第32話きっかけ

 風呂に入り、一通り体を洗ってから風呂場を後にする。

 緊張をほぐすために入った風呂だが、ほぐれたかと言われたらほぐれてない。

 どうしてこんなことに緊張しているのか……。

 ただ親と話すだけだぞ?

 何にも難しいことなんてない。

 みんな、普通の人間なら出来て当たり前。

 いや、普通とかそういう問題ではない。

 むしろ出来なければおかしい。

 出来ないということはつまり、人として一番大切であろうコミュニケーション能力が著しく欠如けつじょしているということだ。

 これは、人にとって割と致命的に欠けてはいけないもので、勉学なんかよりも優先してやしなわなければいけない能力だ……。

 その能力が、僕にはほとんどない。

 物心ついた時からずっと、人と喋るのが苦手だった。

 理由は……わからない。

 生きていく過程で自我というものが形成されていくはずなのだが、僕は最初っから人見知りだった。

 それが治ることもなかったし、治そうとする努力もしなかった。

 ペタペタと木で作られた床を歩きながら、これからどうやって父親と話そうかと考える。

 そもそも菜乃花に言われたから話すというのはどうなんだ?

 別に自分の意思で父親と話したいわけではない。

 もう話さなくてもいいんじゃないか?

 そう考え始めると、またどんどんと悪い方向へと思考が進んでいく。

 そんな時に、ガンッと頭を壁にぶつけて正気に戻る。

 だめだ。

 せっかく菜乃花が前に進むきっかけをくれたんだ。

 今まで避けてきたことから、目を背けてきたことから、ようやく一歩向き合おうと思えたのだ。

 だったら逃げてはだめだ……。

 ここで逃げたら、今まで話を聞いてくれた彼女に申し訳が立たない。

 だから、逃げるわけには行かない。

 僕は三階にある父親の部屋の前に行くと、一つ、大きな深呼吸をする。

 そして意を決して、トントンとドアを叩く。

 叩いてから数秒、中から、


「入れ」


 低い声が聞こえてくる。

 言われるがままに、ガチャっとドアノブを開ける。

 部屋の大きさは自分の部屋と同じぐらいの大きさ、中にはたくさんの書籍が入った本棚。

 そして、入ってすぐ右においてある机と椅子の前に、父親が座っていた。

 入ってから数秒の沈黙。

 それからすぐに、何か用かと言いたげな父親の表情を読み取る。

 別に用なんてない。

 かと言って、特別話したいこともない。

 でも、何か言わなくては。

 そう思い、咄嗟とっさに、


「写真家になりたいんだ……」


 そんな言葉が、口から飛び出てしまった。




















 

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