スラム街にて

第5話 靴磨きの少女

 飛び出したはいいものの、街に出たところでどこに行けばいいのかなんて分からない。車と馬車が道路を走り、人々は現代的な服と伝統的な服の両方を着こなしている。皆せわしなく動き回っており、和葉が声をかける隙がない。

 試しにデパートの入り口に立つドアマンに涙が採れそうな場所を聞いてみたが、彼は不愉快そうに眉根を寄せ、「金稼ぎならスラム街でやってくれ」と手で追い払う仕草をした。デパートに来た裕福そうな客も、遠巻きに二人の様子を見てこそこそと話している。

「何あの子、涙なんて欲しがってんの? 身なりは小綺麗にしてるけど、乞食かしら」

「いやねえ。きっとスラム街から稼ぎに来たのよ」

(なんで私がこんな目に遭わないといけないの!)

 和葉はいたたまれない気持ちになった。そんな扱いを受けるなんて生まれて初めてで、プライドがひどく傷ついた。そしてなんて冷たい街だろうと思った。彼女は周囲をじろりと睨み、人気のない通りをめがけて駆けていった。

 しばらく走ったところで、複雑に入り組んだ小道に入った。薄汚れた猫が和葉の足にまとわりついてくる。宝石のような瞳と亜麻色の毛色は美しく、貴族の猫と言った方がしっくりくるが、汚れた体がこの猫の貧相な生活を物語っていた。普段なら撫でるなり遊ぶなりしていただろうが、そんな余裕はなかった。そしてあまりに猫が汚れていたので、地肌に触れないように避けて追い払った。そうすると猫はフイっと拗ねたように逆の方向に歩いて行った。

 小道を歩いていると、だんだん人とすれ違うようになってきた。疲れ切ったような表情をして座り込んでいる者。何もないところに怒鳴り散らしている者。あまりにもカオスだった。どうやらここがこの国のスラム街らしい。和葉が今まで嗅いだことのない匂いが、だんだん強くなっている。

 和葉が目の前に広がる景色をぼんやりと見ていると、突然小さい子どもが彼女の腕を掴んだ。髪の毛がぼうぼうに伸びていて、顔は薄汚れている。

「お姉ちゃん、靴磨いてあげようか」

 和葉はひきつったような声を出して、その場に立ちすくんだ。しばらくじっと子どもの顔を見ていた。知らない人間に靴を磨かれるのは初めてだったから、どうにか断ろうとした。しかし普段から断ることが苦手な和葉である。子どものお願いを無下にするのも申し訳ないと思ったので、つい頷いてしまった。

「やった! 綺麗にしてあげるね。ここに座って!」

 子どもは和葉の腕を掴んでいない方の手に、様々な道具を抱えていた。その中にボロボロのパイプ椅子もあり、子どもはそれに座るよう促した。

「これ、サンダルだね。革靴しか磨いたことないんだけど、頑張るね」

 子どもはどうやら女の子のようだ。痩せすぎではあるがよく見るとなかなかの美少女で、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳が可愛らしい。にっこりと無邪気な笑顔を見せ、和葉の警戒心もすっかり解けてしまった。

「お姉さん、お名前なんて言うの?」

「森口和葉だよ」

「すごい! お金持ちなんだね!」

 少女の言っていることは意味が分からなかったが、あまりにも少女が楽しそうなので何も言わずに微笑んだ。

 拙い手つきではあるものの、水とブラシによって少しずつ汚れは落ちていく。サンダルだからあまり道具も使わず、ラッキーだと少女は笑った。

「よし! これでどうかな。もうこれ以上は落ちないよ」

「すごい! 綺麗になったね。ありがとう」

 そう言って和葉は少女に笑いかけ、椅子から立ち上がった。そしてそのまま去ろうとすると、再び腕がグイっと引っ張られた。

「お金は」

 さっきの笑顔とは似ても似つかない形相だった。落ちくぼんだ眼を見開いて、じっと和葉の顔を見ている。伸びた爪が腕に食い込んでいる。和葉はカラカラに乾いた喉を懸命に動かして、言葉を発した。

「ごめん、持ってない」

 その瞬間、少女の顔が真っ赤になり、食い込んでいた爪で思い切り腕をひっかいた。そしてそのあと和葉の胸倉を掴み、ごみ箱が散乱する壁側に向かって叩きつけた。最初は何が起こっているのか分からなかった和葉も、危険であることは察知して、少女の腹を思い切り蹴飛ばした。

 腹を抑えてゲホゲホと咳き込む少女を見て、「ごめん」と一言言って和葉は逃げた。後ろから少女の怒鳴り声が聞こえる。

「馬鹿にしやがって、泥棒だ! 許さない。絶対に許さないからな!」

 その言葉に気を取られていた和葉は、足元の鉄パイプに気づかなかった。足を鉄パイプに引っ掛けて地面に倒れこみ、右足を捻ってしまった。どうやら捻挫をしているらしく、立ち上がることができない。

「ほら、天罰が下った。貧乏人だからって人をなめやがって。お前みたいなからかい目的の金持ちが時々ここに来るんだよ。でもそいつらは金だけは払っていった。お前は違う。持ってる金がないなら、お前の臓器でもなんでも売ってやる!」

 少女は足元に転がる鉄パイプを、和葉の頭上めがけて振り下ろした。もう駄目だ。このままよく分からない所で、初めて出会って三十分にも満たない少女に殺されるなんて……和葉はもう自分が絶望の淵にいることを悟った。

 母親の死から立ち直らず、父親の言うことに腹を立て、挙句の果てに貧しそうな身なりの少女の怒りを買ってしまった。少女は天罰だと言ったが、全くその通りだと思った。和葉は目をぎゅっと瞑った。

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