六通目 『花園』さんからのお便り

 僕が小学生の頃、通学路の途中には大きな洋館が建っていました。一体どんな人が住んでいるんだろうと、不思議な気分で見上げていました。広い庭には四季折々の花も咲き、いつも色々な植物の匂いも漂ってきたものです。

 風に湿気もまざり始めた、六月の朝。その家の木には、白い花が咲いていました。円錐形の枝にいくつも寄り集まったそれは、三角帽子にも見えました。

 その日は、一匹の蜂が花の蜜を採っていたので、僕は子ども心に怖くて固まってしまいました。進もうにも、足が動きませんでした。

 早く去ってくれと息を殺した、その時。


「怖くありませんよ」


 若い女の子の声が、後ろから聞こえてきました。

 優しく微笑むその人の、白いロングワンピースのスソが、歩調に合わせてゆるやかに揺れました。高校生っぽい印象の顔立ちでした。

 彼女は、蜂をそっと両手で包み込み、驚く僕に手を開いて見せてくれました。

 淡黄褐色の毛に覆われた昆虫は、意外にもおとなしくしていました。

「この子はライポンといって、針のない蜂なんです」

「そうなの?」

「ライポンは通称で、正しくは、コマルハナバチという種類のオスです。このネズミモチの花に、よく蜜を集めにきます」

「へー。おねーさん、くわしいんだね」

「ふふ、我が家の庭のことだけですけどね」

「えっ」

 ――この人が、ここに住んでるのか。

 もっとこう、お金持ちの外国人のおじさんとか、マダムっぽい人とかがいそうな気がしていました。

「よければ、触ってみますか」

 彼女が誘いました。

 好奇心に駆られた僕は、おそるおそる手を伸ばしました。

 ふわり、と指先にライポンの毛が触れて。素直に撫でられる昆虫は、そのまま寝るんじゃないかと思えるくらいに静かでした。

「ほんとに刺さないんだね」

「でしょう? メスには逆に鋭い針があって、危ないですけどね」

「オスとメス、どうやって見分けるの」

「一般的にクマンバチと呼ばれる、黒い蜂が雌です」

「そうなんだ!?」

 毛の色が違うなら、確かに一目瞭然です。

 僕の声に驚いてか、ライポンは不意に飛び立って花へ戻りました。

 残念そうに微苦笑した彼女は、僕に謝りました。

「ごめんなさい、学校に遅刻してしまいますよね」

「あ、そうだった。でも、おねーさんの話、楽しいよ。また来てもいい?」

「ええ、もちろん」

「ありがとう! じゃあ、いってきまーす」

 駆け出す僕を、彼女は穏やかに手を振って見送ってくれました。

 いつも通っていたはずの道が、初めて訪れる新鮮な街のようにも思えました。

 授業中も彼女のことが頭から離れなくて、放課後を待ちわびました。終業のチャイムが鳴るとすぐに校舎を出て、通学路を全速力で走りました。

 ランドセルを背負った子どもたちの間を素早く駆け抜け、肌で風を感じました。ライポンも、そんなふうに飛んでいるのかもしれませんね。

 洋館の近くに着くと、彼女がネズミモチの木の下にいるのが見えました。

「おねーさん!」

 呼びかけた僕に、彼女は朝と同じように笑いかけてくれました。

 花にもライポンがとまっていて、今度は自分で触ってみようと、僕は指でそっとつまみました。

 抵抗しない蜂は、すんなりとてのひらに乗ってくれました。小さな背中をそっと撫でるうちに、愛着も湧いてきました。

「かわいいなぁ、こいつ」

「ライポンも、あなたを気に入ってくれたのかもしれませんね」

「そういえば、おねーさん。この時間にも家にいるんだね。学校には行ってないの?」

「……ええ。事情がありまして」

 淋しそうに笑む彼女に、僕も少し気まずくなりました。悪いことを聞いてしまったようで。

 それでも、彼女の笑みがいたずらっぽい雰囲気に変わりました。


「わたしは、蜂に刺されてしまったんです」

「え?」

「だから、もうすぐお迎えが来るんですよ」


 冗談めかしたその言葉の意味を、すぐには飲みこめなくて。

 慰めの言葉を考えるうちに、別の声が後ろから聞こえました。

「君ッ」

「え、ぼく?」

 執事風の服装のおじいさんが、近づいてきました。

 ――おねーさんの家の人かな。勝手に話しかけて遊んだりしたから、怒られるかも……。

 思わずびくついた僕でしたが、緊張はすぐに解けました。

 目の前に屈んだ彼の、泣き笑いのような表情で。

「今、誰と話していたんだい」

「だれって、おねーさんと――」


 彼女を見上げようとした僕の目には、なぜかその姿は映りませんでした。確かにそばにいたはずなのに。


「あれ……?」

「……お嬢様はね、一週間ほど前に亡くなられたんだよ。ご病気でね」

 ガツン、と。頭に大きな石でも投げつけられたかのような衝撃が走りました。

 おじいさんは、僕の手の中にいるものを見て、懐かしそうに微笑みました。

「お嬢様は、ライポンが本当にお好きだったから……あちらへいかれる前に、帰ってきてくださったのかもしれんなぁ」

 ライポンも、おじいさんをあたたかく見上げているような気さえしました。


 あれから数十年経っても、彼女の愛した花園はそこに在ります。

 彼女がもういなくても、僕は何度でも、同じ道を通ってしまうのです。

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