第36話 再会(2)

「久しぶりだな、ユリウス。1カ月ぶりくらいか?」

「そんくらいだな。お前らが無事で本当に良かったよ」

 周は「こっちのセリフだ」と言って肩の力を抜いた。和葉たちが連れてこられたのは駅員の休憩室である。他に人はおらず、雨が天井に落ちる音だけが聞こえる。

「こっちは元気だよ、俺も、三雲も、筒音も。筒音のやつ、思ってたより頭が良くてさ! びっくりしたよ。こんなことなら早く学校に通わせときゃよかった」

 筒音はつい一昨日から学校に通い始めたそうだ。1カ月間独学で勉強したものの、授業に追いつけるか三雲は不安がったが、その心配はなかった。担任の教師からも驚かれたほど、学んだことの呑み込みが早いらしい。

 一方三雲は、歌手として活躍することを目指しているらしい。戦争が終わってから発足した劇団に加わるためのオーディションを受けると言って、現在特訓中だ。

「病院とかを回って患者を元気づけるのが目的の劇団なんだ」

 ユリウスは誇らしげに言った。

「俺は筒音みたいに頭がいいわけじゃないし、三雲みたいに大層な夢があるわけじゃないけど、今は一番幸せだ。もし死んでたらこの幸せがなかっただろうと考えるとゾッとするよ」

 ユリウスは今まで様々な仕事に就いて鍛えた体を評価され、駅員の面接に合格した。意外にも治安の悪い駅内で、ユリウスのような人物は重宝される。

(そういえば初めて会ったときも、鉄パイプを片手で受け止めてたな……)

 和葉は1カ月前の出来事を、つい最近のことかのように思い出していた。


 ユリウスは仕事に戻らなければと言って、休憩室を後にした。これで会えるのが最後だと思うと涙が出そうで、和葉は目をぎゅっと瞑った。

「ユリウス元気そうでよかったな。1カ月でこんなに変わるなんてな」

「俺たちも1カ月で『ヘレンの書』見つけられたじゃねえか。皆驚くぞ……。俺たちを馬鹿にしてた連中の顔が早く見てえな」

 周は得意げに腕を頭の後ろで組んだ。

「周さん悪い顔してますよ」

「うるせえ! いいんだよちっとくらい……」

「そうそう、周のコレは照れ隠しだから。実際は結構優しいから」

「だから違う! やめろって、そういうの! あーあ、せっかく和葉のことも誉めてやろうと思ったんだがなあ」

 周は片目を瞑って和葉を見た。

「え? 私ですか?」

「そうそう。お前さん、1カ月前より成長したねーって話してたんだ。特に周はべた褒めだったぞ」

「べた褒めなんてしてねえよ! 勝手なこと言うな! またつまんねえ嘘つきやがって……。ただまあ、ちょっとは成長したんじゃねえの? まだまだ危なっかしいけどな」

 和葉は褒められて顔が赤くなった。感動で涙が出そうになったのは初めてだった。

「泣き虫なところも相変わらずだしな」

「周は素直じゃないんだよなあ……。モテない理由がよーくわかるね」

 周とアーネストの掛け合いも相変わらずだ。和葉は思わず吹き出してしまった。


 随分長いこと雨が降っている。そのため和葉たちは休憩室でゆっくりとしていたが、だんだんと不安になってきた。天井がやや静かになっているのだ。

「雨、弱まってるかも……」

 和葉は窓を開けると、手を外に出した。間違いなく雨脚が弱まっている。

 周やアーネストも慌てて窓際に寄った。

「本当だ! 急ぐぞ! 湖まで走ればすぐだ!」

 アーネスト、周、そして和葉は傘もささずに駅を飛び出した。この駅に来るのも最後か、と和葉は走り出す瞬間に横目で駅に別れを告げた。


 湖へは走って20分ほどだった。小雨とはいえ20分も走っていたら、随分ずぶ濡れになってしまった。

 この湖へ来るのは約1カ月ぶりくらいだったが、和葉には懐かしく感じられた。どこからどう見ても普通の湖。この湖が日本とこの国を繋ぐだなんて、ファンタジーのようなことは未だに信じることができない。それでも信じて、必ず日本に帰らなければならない。

 湖は和葉がこの国へ来る直前のように、雨でいくつもの文様を作っている。近くに行こうとした瞬間、周に腕を引っ張られた。

「ぬかるんでて危ねえぞ。まだお前はハンカチ持ってないんだから、湖に落ちても溺れるだけだ」

 慌てて引き返した和葉に、アーネストがハンカチを差し出す。

「ほれ、またお前さんが失くすんじゃないかと思って俺が持っていたけど、もう大丈夫だろうな。お前さん、本当に強くなったよ」

「さっきからたくさん褒められてるけど、私、いろんな人に守られてばっかりだったんですけど……」

 和葉は嬉しいような戸惑うような気持ちになった。

「当たり前だろう。基本的に人間は守られて生きるものだからな。自分を守るものは家族かもしれないし、自分の信念かもしれない、将来の夢かもしれない、友達かもしれない。お前さんまだ未熟で若いんだから、なおさら守られることに抵抗しなくてもいいんじゃないか? 

 お父さんもお前さんを世の中の荒波から守ろうとして、勉強しろって言ってたのかもしれないしな。まあ、俺はお前さんのお父さんに会ったことがないから分かんないけどな。そんな大層な理由じゃなくて、本当は自分の名誉のためかもしれないし」

「なんで最後弱気になるんだよ。俺はお前の親父さんのことは正直どうでもいいけど、お前が幸せになるように生きればいいと思う。気づいてないかもしれないけど、結構な人を救ってんだ。三雲とかさ。自信持てよ。悲しい時とか嬉しい時とか、ちゃんと自分の気持ち出せよ。それは自分の言葉でもいいし、涙でもいいし。

 そういやお前、最近涙よりも言葉で気持ちを表現できるようになったよな。でも泣きたいときは泣けよ。二ホンじゃそう簡単にいかねえだろうが、家でくらいいいだろ。じゃねえと、ヘレニウム病になっちまうぞ」

 周は何かに耐えるような表情をして和葉の頭を掴み、乱暴に撫でた。「私は日本人だからならない……」と涙目で肩を震わせる和葉を見て、アーネストも背中を擦った。

「もう行こう。湖の近くまで俺たちも一緒に行く。もし溺れそうになったときは引き上げるから、安心してくれ」

 和葉は涙を拭いながら深く頷いた。

「本当に、ありがとうございました。私、正直この国に居続けてもいいかなって思ったときもあったけど、やっぱり日本に戻ります。私は日本で、お父さんと話さなきゃ。リンさんとかみたいに大きな夢もないけれど、これからも全力で生きていきます」

「なんだなんだ、何かの引退会見みたいじゃねえか、くそ、元気でな」

 周は和葉をぶっきらぼうに言いながら、目を手の甲で擦った。アーネストはそんな彼の頭を優しく叩いた。

「からかわないでくださいよ、周さんも、先生も、お元気で、研究頑張って下さ……うわあ!」

 話している途中で、和葉はぬかるむ地面で足を滑らせた。そのまま坂の下にある湖へ滑っていく。

「おい! 和葉!」

 周とアーネストの焦った声が、和葉の頭上から聞こえる。必死にもがくも、泥の力に抗うことがでできない。あっという間に湖へとたどり着いてしまった。

「うわああ! 周さん! 先生!」

 湖はおどろおどろしい渦をつくり、和葉はそこへ吸い込まれるように入っていった。死んでしまいそうな、でも懐かしいような不思議な感覚に身を任せながら、和葉は意識を失った。


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