第4話 人たらし学者(2)

「どんな国でも優しい人っているんですね。心強いです。あーあ、たくさん泣いたらすっきりしちゃいました。ありがとうございます」

「いやいや、感謝するのはこっちの方だよ。おかげで今月はちょっとだけ贅沢できそうだ」

「は? 贅沢?」

 全く話が見えてこない。今彼は和葉の涙をぬぐっただけだ。

「この国ではね、涙がまあまあ貴重で高い値で売れるんだよ。この特殊なハンカチに染み込ませて、医学系の研究室の連中に渡したら結構いい金になる。君のさっきの涙の量で言うと、おそらくいつもより結構良いもんが食えそうなくらいだ。でかした!」

「どうせ先生の酒代やらなんやらに消えていくんだろ。金は俺が預かるからな家賃も払わねえといけないし」

「ええ? そりゃないんじゃないか……」

 和葉は二人のやり取りを見ながら呆然としていた。何を言っているのかさっぱり分からないが、騙された気分になった。存分に泣いていいと言ったのは金のためだったのだ。

 さっき女に殴られていたときは同情していたが、今となっては彼女の方に同意する。騙された怒りと悔しさで和葉の顔は真っ赤になり、二人を強く睨んだ。

「何恨めしそうな顔してるんだ。金ならお前さんにもやるさ。何割がいいかな……」

「私のこと騙したからです」

 もうすでに和葉の涙は止まってしまっている。

「騙したつもりはないんだけどなあ。お前さんもすっきりしたって言ってたじゃないか。一石二鳥だよ」

「大体、涙がお金になるって何なんですか。涙なんてどこででも採れるでしょ?」

「貴重なものは高値が付くもんだ。この国ではなかなか涙は採れない。戦争前は定期的に採れていたんだけどな。詳しい説明は省くけど、この国の国民は戦争が始まると、涙を流しにくくなるんだ。体質の問題でね。涙は特効薬になる可能性があるってのに採れないもんだから、みんな焦っちゃってさ」

「特効薬? 涙が薬になるんですか?」

「ヘレニウム病」

 深刻そうな顔をした周がハッキリとした口調で言った。和葉は聞き慣れない言葉に目をパチパチとさせ、こんな病気を聞いたことがあっただろうかと記憶を探った。彼女が聞き返す前に、周が説明を始めた。

「この病気、やっぱりニホンにはないのか。ヘレニウム病ってのはこの国の国民病みてえなもんだ。戦争が始まる前はそこまで患者は多くなかったんだが、最近増えてきてんだ。最悪死に至る」

「どんな病気なんですか?」

 和葉が聞くと、顎髭の男が顎をさすりながら答えた。

「見た目ではあんまり分かんないねえ。だから余計に発見するのが難しい。体が弱って衰弱したり、自分で自分を傷つけて、何度も自殺未遂を繰り返したり……。最後は死んでしまうこともある。この症状に苦しむ国民が増えて調査した結果、30年前に書かれた『ヘレンの書』にも似たような症状の人物が登場していたことが分かった。この病気の原因がウイルスなのか、戦争の時に死んだ霊が取り付いているのか……いろんな説があるが原因はまだわかっていない。ちなみに、俺は後者の説を推してるんだ。戦争後に流行るっていうのも辻褄が合う」

 彼が得意げに顎をさすると、周が髪の毛先を弄びながらじろりと男を見た。

「まだそんなこと信じてるのかよ。ウイルスに決まってんだろ」

「いやいやウイルスが涙程度で消えるか? やっぱり涙が霊を浄化するんだよ」

 二人の話は盛り上がっていたが、和葉にはあまり興味がなかった。確かに深刻な病気が流行っているのはお気の毒だと思うが、自分のことで精いっぱいで気にしていられない。彼女の興味のなさそうな顔を見て、顎髭の男がクスリと笑った。

「お前さんにも関係あることだぞ。涙がニホンに帰る鍵だからな」

「え? 涙? でもさっき帰る方法が書かれた本はどっかに行ったって……」

「そうだ、その通り、『ヘレンの書』の後編は行方不明だ。でも前編は残っている。前編の最後には、ほら、この本だ。見てみろ」

 そう言って彼は古びた本を来客用の机の上に置き、最後の方のページを開いて見せた。書いてある文字はどう見ても日本語だったので、和葉はこの世界は一体何なんだとさらに混乱した。かび臭いに匂いに顔をしかめながら、印刷された文字を追った。


 

 その日はパラパラと小雨が降っていたのを覚えている。湖の中からやってきたニホン人は、ニホンに帰るためにその湖の中に入った。しかし湖の底はニホンと繋がっておらず、彼は溺れかけてしまった。間一髪助かったが、ニホンに帰れない悲しみのあまり、彼は泣いてしまった。その涙につられて周りにいた4人の人々も泣いた。すると彼らの涙が湖に入った瞬間、渦巻きのようなものが湖の中に現れ、あっという間に彼はいなくなってしまった。慌てて4人が湖の中を探したが彼の姿は見当たらなかった。このことから、私は涙こそがニホンとこの国を繋ぐ切符だと考えた。しかしながら残念なことに、ニホン人がいなければ、涙が集まってもこの切符は使えないようである。何人もの人々がニホンという未知の国へ行こうとして失敗している。

 さて、私が出会ったニホン人との話はこの辺にしておこうと思う。それよりも読者が関心を持っているのは前述した謎の病気の人々の話であろう。私の妻も、生前この謎の病気に苦しめられた。彼らの症状の中から共通点を探し、原因を導き出した。この病気の治療の鍵は、「涙」である。このことについては後編で詳しく述べるとしよう。



 和葉は唖然とした。そんなファンタジーのようなこと、どうして信じられようかと思った。

「どういう作用でかは分からねえが、ヘレニウム病に効くのは『涙』って書いてある。だから涙を使えばこの病気が治ると信じられていて、医学部の連中が必死こいて涙の成分を分析している。俺たちは医学のことはよく分かんねえが、この『ヘレンの書』がヘレニウム病を知る鍵になると思ってる。理系の連中からは馬鹿にされて、この研究室も存続の危機が迫っているがな。ちなみにこれを見る限り、ニホンに帰るためには自分も含めて5人分の涙が必要みてえだ。あんた、信じられねえって顔してるな。俺も信じちゃいねえが、その他になんの方法もないなら試してみる価値はあるんじゃねえか」

 周はぶっきらぼうにそう言うと、和葉にハンカチを渡した。先ほど顎髭の男が彼女の涙を拭いたものと同じデザインのものだ。

「これは特殊な繊維でできてる。涙の成分が百パーセント吸収されて、外に漏れない仕様になってんだ。これで自分も含めて5人分の涙を採って、さっさと日本に帰んな」

 もうここまでくれば、腹をくくるしかない。早く集めて日本に帰らなければならない。なんの根拠もないけれど、今はその都市伝説のような話を信じて実行するしかない。

「ありがとうございました! お世話になりましたっ!」

 和葉は二人に頭を下げてお礼を言い、一目散に部屋から出た。背後から声がするが振り返ってられない。外に出ると、小雨はすっかり止んでいて、霧が街を雲のように覆っていた。

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