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「……おお、あの時におぬしに進呈した」

 しんと静まり返った中で、ラモ翁が呟いたのが聞こえた。

 糞丸虫宰相が掌の上で抗議している気配を察知しながら、ゴラン・ゴゾールは栓を抜いて、言った。

「大丈夫だ、宰相どの、安心してくれ。宰相どのを更に強くする薬があるんだ。アルタン族の守護者たるレッツァ氏族のラモ翁からいただいた、大切な薬なんだ。今までとっておいてよかった」

 マローノの顔が、盛大に引き攣ったのが、見えた。

 ゴラン・ゴゾールは、糞丸虫宰相の真上で、小瓶をひっくり返した。

 とろりと一滴、薬は瓶の内側を伝って、落ちていく。大量の水と共に摂取した人間ですら腹を下す劇薬だ、虫にとってはいかほどのものだろうか。そう思って、ゴラン・ゴゾールは、ぽとん、と頭に落ちた一滴を、すぐさま指でさっと拭ってやった。

 程なくして、糞丸虫宰相の尻から、ぷりっと白い塊が出た。

 塊は、宰相の首から下がっていた小瓶に入っていた伝説のチーズと同じくらいの大きさをしていた。それは、ゴラン・ゴゾールの手の上に落ちる間もなく、あっという間に宙を舞って、光の渦の中に吸い込まれていった。

「レミ、ルパ」

 名を呼ぶと、レミとルパが、ぶるりと震えて、ゴラン・ゴゾールの方を向いた。ジン・タオモの表情が驚きと歓喜で揺れている。人の親らしい顔をするなあ、などと思えた。

「ゴラン、どうしたの? また大変なことなの?」

「ぼくら、何をしてたっけ? 何かあった? 宰相は?」

 双子の巫は口々にそんなことを言いながら駆け寄ってくる。ゴラン・ゴゾールは左手を差し出した。

「糞丸虫?」

「どこで見付けたの?」

「宰相どのだ。ここから声が聞こえたりはするか?」

 双子は揃って首を振った。掌の上であたふたしている糞丸虫宰相を撫でて、ゴラン・ゴゾールは笑った。

「なら、いい。伝説のチーズは渦の中に飛んでいったが、これでちゃんと、返したことになるか?」

「飛んでいったの、本当?」

「それなら大丈夫!」

 レミとルパは再び手と手を取り合って、にっこりした。

「ねえ、ゴラン、歌って! 今度こそ、ちゃんと返すよ!」

「最初に聞いたやつがいいな!」

「わかった、お安い御用さ」


 ――黄金の麦ひとつ

   摘んであなたの胸を飾りましょう

   黄金の麦ふたつ

   摘んであなたの足を飾りましょう

   黄金の麦みっつ

   編んであなたの冠を作りましょう――


 歌い始めたゴラン・ゴゾールの声に真っ先に重なってきたのは、はっきりとしたマローノの声。振り返れば、ふわりと微笑む玲瓏なかんばせ。次いで追従してきたのはリタだった。商人の娘であるのなら、王国のみならず様々な土地に赴いているだろうから、沢山の歌を知っていてもおかしくはないだろう。高く澄んだ声が美しい。最後についてきたのはカストーノだった。ヴェンゼは旋律を口ずさんでいる。故郷、ゴゾール領の者しか歌わないような収穫祭の歌を、皆が歌おうとしてくれていることが、嬉しかった。

 糞丸虫宰相は、ゴラン・ゴゾールの掌の上で、大人しく触角をぴくぴくと動かしている。


 ――大地の精霊王よ

   いずこにおはしますか

   黄金の麦たくさん

   摘んであなたに捧げましょう

   あなたがおらずとも

   私たちは強く

   強く生きております――


 レミが跳ぶと、ルパも跳ぶ。手を取り合ってくるりと回り、離れ、近付き、離した手を天に向かって突き上げ、微笑みあって、背中合わせになって、すうっと背筋を伸ばして、全てを解き放つように腕を拡げる。


 ――黄金の麦ひとつ

   摘んであなたの胸を飾りましょう

   黄金の麦ふたつ

   摘んであなたの足を飾りましょう

   黄金の麦みっつ

   編んであなたの冠を作りましょう――


 渦を巻く光が、一段と強い輝きを放つ。暁光の中、二つ目の太陽となりかけていたそれは徐々に収束していき、穴と共に、跡形もなく消えた。

 一陣の風が吹いた。

 瞬きの間に、大地が色を濃く変えていく。いったいどういった仕組みなのかはわからないが、みるみるうちに砂の組成が変わっていく。生まれるのは影ではなく、水を孕んだ土。その合間から、ぴょこりと生えるのは芽。それはまるで若者のように、新しい朝を迎えた世界に向かって、どんどんと背伸びをして、大きく大きく育とうとする、美しい緑。

「……消えた街の復興じゃ」

 ラモ翁が呟いた。緑地が生まれ、急速に拡がっていく。と、砂長竜がそっとその上へ這って行き、養分になるようにとでも思ったのだろうか、尾の方から物凄い音を立てて、大量の糞を放出した。

 辺りに充満するのは肉を喰らう生き物の排出物特有の、凄まじい臭気である。皆が呻き声を漏らした。

 ゴラン・ゴゾールは、己が左手の上に何を持っているのか、ふと気付いた。

「……腹が減っていないか、糞丸虫宰相どの?」

 そのまま、尚も拡大を続ける緑の大地に足を踏み入れた。下草が地面と糞を覆い尽くしていく中、ゴラン・ゴゾールは、糞の近くに左手を下ろし、傾け、糞丸虫宰相を放してやった。甲虫は糞の匂いを嗅ぎ当て、ナイフのようになっている部分でぷんぷん臭うそれを切り取り、前脚で糞を継ぎ足しながら、後脚で器用に丸めていく。それは一種の芸術だった。

 そうして、太陽のように真ん丸になった糞を、糞丸虫宰相は後脚で転がし始めた。

「……達者で暮らせよ」

 ゴラン・ゴゾールがそう呟いた時だ。

 緑地の向こうから、別の糞丸虫がやってきたのだ。新鮮な糞を求めてやってきたであろうその個体はしかし、大量の糞には目もくれずに、ころころと転がされていく黒い球体の方に気を取られているようだった。

「雌だね」

「雌だ」

 レミとルパが言った。

 今や、ゴラン・ゴゾールだけでなく、皆がその行方を見守っていた。

 雌は、糞丸虫宰相に近付いていく。そうして、必死で転がしている球体を熱心に観察し、その上に乗った。

「……番いが成立しましたね」

「そのようだ」

 マローノとカストーノが、揃って呆然と呟くのが聞こえた。

 その糞玉が、叢の影に転がっていくのを全員でそっと追い、ぷんぷん臭う糞玉が埋められるのを眺め、それから、愛の交歓を観察した。全てが終わると、雌はそこにそっと卵を産み付けた。

 見守っていた全員が、ほう、と、息を吐いた。これで、次代に命は受け継がれていくのだ。

 と、近くで、どさり、と何かが落ちる音が聞こえて、皆、顔を上げた。

「何だ?」

 ゴラン・ゴゾールは、振り返った。

 叢の近くに、宰相ネーロ・ヴォプロが這いつくばっていて、夢から覚めたばかりのような、呆けた顔をしていた。いけ好かない緋色の服は乱れ、帽子はずれている。

 何より、全身が、砂長竜の糞で汚れていた。

「夢……まぼろし……?」

 呆然と呟いた宰相が、皆の顔を見てその場に崩れ落ちるまで、そう時間は掛からなかった。

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