第6話 靴磨きの少女(2)

 しかし予想していた衝撃はこなかった。恐る恐る上を見ると、若い短髪の男が鉄パイプを掴んでいた。目はきりっとしているものの表情は優し気で、「いい人そう」と言われるような顔だと和葉は思った。目は黒いものの髪は茶髪で、周やアーネストと比べて日本のどこにいてもおかしくない風貌だ。

 彼は少女に向けて呆れたような表情を浮かべている。

「何やってんだ、お前。こんなもの振り回して」

「だって、この女があたしのこと騙したんだもん。お金払えないなんて言うから、じゃあこいつ自ら金になってもらおうかと思ってさ」

「だからと言って殺すことないだろ。ほら、一回いくらだったか」

 男が小銭入れを少女に見せると、少女は「あんたに金を貰っても意味ないんだけど」と言いつつも、気まずそうに指で「4」を表した。そしてコインを男から受け取ったらすぐに和葉を睨み、一目散に去って行った。

「おい、あんた大丈夫か」

 男はそう言って和葉に手を差し伸べた。そして彼女が捻挫していると分かると、治療をしてやるから背中に乗るよう言った。

 男に運ばれながら、和葉はつい泣きそうになった。あんなに酷いことをしたのに優しくされるのが、嬉しいというよりも恥ずかしくて情けなかった。

 そんな心情を知ってか知らずか、優しい口調で話しかけた。

「あいつ、俺の妹みたいなもんなんだ。気がちっとばかし短いが、根はいいやつなんだよ。だからさっきのことは誰にも言わないでくれないか? いくらここが混沌とした世界でも、殺人を犯した子どもは敬遠されがちなんだ」

「言わない。絶対言いません。私こそ本当にごめんなさい。あんなに小さい子が、自分でお金稼いでるなんて思ってなくて」

 和葉は髪が乱れるほど頭を横に振っってそう言った。男は驚いたのか少し間をおいてハハっと苦笑した。

「あんた、相当なお嬢様だな? じゃないとそんな世間知らずにはならない。苗字持ちか?」

 世間知らずと言われて顔がカッと熱くなったが、自分のさっきまでの行動を振り返ると納得せざるを得なかった。日本にいた頃も、お前は世間知らずだとよく父親に言われていた。しかし「苗字持ち」という単語には聞き覚えがない。

「『苗字持ち』って何ですか? 苗字は森口ですけど……」

「あー! お前本当にお嬢様なんだな! あんたみたいに苗字がある人のことを、普通は『苗字持ち』って言うんだよ。こんなことも知らないなんて、本当に箱入りだったんだな。周りも苗字持ちばっかりなんだろ」

「いえ、お嬢様ではないですけど……お兄さんは苗字ないんですか?」

「当たり前だよ! 一般庶民ですら持ってないのに、俺みたいなスラム街の住人が持ってるわけないだろ? あと、俺の名前はお兄さんじゃなくてユリウスな。ほら、着いたぞ」

 ユリウスと名乗る男が顎で示したのは、小さな崩れかけのアパートだった。枯れかけの植物のツタが壁に絡みついている。近所にこんな見た目の廃墟があったことを和葉は思い出していた。誰も住んでいないのをいいことに心霊スポット扱いをして、町内会の会長に怒られたことがあった。その時は、自分がそんな廃墟のような建物に入るなんて、思ってもいなかった。

 アパート簡素な造りのようだったので、和葉は崩れないか内心ヒヤヒヤしていた。変色した木なのか錆びた鉄なのか分からない柱が、このアパートを支える大黒柱だ。

 ギシギシと揺れるアパートの階段を上り、ユリウスは自分の部屋の前で止まった。

「ここが俺んち。大した手当はできないけど、氷くらいならあるからさ。持ってくるからちょっと待ってて」

 そう言って彼は部屋の中に入ってしまった。中からは話声が聞こえる。しかしユリウスの声以外には聞こえず、独り言を言っているようだった。

 数分後、彼は眉尻を下げて部屋から出てきた。バツが悪そうに、短い茶色の頭をぼりぼりと掻いている。

「ごめん。電気止められてたの忘れてたよ。せっかく大枚はたいて冷蔵庫買ったのに。氷は店で買ってくるな」

 彼がそう言ったので、和葉は必死で止めた。冷蔵庫がこの世界にあることに驚いたため、言葉が出るのが遅くなってしまった。

「いやいや、結構です! 安静にしていれば治ると思うので。それより、今日ここにいてもいいですか?」

「ええ? 家に帰らないのか? あんたいいところのお嬢様だろ? 早く帰らないと心配されるぞ。……まさか、家出か?」

「いやあ……なんか道に迷っちゃって。帰り道も分かんなくて……」

 ここまで来て、やっと和葉は自分の計画性のなさに気づいた。涙なんてすぐ集まるだろうと思っていたが、集めるまでの食事や住むところはどうするのか、全く考えていなかった。思いついてすぐ行動に移すところは、彼女の長所であり短所でもある。

「なんだそれ! お付きの人もつけてなかったのかよ。よくそんなんで生きてこれたな! 今頃家の人必死こいて探してるぞ。住所も知らないのか?」

 住所も何も、この国に来たばかりである。すっかり困ってしまった和葉は正直にそう言おうとしたが、数時間前に周に言われた言葉を思い出した。


ーーーこの国では戦争が終わったばっかっていうのもあって、他の国から来た奴に厳しいんだ。


 いくら優しくても、さすがに他の国から来たってことが分かったらただでは済まないかもしれない。嘘でもどこかの家を言っとけばいいだろう。しかし彼女はここに来るまで、この国にどんな家があったかなんて見ていなかった。

 必死に記憶をたどっていると、一つの建物が思い浮かんだ。赤煉瓦の、古いけれど美しい大学。

「赤煉瓦の門と、それと同じような色の煉瓦が使われている建物の大学って、知ってますか? そのあたりで……」

「なんだ、あんた大学生か? もしかして寮生?」

「そ! そう! 寮生です! 一人部屋だし、誰も心配していないので大丈夫ですよ!」

「なんだ、寮生だったのか。あんた、童顔なんだな。中学生か高校生くらいに見えたもんだから、悪いね。大学生ってことは、俺らと同じくらいの歳だな。俺、19歳なんだ」

 和葉は内心ヒヤリとしつつ、何とか信じてもらえたことに安堵した。彼女は最初「寮生」と言うつもりはなかったが、思いがけず助かった。一人暮らしなんて言ってしまっていたら、なぜ金持ちが?と突っ込まれるところだった。

「そういやあんた、誰も心配してないなんて言うなよ。どんなに離れていても、親はいつも子どもを心配してるもんだろ」

 彼に苦笑しながらそう言われて、和葉は罪悪感で胸が痛んだ。それと同時に、「どんなに離れていても、親はいつも子どもを心配してる」という言葉を反芻していた。

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