エピローグ

飛ばなくていいんだ

 人が変わったようになる、とは、こういうことを言うのだろうか。近衛騎士に復帰したゴラン・ゴゾールは、ジョルマ・フォーツ王国の宰相であったネーロ・ヴォプロという男を客人として迎え、その姿を見る度に、しみじみとそんなことを思うようになった。

「ゴゾールどの! 岩場の糞丸虫と砂上の糞丸虫について、以前お見せした研究資料の通り、前腕の形状が違うのは覚えておられるだろう? この二種の雌について、尻の形状が違うにも拘らず、何と、岩場の雄も砂上の雄も、種類にこだわることなく、雌を追い掛けることが判明したのだ! 大変な発見だと思わないかね?」

「……それは、生物研究所にまとめて提出なさるおつもりですか、ヴォプロ先生?」

 幸せそうな表情をすることが増えたネーロ・ヴォプロは、ゴラン・ゴゾールが親友ヴェンゼ・テモネーロの邸宅に呼ばれている時でも、構わず押し掛けてくるようになっていた。糞丸虫の話をする為だけに。砂漠の虫に詳しいルパあたりにそろそろ押し付けたくて仕方がなかったが、しかし、以前は冷たい表情ばかりだったこの人の色々な表情を見ているのが楽しくて、また話を聞いているのも面白くて、そのままにしてある。元々、宰相の地位にいた者だ。話が下手なわけがない。

 今日は、テモネーロ邸に、双子の王子やリタだけでなく、ラモ翁も招かれている。

 アルタン族との交流が始まって、もう三ヶ月が経とうとしていた。


 糞丸虫から人の姿に戻った時、ネーロ・ヴォプロはがっくりと項垂れて、こんなことを口にした。

「前宰相のダラグ・ナパーノを呼び戻そう……優秀ゆえに私が追い落とす羽目になった人材だ、私よりも若い。そして、私の貯えを内政に回しなさい、一代限りの出世のつもりだったから妻も子もいない。私は引退する」

 責任を取らないつもりか、と王子たちが憤慨した表情で問い詰めれば、ネーロ・ヴォプロは凹んだ顔でこんなことを言ったのだ。

「本来であれば、最小限の犠牲をなくすための働きをせねばならないのだ。このような体たらくでは示しがつかぬ。私は、とんでもない無茶をして、多くの人を傷つけるところであったのだ。マローノ、カストーノ、後は任せた。元より無茶をすることで何かを成した気になろうとしていた節があったように思うが、幸せは砂の上にあるということが身に染みてわかった」

 砂の上で、宰相の地位を辞しようとしている男は、ゴラン・ゴゾールを見上げた。

「ゴゾールどの、それに気付かせてくれたあなたは、私の恩人だ」

 ネーロ・ヴォプロは糞だらけの格好のまま、ゴラン・ゴゾールが身を引いたのにも気づくことなく、両手をがっしりと掴んできて、こんなことを言ったのだ。

「ありがとう。この恩は忘れない。あなたのおかげで、私は糞丸虫の雌の尻がいかに魅力的かを知った、生涯をかけて研究し、至高の尻を見つけだしたい」


 第二王子カストーノの存命と、ネーロ・ヴォプロの宰相引退の知らせ。このふたつが王国を駆け巡るのは、あっという間だった。

「全ては私に起因します。この通り、謝罪を申し上げます」

 事が全て終わり、謁見の間を辞した後、皆の集まる場所で深く謝罪を述べたのは、レシテの民アルタン、タオモ氏族のジン――ジン・タオモである。

「巫の力が、砂漠の上で人々が暮らす街を維持していることは、皆様はもうご存知ですよね? 長い話になりますが、全てをお話ししたいので、聞いていただけないでしょうか」

 そのような前置きをして、皆が頷くのを待ってから、王の私室で、ジン・タオモは話を始めたのだ。

「伝説のチーズ、と呼ばれるものが生まれた経緯をお話いたしましょう」

 ゴラン・ゴゾールは、爪の先程の大きさしかない白い塊のことを思い出した。それがどこからきたのかを、砂漠から来た者は、よく知っていた。

「私の母は大変強力な巫で、砂漠に点在するありとあらゆるアルタンの街から配偶者を送られる程でした。ですが、各地から来た配偶者は、皆、己の地位の向上と街の利益を吸い取ることしか考えておらず、そこに暮らす人々をないがしろにする始末です。母は、そのような輩から街の人々を守る為、各地に便りを出し、人々を移住させたのです……巫が一生に一度だけ使うことができ、非常に強力な力を秘めた物体を生み出すことができる、という術があります。己の力を全てそこに集約させられるのです、死後も……ただし、その力が根付いていた場所は、全てを失って、滅びます。その末路は、あなたがたも見た通り、底の見えない穴と光の渦です。母は、くだらない輩を集めてしまう元凶となっていた自分の力を、食べかけのチーズに注ぎ込みました。そうして、タオモの街は滅びました。巫は特定の土地に縛られる、特殊な存在です。滅びた土地を元に戻すには、その力を、巫のいた場所へ還さなければなりません」

「……私が飲み込んだものは、三十年前の食べかけのチーズであったと?」

 話を聞いたネーロ・ヴォプロは凄まじい顔をした。ジン・タオモはしっかりと頷いた。

「はい。そして、そのような輩を一掃する為に、母は砂漠から逃走し、ジョルマ・フォーツの王宮に対して協力を取り付ける為、力を注いだ食べかけのチーズを献上したのです」

「……私が見たことのあった、あの変わった女は、そなたの母であったか」

「はい……王国では、さぞや目立ったことでしょう。それは私も同じですが」

 ネーロ・ヴォプロが呟けば、ジン・タオモは頷いた。

「あなたにもご迷惑をおかけしました、ヴォプロ様。私は、故郷を……母の守った街を、復興させたかった。伝説のチーズを、光と闇の虚無の穴と化したその場所へ還す為に、砂漠を巡回するアルタンの守護者たるお父上――ラモ・レッツァどのとの繋がりを得るべく、その娘と婚姻を結びました……そして私は、チーズを取ってこさせるために罪人たちと接触するべく、お父上の巡回に同行しようとしました。が、お父上に同行する前に、運よくノージャの街を見つけた罪人と話をすることができたのです」

 彼は溜め息をついた。

「その喜びで、心の目が曇っていたのでしょう。私は迂闊でした。罪人に、色々なことを教えてしまっていたのです。彼は生き延び、無事に王国へ逃げ帰りました」

 ゴラン・ゴゾールは、そこまで聴いて、ようやっと色々な事がはっきりとわかった。レミとルパは、アルタン族を守る為に生まれたのだ。秘宝の鍵と言っても差し支えなかった。

「王都に戻った罪人の報告によって、伝説のチーズが特別なものであると感づかれ、伝説のチーズのありかを突き止めることはおろか、強制的に王宮に呼び出され……私は、アルタンを守るために、アルタンの存在を秘し、単なる砂漠の秘宝であるということにして、このチーズは砂漠の秘宝の鍵になるものだ……と説明してしまったのです。その結果が、王子殿下がたの御身を傷付け、王国を混乱に陥れる結果となってしまったこと、心よりお詫び申し上げます」

 ジン・タオモは再び頭を下げた。その背を柔らかく叩くのは、品のいい黒の宰相職の衣装を身に纏った小綺麗な男である。彼は、親しみの籠った粗野な笑みを口の端に浮かべるのだ。

「まあ、伐採場のやつらと軍隊がやり合うことがなくてよかったな。それもこれも、このさかさまのグラダさまの采配が天才的だったおかげだ。報告、連絡、相談を怠らなかっただけだがな。まあ、これからだ、これから! 自分に合ったことをやっていけ。おれが全力で支えるからな! 諸君、安心しろ、さかさまのグラダさまは引退したが、天才ダラグさまの帰還だ!」

 大丈夫だ、大丈夫だ。ダラグ・ナパーノが軽い調子でそう言ったから、ジン・タオモも顔を上げて、控えめに微笑んだ。


「息災か、ゴラン」

「この間会ったばかりじゃないですか、カストーノ」

「わからんぞマローノ、また居眠りをして砂漠に放り出されているかもしれんからな」

「……それって、ちょうど今みたいな状況ですよね?」

 第一王子と第二王子が、揃って軽口を叩きながら、ヴェンゼの先導でテモネーロ邸の庭に来た時、ゴラン・ゴゾールは、ラモ翁と一緒に、のんびりと午睡を楽しんでいた。

 柔らかな光が降り注ぐ、季節は秋だ。テモネーロ邸の庭には大きな樹木が一本根付いていて、その下にテーブルと椅子を幾つも置き、客人に癒しとくつろぎの空間を構築している。

 リタはテモネーロ邸の厨房を借りて、何やら料理の指揮を執っているらしい。すぐ近くのテーブルではネーロ・ヴォプロが書き物をしていたが、最高権力を有している貴人の登場に、背筋を伸ばして立ち上がり、美しい礼をしてみせた。

「第一王子マローノ殿下並びに第二王子カストーノ殿下に置かれましては、この麗らかな午後に――」

「いい、堅苦しいのはいい――元気そうで何よりだ、ヴォプロ先生」

「研究は順調ですか、ヴォプロ先生?」

 二人の王子はそんなことを言いながら、思い思いの席に掛けた。ヴェンゼが飲み物を取りに行き、ラモ翁は目を覚まして、そこからふわりと雑談が始まっていく。

 第一王子マローノは、アルタン族との交易が開始された際の会談で締結された条約で、ノージャの街に婿として迎え入れられることになった。燭台の谷から程近いそこを拠点として、ジョルマ・フォーツは不毛の大地を超え、砂漠の向こうへの足掛かりを得ることとなる。砂漠に点在するアルタン族は、王国という後ろ盾を得て、巫を守護する新たな力を手に入れることとなった。

 程なくして、リタが大皿を持って、姿を見せた。

「お待たせしたわね、皆さん。チーズの盛り合わせを用意したわよ。どこにも飛んでいかないから、急がなくてもいいわ」

 彼女はテーブルの上に大皿を置いて、ゴラン・ゴゾールのすぐ隣の椅子に座った。

 最近、大商人ツコの凛とした美しい一人娘が、王宮勤めの近衛騎士に夢中らしい、という事柄が、市井の人々の間で盛んに話題になっている。彼女の親である大商人を救い、隠者の森の木を守って沢山の命を救ったという件の近衛騎士は、商人の娘に言い寄られて満更でもないらしい、というのが、かつて貧民街であった王都の新区画において、特に噂されていた。伯爵家と商人である。身分の差は大きく開いているが、このふたりが結ばれることを願う民はとても多かった。

 羊の乳から精製されたチーズは、濃厚で、美味い。

 ゴラン・ゴゾールは呟いた。

「平和だな」

「ああ、平和だ」

 カストーノが、同じように呟いた。薄青の瞳が、ゴラン・ゴゾールに向かって、優しく細められる。

 第二王子が立太子の儀に臨むのはこの冬、もう間もなく。そして、新国王となる即位の儀は、次の春だ。

 ゴラン・ゴゾールは、引き続き近衛騎士として、この国の玉座の傍に、留まる。

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避けるチーズと贖罪の騎士 久遠マリ @barkies

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