リフレイン 

 窓から漏れる明かりに誘われた昆虫が網戸に止まった。変に皺の寄った腹を爪弾きされて、ベランダに落ちる。トイザらスに行ったのにもかかわらず、おもちゃを買ってもらえなかった子どものように、床を背にして羽をばたつかせて、鳴き喚いている。なんとか体勢を立て直すことができたようで、耳障りな羽音を立てながら飛び回っている。そしてまた、性懲りもなく網戸に止まった。

 取れてしまったのか、元々ないのか、五本の脚を器用に扱い網戸をよじ登っていく。がしかし、爪弾きに遭う。止まっては弾かれ、弾かれては止まるその繰り返し。何度目かのデコピンを最後に、羽音は聞こえなくなった。

 というような夢を見た。なんだか妙に現実感のある夢で、起きてからもしばらくの間、羽音が耳をついて離れなかった。

 それにしてもここ最近、やたらと眠い。寝ても覚めても眠いのなんのって。朝起きて、ご飯を作って食べて、亮を見送って、洗濯物を干してからの二度寝。読書しようと思って本を開くのだけれど、ページをめくらないうちから睡魔に襲われる。この前なんか、映画を観に一人で出かけたのだけれど、ポップコーンとホットコーヒーを持ってシートに座って、館内が暗くなって、予告編の途中でまぶたが重くなってきて、気がついたらエンドロールが上昇していた。ポップコーンは倒れて座席に散らかり、コーヒーは、すっかり冷めていた。

 なにをするにも億劫で、もうなんか永遠にかったるかった。ソファに座ってぼんやりテレビを見ていたら、

「今お時間よろしいでしょうか?」と、亮が訊ねてきた。

 私は亮を見上げながら、「なんでしょう」

「何点も同じような、似たり寄ったりの絵をお描きになる方を時折お見かけしますが、あれというのは、一体どういったお気持ちで描いておられるのでしょうか? どこにモチベーションを置いていらっしゃるのか、気になった次第でありまして」

「わかったから、その言葉遣いやめてくれないかな? 気になる」

「そう言うならやめます」

「素直でよろしい。それで、なにを訊かれたんだっけ私?」

「もの作りにおいて、シリーズものってあるじゃない? 同じ対象を扱っていて、それをあっちから見たり、こっちから見たり、ちょっと趣向を変えたりするような。でも対象は変わっていないわけだから、やっていて、さすがに飽きるんじゃないかなって。人事ながらそう思った」

「それってさ、見る側の意見なんだよね。作り手にしてみれば一つ一つ全部違う作品。残念ながら、見る人にはそのこと、全然伝わっていないようだけど」

「申し訳なく思う気持ちは多少。だとすると、先入観だったりするのかな? 共通点があるということで物事をひとくくりにして見てしまうのは」

「う~ん、同じことを繰り返しているように見えるかもしれないけど、人の気分はその時々で変わるし、てことは、対象の見え方も変わってくるわけだし」

「昨日と今日とで違う人間だと」

「いやでも……ちょっと待って」リモコンに手を伸ばして、点けっぱなしになっていたテレビを消す。「違うような気がしてきた」

「なにが?」

「今念頭にあるのが、横尾さんのY字路なんだけど」

「サイケデリックな絵を描く人」

「そう。一口にY字路といっても、その上に載っかっている絵というのは、一つ一つ全然全部別物。写実的なものから、イラストっぽいものまで幅広く。どれだけの作品数があるのか、私は知らない」

「Y字路ねぇ。それって道路にイーゼル立てて描くのかしら?」

「それは普通に邪魔でしょ」

「ですよねぇ。轢かれちゃうし横尾さん」

「それでなくともY字路って、よく車が突っ込むらしいし」

「道路事情的にそうかもしれない」

「話を戻すよ。それで、なにが言いたかったのかっていうと、たぶんなんだけどシリーズって、単なる形式なんじゃないかな」

「それはつまり……どういうこと?」

「たとえばY字路ならY字路ってテーマを決めて、あとはそのテーマの可能性をどれだけ引き出せるか」

「テーマが持っている可能性」

「それでもって、可能性の分だけ作品がある」

「ははあ、なるほど。……ということは、むしろ似てるがゆえに」

「かえって違いが出る」

「そうなると飽きがくるのは、可能性が出尽くした時?」

「そしたらまた新しいテーマを探しはじめるんじゃないかな。横尾さんも、Y字路ばっかり描いているわけじゃないし」

 それはちょっと困るなぁ。亮は小さくぼやいた。「いや、なんでもない。こっちの話。どうもありがとう、参考になりました」

「それはなにより」

 立ち上がり、背を向けた亮に声をかける。「ねぇ、あのさ」

「ん?」

「私のアドバイスは、ちゃんと捜査のヒントになってる?」

「…………」

 前々から、おそらくそういうことなのではないかと思っていた。亮が訊いてくる質問のあれこれ、私はどこかそれを取り調べのようだと感じていた。取り調べられた経験なんてないから、一、一般人が抱くイメージとして。自分の持っている情報を明かさずにして、人から情報を引き出そうとする。そんなところが。

「そう考えたら辻褄が合う」

「もしそうだとしても、俺の方から話せることはなにもない」

「捜査に支障をきたす恐れがあるから、でしょう?」

「わかっているなら……」

「それで、いつになったら事件は解決するの?」

 地雷を踏んだ。

 爆発……はしなかった。それでも、わずかに亮の表情が動いたのを私は見逃さなかった。なにも言い返しはせずに私に背を向けて、廊下に繋がるドアを閉めて、ややあって玄関のドアの閉まる音が聞こえた。

 私はたぶんきっと、それと知りつつ踏んだ。どんな反応を示すのか、見てみたいと思う気持ちが多少なりともあった。憎まれ口一つで終わるくらいの関係なら、もうとっくに終わっている。だから、まだ大丈夫だという気がしている。

 座り込んだまましばらくぼんやりしていたが、そろそろなにかしなければという気持ちが起こり、とりあえず掃除をすることにした。

 部屋の片隅、キャンバスには描きかけの絵……ずいぶんほったらかしている。筆はすっかり絵の具が乾いてガビガビで、今更洗ったところで、もう使い物にならないかもしれない。手を付けずに、そっとしておく。

 本棚にはたきをかける。だいぶ冊数が増えてきたな、と思う。どれだけの時間を本を読むのに使ってきたことか。もっとほかのことにも時間を費やせばよかった、なんてことを思わないでもない。絵を描く時間も含めて、少し一人で居過ぎたのかもしれない。

 ふと、本の並びに隙間があるのを見つけた。頭の中の本棚と照らし合わせてみたところ、抜かれているのはカンディンスキーの画集だとわかった。それを知った私は、少しうれしくなった。


 例の喫煙所での一服を終えた吉見が、階段を降りると、階下から上がってきた皆川と鉢合わせになった。

「お疲れ」

「お疲れ様です。あの……」

「ん?」

 ポケットから煙草を取り出した。「これ、お預かりしていたものです。そのうち返さなきゃな、とは思っていたんですけれど、返しそびれているうちに、返すタイミングを見失っちゃってですね、で、そのうちが今になったというわけです」

 はい。と、手渡される。あれからずいぶん日にちが経っている。今更返ってきたところで、葉っぱが乾燥しきっているのは明らかだった。

「捨ててくれていいのに」

「そういうわけにはいきません。あと、今ちょっといいですか?」 

「ちょっとだけな」

「wantの訳ってわかります?」

「人の時間をなんだと思っている」

「あれ、欠如っていう意味もあるらしいです」

「それがどうした?」

「なにかを欲するということがありますが、そう思うのも、本来あるべきなにかが欠けているからなのではないかと」

「その話、長くなるか?」

「立ち話で済む話です。たとえばお腹が空いている時には、とりあえずなにかを口にしたいというのがあって」

「空腹は最高のスパイス的な」

「ええ、そんなところなんですが……でもだからといって、なんでもいいわけじゃないんです。おそらく器のようなものが空っぽで、その器の形にぴったり当てはまるものを求めているのではないかと」

 要領を得ない話に焦れてきた吉見は、この場を立ち去る隙を窺う。

「そのくせ、それがどんな形をしているのか自分でもよくわかっていなかったりするものだから、せっかく手に入れたとしても、本当に欲しいのはこれじゃなかった、なんていうこともよくあるんです」

 立ち去ろうとすると、皆川に素早く回りこまれた。

「もう、もう終わりますんで。その物足りないところに、これこそがそれだと思うようなものが、もしですよ? もしそういうものが見つかったとしたら、吉見さんだったらどうします?」

「それは……なんとかしたいとか、思うんじゃないか?」

「ですよね。そうなりますよね」

 ようやっと話が見えてきた。「なにか欲しいものでもあるのか?」

「そういうことです」

 ポケットから取り出した四つ折りの紙を押し付けられる。拡げてみると、破かれた雑誌の一ページだった。そこそこ値が張るそれを、赤ペンで丸している。  

「それじゃあ私の誕生日来月なので、それまでにお願いします」

「おい、ちょっと待て」

 皆川は言いたいことだけ言って、階段を駆け降りていった。

「はめられましたね」

 横合いから出てきた天野が、半笑いで楽しんでいる。死角で息を潜めて、聞き耳を立てていたらしい。

「……いるんだったら出てこいよ」

「邪魔しちゃ悪いと思ったので。それで、買ってあげるんですか? プレゼント」

「半分出せ」

「ほかの女性にものをあげたと彼女が知った日には、どうなることやら」

「知るかそんなこと」

「無視するというのも一つの手ですよ」

 そのような選択肢もあることを、吉見は失念していた。知らず知らずのうちに皆川のペースに巻き込まれていたようだ。

「なるほど、それもありだな」


 環状線のレールが東西に延びる高架下の通り道。

 空を遮られているために一日を通して薄暗いこの場所は、酔っぱらいの立ちションスポットらしく、いささか臭う。そんな場所にあって、通報者が潰れた酔っぱらいだと思わなかったのは、今までに嗅いだことのないような異臭がしたというのと、地面になにか、引きずった跡があることに気づいたからだそうだ。

 写真に写る被害者は、くたびれたテディベアのようにうなだれている。十数ヶ所刺されておきながら身体を引きずり、やっとのことで壁にもたれかかって、そこで力尽きたようだ。

「どこに連絡するつもりだったんですかね?」

 赤い手形のついたケータイが遺体の傍らに落ちていた。

「警察か家族か、それとも職場か友人か」いずれにしてもできなかったことが、通話記録を調べてみてわかった。

「抵抗したとはいえ、これまでどおり手掛かりはなしですか。さて……」

 天野がなにを思ったのか、被害者が最期に取ったとみられる行動をなぞりはじめた。襲われたと思しき場所から這いつくばって、壁に背中をつけ、写真の中の遺体と同じような格好で座り込んだ。

「もうちょっと右だな」写真と見比べて、天野の位置を正す。

「こんな感じですか?」

 天野は、くたびれたテディベアのようにうなだれている。ぴったり被害者の近影と重なり、実際と比べてみても遜色がない。

「ああ、そんな感じ。……感想は?」

 首を持ち上げて、「最悪ですね。服は汚れるし、尻もなんだか湿っぽいし」

「それくらいなら、やらなくてもわかったけどな」

「被害者と同じ目線に立ったところで、なにもわかりはしないんだということがわかりました」

「犯人は、どこまで見ていたのかな」

 手を差し出して、天野を引っ張り上げる。

「被害者の足掻く様を」天野は服についた砂埃を払う。

「やるだけやってすぐに立ち去ったのか、それとも事切れるまで見守っていたのか」

「どうなんでしょう」

 吉見は、煙草をくわえる。煙草の先にライターを持っていくが、火は点けない。ふと、壁の落書きが目に留まった。

「高架下って、グラフィティ描かれがちだよな」

 スペルが独特な立体感を持って描かれている。テレビ番組ならピー音で規制されるような卑猥な単語。

「人目に付きにくいですからね」

 とりわけ人通りの少ない夜間は、周囲を気にせずお絵描きに専念できる。

「捕まえてもまた出てくる、消してもまた描かれるというイタチごっこ」

「捕まえようとすれば捕まえられないこともないでしょうが、落書き程度で四六時中見張ってるわけにもいかないですし、彼らも彼らで、見つからないことをモットーとしている」

 以前にも同じようなやりとりを、天野とした覚えがある。

 これまでに何度となく、同じような現場で同じような遺体を見てきた。犯人を捕まえない限り、これから先も見続けることになるのは、目に見えている。果たして、事件が解決する日はくるのだろうか。捜査の線はなに一つ犯人に結びつかず、解けっぱなしのままだというのに。

「——さん」

 一体、なにをしているんだろう。たとえこの事件、解決することがあったとしても、また別の、次の事件が発生する。毎度毎度のルーティンワーク。穴の空いたバケツに水を注ぐにも似た、永遠に満たされることのない空しい行為。そこになんの意味があるというのか。

「吉見さん」

「ん? ああ。火、点けるのを忘れていたな」

「大丈夫ですか? 今完全に電源が切れていましたよ」

「……なあ」

「はい」

「この光景、前にも見たことあるような気がするんだが」

「デジャヴですか?」

「かもしれない」

「そう感じてしまうのも、無理はないかと」

「マジか」

「犯行の手口が一緒で、現場もこれまでの現場とよく似た状況。違うのは被害者くらいなので、既視感を覚えるには十分じゃないでしょうか」

「そうか」

「都市圏にあって人気がない場所というのも、そうあるわけではないので、どうしてもワンパターン化するんでしょうね」

「繰り返し、か」

「ひょっとしたら、無限ループの真っ只中にいるのかもしれませんよ。僕ら」

「面白くもない冗談だ」

「しかし、日常というのは、本来そういうものなのではないかと。他愛のない日々の繰り返しで、同じような明日を、わかりきった未来を肯定する。ニーチェの言う永劫回帰って、そういった考えじゃなかったでしたっけ?」

 天野も天野で、おかしな思考回路に入り込んでしまっているらしい。「なら、そこから抜け出すには?」

「そうですね……」

 微かな地鳴りを足元に感じる。天野は低い天井を見上げて、電車が通り過ぎるのを待つ。ほどなくして走り込んできた轟音が全身を貫く。過ぎ去ったあとの静けさに、しばし耳鳴りがする。

「完全には人のこと、理解するのは無理だとしても、少しでもわかろうという気がなければ、コミュニケーションの路は断たれたまんまじゃないかと」

 僕なんかは思いますけどね。と、天野は言う。

「じゃあなにか? 犯人の思考を理解しろとでも? 内面はおろか、どんな顔をしているのかもわからないというのに」

「簡単に言えば」

「どうやって?」

「たとえば吉見さんだったら、どんな人間を殺したいと思います?」

 天野の言葉に絶句する。

「極端に言えばそういうことです」

「…………」

「犯人と僕らとできっと、目の付け所が違うんですよ。殺せる人間かそうでないかで人を見ている。そんな相手の立場に立ってみないと、見えてこない景色もあるはず」

「殺人を犯すような人間がなにを見、なにを考えているのか」

「それだけ犯人の主観と僕たちの主観というのは、ズレているんですね」

「犯人の都合というのも考えてやって、こっちから歩み寄ってやらにゃならんのか」

「ええ、です」

 相手を対象として扱っている限り、どうしても隔たりが生じる。深い溝を挟んであちらとこちらで対立していては、いつまで経っても平行線のまま。あちら側の視点を獲得するためには、その懸隔を飛び越えなければならない。天野はそう言っている。

「どうしたもんかなぁ」

 微かな地鳴りを足元に感じる。天野は低い天井を見上げて、電車が通り過ぎるのを待つ。ほどなくして走り込んできた轟音が全身を貫く。過ぎ去ったあとの静けさに、しばし耳鳴りがする。

「にしてもここ、会話をするのに不向きな場所ですね」

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