第31話緊張

 今日はもう帰ろう。

 あまり長居しても、菜乃花の迷惑になってしまう。

 倒れこんだ体を、腰の力だけで起き上がらせて、ベッドに倒れこんでいる菜乃花の方を向く。

 

「今日はもう帰るよ」


 腕時計の針に一瞬だけ目を向けてから、部屋のドアに手をかける。

 手をかけて、一言


「また明日」


 そう言い残して、菜乃花の返事も待たずに僕は部屋を後にした。





「ただいま」

 

 いつものように、小さな声で挨拶をして玄関をくぐり抜ける。

 靴を脱ぎ、料理の匂いが漂っている居間へと歩みを進め。


 「ただいま」


 先にテーブルの前で僕の帰り……というか、僕が食卓に並ぶのを待っていた両親に挨拶をする。

 母親は僕と目が合うと、


「おかえりなさい」

 

 っと挨拶をしてくれた。

 だがもう一人の方は、何も言わずに早く座れと言わんばかりの眼光を僕に飛ばしてから、持っていた新聞紙を床に置いただけだった。

 俺はこれから、この挨拶も返してくれないような人間と何を話せばいいのだろう?

 考えても仕方がないし、これ以上待たせるのも悪いと思ったので、とりあえずテーブルの前に座る。

 僕が座ると同時ぐらいに、父親が小さくいただきますと言ったので、それに続くように僕と母親もいただきますと言い、食事を始める。

 食べながら考える。

 何を話そう。

 どうやって話しかけよう。

 そんなもどかしい気持ちになりながら、箸を進める。

 やはり、無難に将来の夢について話して見るか……?

 でもそんな話をしたら、


「くだらんことで話しかけてくるな」


 とか言われそうだ。

 そもそもこの父親ひとは、どういう喋り方をしていたのかよく思い出せない。

 僕が今思い浮かべた妄想の父親も、僕のイメージで適当に言いそうな話し方を当てはめただけだ。

 もしかしたらもっと柔らかい口調だったかもしれない。

 そんなことすらわからないほど、今まで自分は父親という人間と接してこなかったのだと再認識する。

 そんなことを考えているうちに、父親は食器の中に入っていたトンカツを空にして、食器を台所に持って行っていた。

 あ、という声が、すこしだけ漏れる。

 父親と会うタイミングなんて、食事のときぐらいしかない。

 別に会う機会を作ろうと思えばいつでも作れるが、父親は風呂と食事以外、基本自分の部屋の中にいる。

 つまり、話をするには自分から父親の部屋に行かなくてはならない。

 あまり……というか、一度もそこに行ったことはない。

 何年もこの家に住んでいるが、その部屋だけは立ち入ったことが一度もなかった。

 どういう構造なのかも、中に何が置いてあるのかも何も知らない。

 いろんな意味で、緊張する。

 だめだ、このままそこに行ったところで、まともに話せる気がしない。

 僕はその緊張をすこしでも和らげるために、ひとまず風呂に向かうことにした。
























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