第28話  シラス丼の女

子が小さい頃に、家族みんなで来た店に、

今は遊び相手と来ている。


それも、一目で水商売の男とわかるなりしたワタルくんと。


ワタルは、シラス丼を食べたことがないと言った。

そんな料理が大きな顔をして、売られているわけがない、

信じない、と言った。


だから湘南バイパスをぶっ飛ばして、

連れてきてあげた。


八人ほどが並んでいて、それぞれがカップルだったので、

30分ほど待って二階のテラス席に案内された。


海は、太陽を受けて光る。

風は少し冷たいが、からりとして気持ちが良い。


ワタルは、1800円のシラスいくら丼というのを食べたいと言った。

私は、シンプルなシラス丼。


ありありと、あの頃のことが蘇ってきた。

三人の娘はまだみんな小学生だった。

夫はいつも心ここに非ずという風情で、

貧乏ゆすりをしていた。


キョロキョロして、

若い女性のグループを見たり、

店員の尻を見たりしていた。

『パパ、パパ』とはしゃぐ娘たちの話も上の空だった。


『ねぇ、パパ、どうして川は淡水なのに、海に入ると海水になるの。

いつなるの』


一番上の娘が聴いた。


『知らない』


夫は頭が良い男だ。

きっと知っているくせに、

面倒だから

『知らない』と言う。


だけど、父親だったら、

こんな風に言わないだろうか。


(なんでかな。お前はなんでだと思う)


夫のそういうところがたまらなく嫌で、

私は一番下の娘が成人式を迎えたその日に離婚届を出した。


今は、不特定多数の、

年下の可愛い男の子と遊んで暮らしている。


『美味いんだな、シラスなんてバカにしてたけど、

うまいんだな』

ワタルはきれいにものを食べる男だ。


一時間もしたら、

あの唇は、私の『商品』となる。


『そうでしょ。

江ノ島で食べるから美味しいのかもね』


私もシラスを一口。


懐かしい味が広がった。


『シラスって、なんの子ども?』


ワタルが聞いた。


『イワシよ』


ちょっとだけ、愚かな郷愁がきた。


(懐かしいな、あの頃、若い、五人家族の賑やかな声・・・。

夫も、まぁ、疲れていたのでしょうねぇ・・・。

私に一億も財産分与できる男だったのだものね・・・。

今も私が働かなくても投資で収入を得られるのも、

夫のおかげなんだけどさ・・・。

世の中の男のほとんどは、貧乏なんだと気づいたのも、

最近のこと・・・)


だけど、戻れない。

戻りたくもない。


私は、独りになった。


『シラス一匹も残したらだめよ』


ワタルはにこっと笑った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る