようなモジュール型であったため、次第に互換機メーカーに追い詰められていった。


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