理性の眠りは怪物を生む 

 かれこれもう二時間ばかり、映画を再生するでもなく、動画配信サービスのラインナップをスクロールしている。

 吉見はベッドにうつ伏せになり、テレビ画面に顔だけ向けて、右手でリモコンの操作をしている。人が一生を費やしたとしても見切れないほどの作品数があるというのに、どれだけスクロールしようとも、観たいと思える動画にありつくことができず、サムネイルが上滑りしていく。

 いつもであれば、フィクションの世界が夢を見させてくれ、くだらない現実を束の間忘れさせてくれる。しかし今日のところは、厳然たるリアリティが立ち塞がって、夢の世界への逃避が叶わずにいる。かつて吉見に影響を与え、楽しませた作品の数々も今の気分の前には無力で、色褪せて見える。

 神経が高ぶってしょうがない。何度か目をつむって、眠ろうともしてみた。しかしその度に、用水路に浮かんだ小さい靴の片方であるとか、縦横に轍の走った衣服であるとか、男女の判別がつかない焼死体であるとか、人のシルエットが残るカーペットであるとか、赤く染まった白いワイシャツ。そういったのがまぶたの裏にありありと、まるで昨日のことのように映し出されて、かえって落ち着かなかった。

 寝返りを打ったり、枕をひっくり返したりするがしっくりこない。どうにもそわそわする。身体に纏わりつく毛布の温もりに、急に嫌気が差し、雑に払いのける。なにか変化を与えなければ、と思い、立ち上がった。

 テレビを消し、リモコンをベッドに投げ捨てる。外に出て、陽に身体を晒したら、この憂鬱な気分も少しは晴れるかもしれない。そんな淡い期待とケータイをポケットに突っ込んで、靴を履いた。


 交差点の信号の色が変わり、老若男女が横断歩道を渡りはじめる。吉見は、向かってくる人混みに構わず真っ直ぐ進む。わざわざ半身にならずとも、向こうが勝手に避けてくれる。たとえ肩がぶつかろうとも、向こうが勝手によろけてくれる。背後でなにか喚き立てているが、だからどうしたと言うのか。吉見は、後ろを振り返らない。

 どこをどう歩いてここまで来たのか、ほとんど夢遊病かと思えるほど無自覚に、気がついたら繁華街の只中にいた。パーソナルスペースが無遠慮に侵される雑踏は不快だった。漂ってくる甘ったるい香水の臭い、吐き気がする。

 隙間なく立ち並ぶ店は全て、自分とはまったく関係のないところで営まれており、街中至るところに貼り出された広告は、どれもこれも用のないものばかり。目に映るなにもかもが無意味だった。ショーウィンドウに自分自身が映り込む。感情の通わない死んだ魚の目をしている。石でも投げつけてやりたいと思った。しかし、道端には石どころかゴミ一つ落ちていない。日頃の美化運動の賜物か。それにしても、高層ビル群に取り囲まれているのが気に入らない。指先で弾いて、ドミノのように片っ端から倒せたなら、幾らかすっきりするというのに。

 すれ違う人々から発せられる体温が、ひたすらに鬱陶しい。口々に発せられる雑音が、どうしようもなく疎ましい。吉見はその場で足を止め、立ち尽くす。身の置きどころなど、はじめっからどこにもなかったのだと、今更ながら気がついた。

 狭っ苦しい空を仰いで思う。

 どれだけ人を殺して回れば、この憂さは晴れるのだろう。

 ポケットの中のそれをきつく握り締める。街中から発せられるあらゆる喧騒が遠ざかっていく。静かになった。


 突如として、それが震え出した。

 ポケットから取り出してみると、上原からの着信だった。気持ちは無視する方向に傾いていたものの、意に反して親指は通話ボタンを押していた。

「はい」

「おい、お前今、暇か?」

「……暇と言えば暇ですし、暇じゃないと言えば暇ではないです」

「よし、暇だな。昼飯奢ってやるから、ちょっと付き合え」

 待っているからな。と言われ、電話が切れた。

 指定された場所は、今いるところから歩いていけるほどの距離の、わりと近いところにあった。


「早かったな」

「近くをぶらついていたもんでして」

 呼び出されて出向いた先は、小洒落たスペイン料理屋だった。

「なんでまた」

 上原は、吉見が来るのを待たずして先に食べていた。エビの殻を剥くのに少し手間取っている。

「前々からこの店、気になっていてな。お前も好きなものを頼んでいいぞ」

「それじゃあ、ワインなんて頼んでも?」

「好きにしろ」

 お言葉に甘えて、遠慮なく好き勝手にあれこれ注文する。

「ところで俺が電話した時、なにをしていたんだ? 買い物か?」

「特別なにをしていたというわけでもないんですが」

「それなら、誘った甲斐があったというものだ」

「タダ飯にもありつけますし」

 ハムやらチーズやらが刺さったピンチョスをつまみに、ワインを口にする。上原にもグラスを勧めたが、仕事の合間だからと断られた。次々と運ばれてくる料理を吉見は、黙々と食べ進めていく。料理はどれもおいしい。上原が目を付けるだけのことはある。しかし、二人の間に会話はない。それが少々気詰まりだったりする。

 黄色い飯を米一粒残さず平らげて、一足先にコーヒータイムに入った上原が、話を切り出した。「俺なんかはさ、おいしいもの食べて腹が満たされたら、それで十分満足できるタイプなのよね」

「のようですね」上原の出た腹を見ての率直な感想。

「だけど、それだけでは気が済まないというのも中にはいて、そうなると俺にはもう、よくわからん。食に興味がない人間とか、相容れない感じがする」

「食べられることに、さほど有り難みを感じていないからじゃないですか? あまりにも当たり前のように食べられるから、飢えを知らない」

「食から離れた欲には際限がないから、ということはつまり、足るを知らないわけだ」

 どの口が言う。と、吉見は心の中で思う。

「にしても、目的を見失って空回っているだけのような気がしなくもない。傍から見ている限りではな」

「で、満たされない思いを募らせる」

「そうねぇ」

 上原はコーヒーが苦かったのか、ミルクを足した。吉見は吉見で、レモンを絞り、パエリアの味に変化をつける。

「持て余したエネルギーはさ、無闇に発散させるんじゃなくて、発電にでも活用したらいいんじゃないかと思うわけよ」

「さっきから、なんの話です?」

「ここだけの話。エネルギーはあっても、持って行き場がないものだから、ああいうおかしなことをやらかす。発電でなくとも、せめて行為には移さず、表現に留めて置きさえすれば、それくらいの自由は許されている」

 要は、行き場を失ったエネルギーが人を犯罪に向かわせる。というようなことを上原は言っている。たしかにここだけの話だと、吉見は思う。食事中に、ほかの客もいる中で事件の話などふさわしくない。

「エネルギーがうまい具合に働いて、なんらかの形で実を結ぶこともあれば、自分からその芽を摘んでしまうこともある」

「そういうこった。しかし、なにをするにしても現状を変えるのに、作るよりも壊す方が手っ取り早い、というのはあるわなぁ」

「…………」

「はてさて、この案件。どこに着地するのやら……」

 二人して、話の接穂を失う。

 吉見は、近くを通りかかったウェイトレスに皿を下げてもらい、コーヒーと食後のデザートを持ってきてもらうよう頼む。

「それ食べたら、出るとしようか」


「ごちそうさまでした」

「悪かったな 急に呼び出したりして」 

「いえ、おいしい思いができましたので」

「たまにはいいだろ、こういう日があっても」

「そうですね」

「じゃあ俺は、仕事に戻らにゃならんから」

 そう言って上原は、吉見に背を向けた。

 丸まった背中が頼りなく見える。なにか声をかけなければ、と思うが、適当な言葉が見つからない。言葉を探せば探すほど後ろ姿が小さくなっていく。

 ようやく見つけた頃にはもう、姿が見えなくなっていた。吉見は、上原とは反対方向に歩き出した。


 部屋は静寂に包まれている。静かすぎて逆に、耳鳴りがするくらい。

 パイプベッドの縁に腰掛けて、傍らにあったリモコンの電源を押す。ザッピングしてみて、どのチャンネルもカラーバーを映していた。耳鳴りと同じ周波数で、いつまでも試験電波を発射している。

 右手にはバスルームがあって、小さい冷蔵庫がテレビ台の下にある。しゃがんで意味もなく開けたりする。生きていくだけであれば、なに不自由しない。ワンルームで事足りる。それなのに、置かれたこの状況に不満を抱いてしまうのは、自分自身に対して物足りなさを感じているから。

 銀色のドアノブを捻ると、薄暗く殺風景な廊下に出た。

 端が見えないくらい遠くまで廊下が伸びている。リノリウムの床を裸足でぺたぺた歩く。歩いても歩いても延々と変わらない景色に、だんだん心細くなってくる。自分以外の息遣いを感じられないこの空間にあって、これ以上ないくらいの孤独感に苛まれる。

 しばらく歩いていたら、調理室があった。ドアを開けてみると、室内は銀一色だった。シンクはもちろんのこと、作業台、鍋にフライパン、上から吊り下がったお玉までもがステンレス製。無造作に置かれたプラスチック製のピーラー、その持ち手だけが唯一黄色かった。

 さらでだに細身の身をさらに細らせるほどの寂しさを紛らわしたいそんな夜にシンデレラフィットするのが、自傷行為。黄色いピーラーを手に取り、生っ白い腕に刃を当てる。大根の皮を剥くくらいの気安さで、躊躇うことなく一気に引く。

 表皮が落ちる。露わになる赤裸。じっと見ていると、ぽつぽつと血の玉が滲み出てきた。なのに、痛くも痒くもなんともない。それは、二度三度と繰り返したところで同じことだった。

 赤くなった左腕をぶら下げて、調理室をあとにする。血が指先を伝って滴るものだから、振り返るとヘンゼルとグレーテルみたいに、床に血痕が点々と続いている。

 前方右手側の壁際、目線のやや上にほの白く浮かぶものがある。近づいてみると、ドアプレートだった。そこには診察室とあった。今の私の状態からして関係ありそうに思えたので、ドアの前に立ち、ノックする。

 入ってまぁす。くぐもった声がドアの内側から返ってきた。スライドドアを引いて部屋に入る。

 ちょっと待っててね。こちらに背を向けた彼は、用紙になにかを書き付けている。これでよしっ、と、ペン先を引っ込める。椅子を反転させながら、「いらっさいませぇ、今日はどうなさいましたぁ?」  

 白衣を着た医者の正体は亮だった。

 私は丸椅子に座って、腕を見せる。

「あーこれは痛いね」

「そうでもないんですけど」

「そんなことはないでしょ」

 手を引かれ、流しに連れて行かれる。水を弾く自分の左腕を他人の腕のように見つめる。痛みは私を素通りし、赤みがかった水が排水口に流れていく。

 水気を拭いて、手当てしてくれた。亮は、傷口大にカットしたドレッシング材を赤裸にあてがい、テープで固定し、その上から包帯を巻いていく。

「ま、こんなもんでしょ」

「お手数かけました」

「どういたしまして。それはそれとして、最近調子はどうです?」

「さっきから気になっていたんだけど、それ、その人形、どうしたの?」デスクの隅に、見覚えのある口をあんぐり開けたくるみ割り人形が突っ立っていた。

「記憶のゴミ捨て場に捨ててあったのを拾ってきた」

 なるほど、どおりで今の今まで忘れていたわけだ。

 亮は、人形に手を伸ばす。「あごがバカになっている。これは直せないや」

「昔お父さんが、お土産かなにかで貰ってきたんだと思う。それを私が壊しちゃった。くるみが家になかったから代わりにキャンディーを噛ませてみたんだけど、無理にやったもんであごの方が砕けた」

「くるみを割るところにアイデンティティを置いているのに、取り柄がそれしかないのに、それすらできないとなると、もう捨てられるしかないよね」

 亮の言う通り、いつかの燃えないゴミの日に出したはず。それなのに、まさかこんなところにあったとは。

「ところで、この人形の話をしに来た?」

「ううん。たまたまここにあったから。すっかり忘れていたし」

「思い出そうともしてなかったもんね」人形をもとあった場所に戻す。「ということは、なにかほかにあるわけだ。話したいことが」

「……どうも私の言葉には毒があるみたいでさ。私としては思ったことを言っていただけなのに、付き合いきれない、みたいな感じで仲間外れにされた。そういうことが何度かあったから、なにか思うことがあっても、口には出さずに飲み込んで」

 亮は、黙って耳を傾けている。

「でも、溜め込んでばかりだと自家中毒になって苦しいから、なにか別の方法を探して」

「それで絵を描くようになったと」

「そう。絵を描くようになって、そっちで吐き出してきた。だけどそれも、ここのところできずにいる。筆が手につかなくってさ。絵を描くしか能がないのに、それすらできないとなると、その人形みたいに捨てられるしかないよね」

 ははっ、と自嘲的に笑う。

 私たちは、黙り込む。

 ただでさえ静かなのに、喋らないでいると余計シーンとなる。  

 亮が、静寂を切り裂いた。「澪の言う毒って、なんなんだろうね」

「含みがあるというか、直接的でない形でしょうね。それとなくといったような」

「でも言われた側は、ちゃんと傷ついているんでしょ?」

「心当たりがあるからじゃない? 身に覚えはあるけれど、触れられたくなかったり、認めたくなかったりするところ。それなのに無遠慮に逆撫でてくるものだから、ムカつく」

「拒否反応を示す」

「と、思う」

「にもかかわらず、毒と形容される作品が、時に魅力的に映るのはどうしてかな」

「それだけ本音に近いからじゃない? 建前で覆い隠してないことにして、それで事足れりとしてきたベールの裾を摘んでひらひらさせる。虚構の背後に見え隠れする作り手の本音を面白がっている節がある」

「なるほどね、だいたいわかりました。では、身体の方は解毒剤を出しておきます。あとは気持ちの問題ですね。一日二日でどうなるものでもないので、気長に自分と付き合っていくしかないです」椅子を反転させて、書き物をする。「とりあえず一週間分、一日一回、夕食のあとに服用して下さい」

 処方箋を手渡される。

「お大事にどうぞ」

 立ち上がり、「お世話様です」お礼を言って、私はスライドドアを引く。


 夢うつつのいまいちはっきりしない境界線を、ぼんやりした頭で引き直す。

 紙切れを受け取ったはずだが、手の中にはなんにもない。目覚める際に、落としてしまったらしい。布団から腕を出す。包帯はなく、赤裸でもない、いつもの私の生っ白い腕だった。しばらく布団の中でぐずぐずして、意を決して起き上がる。

 ドアノブに手をかける。廊下に出ると、リビングの明かりが点いていた。

「あ、起きた?」ゲームをしている亮が、テレビ画面に向かって言う。

「ああ、うん。おはよう」

 ゲームを中断して、「全然おはようの時間じゃないけど。大丈夫?」

「なにが?」

「なにがって君、おそらく丸一日中寝ていたみたいだよ」

「えっと、ちょっといい?」亮の言葉がにわかに信じられなくて、テレビのチャンネルを替える。ニュース番組の左上に明後日の日付が表示されている。どうやら本当に昨日一日、夢の中で過ごしていたようだ。

「あのさ……夢で亮に会った」

「じゃあ、今もまだ夢の中かもしれないって?」立ち上がって、近づいてくる。「そういう時はさ、頬をつねってみると、夢と現実の区別が」

 そう言って、私の両頬をつまむ。タテタテヨコヨコ、私の頬は縦横に引っ張られ、丸描いてチョン。されるがままだった。

「どう?」   

「……痛いよ」

 痛かった。

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