[9]

 8時ごろ。ユジノサハリンスク空軍基地の将校用食堂は朝食を摂る将官たちで賑わっていた。その一角で、4人の大尉が雑談に花を咲かせていた。休暇でモスクワに行った時の土産話を披露する大男―セルゲイ・マリノフスキーの声に周囲の大尉が素知らぬ顔で耳を傾けている。

「それで、俺は言ってやったのよ。てめえ、女だったらそんな大口叩く前に、股開けって。そしてらそいつ、ほんとに脱ぎやがんの。たまらねえよ、俺は・・・」

 マリノフスキーは不意に言葉を切って、いきなり立ち上がった。他の3人も寸分の遅れもなく立ち上がり、直立不動の姿勢を取る。粗末な木製テーブルのすぐ側に背の高い男―ヴァディム・ミーニンが立っていた。少佐の階級章を付けている。体格こそ周囲から《熊》と呼ばれるほどの巨漢であるマリノフスキーの半分しかないが、身長はわずかに上回っている。

「おはよう。諸君」

 ミーニンは基地で教育担当士官を務めている。ヘリコプターの操縦資格を持っているという話だが、実際に操縦している姿を誰も見たことが無い。何かと「基地の秩序を保つ」というのが口癖で、つまらない事由でネチネチと部下を締め上げるので評判はすこぶる悪い。

「朝っぱらから楽しそうだな」

 ミーニンはグレーの作業服を着た男に眼を留めた。

「見かけない顔があると思ったら、整備小隊長のコマロフ大尉か」

 ボリス・コマロフはマリノフスキーたちが所属する第202戦術戦闘機飛行隊と一緒に分遣された整備小隊を率いている。マリノフスキーは前を向いたまま言った。

「将校であれば、どのテーブルで食事を摂るのも自由なはずですが」

「もちろん構わないさ」

 ミーニンはニヤニヤしながら言葉を継いだ。

「ただちょっと部屋が油臭いんで、様子を見に来たんだ」

 マリノフスキーは右手で拳をギュッと握る。コマロフはその手をそっと押さえた。

「食事中はどうも鼻に衝くからね。特に、オイルの臭いは」

「オイル臭いとは、どういう意味ですか?」

 コマロフは額の生え際まで赤く染めながら訊ねた。声がかすかに震えている。

「ほう?」

 ミーニンは眼を細めた。顎の先端を右手でしごくように撫でた。じっとりとした視線をコマロフから3人の戦闘機パイロットたちに移して低い声で話し始めた。

「たしかに、この食堂のどこで誰が食事しようと勝手だ。その誰かが将校ならの話だが」

「コマロフ大尉も我が空軍の立派な将校であります」

 小柄で痩せたロディオン・ラスキンが口を開いた。

「しかし、教育担当士官として、私はこの基地の秩序を保たなければならない」

 ミーニンは唇を捻じ曲げる。笑みというには凄味のある表情だった。4人は溜めていた息を控えめに吐いた。ミーニンはゲオルギー・ユーシチェンコに視線を向けた。

「君は我が空軍の優秀なパイロットだ。違うか?」

「はい」

 ユーシチェンコは背筋を伸ばした。大きな声で復唱する。朴訥な外見とのろい喋り方が中世からよみがえった農夫を想像させる大男だった。

「私はロシア空軍の優秀な戦闘機パイロットであります」

 ラスキンが小さく噴き出した。ヘリコプターのパイロットだったミーニンに対する嫌味だった。ミーニンはさっと振り返る。ラスキンは表情を消していた。ミーニンはラスキンとユーシチェンコを交互に眺めた後、うなづいた。

「いいだろう。君たちは君たちの任務を全うするなら、私に文句はない。私も私の任務を完遂するだけだ」

「我々のどこが間違ってるとおっしゃるのですか」マリノフスキーは言った。

 ミーニンは戦闘機パイロットたちに笑ってみせた。

「分からないのか?」

「分かりませんねえ」

 マリノフスキーは肩をすくめる。ラスキンはミーニンの声が聞き取りにくいと言わんばかりに左耳を小指でほじり出した。ミーニンはコマロフのトレイにさっと手を伸ばし、リンゴを掴み上げた。

「このリンゴだ。このリンゴが問題なんだ。些細なことだがね。諸君、君たちが戦闘機パイロットであるように、私は教育担当士官なんだよ」

 大尉たちは胸中でうんざりとする。朝食に付いているリンゴはパイロットだけに配分される加給食だった。だがパイロット全員が必ず食べるものではないため、どうしても余りが出る。将校用食堂では、誰が食べても良いことになっていた。しかし、それはパイロットとそれ以外の将校の席割りが決まっているのと同様、暗黙の不文律である。規則としてはミーニンの言うことは正しい。ミーニンは穏やかに言った。

「別の基地から来た君たちが憎くてこんなことをやってるわけではないんだ。この基地の秩序を維持するために、仕方なくやってることでね」

 ミーニンはリンゴを床に落とした。コマロフは息を呑む。ミーニンは大尉たちの顔を見ながら、ブーツの踵をリンゴが落ちた辺りに叩きつける。踵が固い床を打った。ミーニンは思わず足許を見た。

 リンゴは無かった。

「私の行為が軽率だった。お詫びするよ、教育担当士官」

 ミーニンは顔にギョッとした表情を浮かべて背後を振り返る。第202戦術戦闘飛行隊隊長―アンドレイ・リュビモフがリンゴを手にして立っている。

「朝はあまり食欲が無くてね。それで、加給食はコマロフ大尉に譲ることにしてたんだ。要らぬ誤解を招いて申し訳ない」

 ミーニンはリュビモフが左手に持つトレイを一瞥した。パンが一切れ、スクランブルエッグがほんの少し載っているだけだった。コマロフはアパートで一緒に暮らしている妹が太るのを嫌うから、食事を節制しているという話を思い出した。リュビモフはリンゴを胸の辺りに擦りつけていた。ミーニンが視線を上げるのと同時に、リンゴを放り投げる。

 ミーニンは思わず避けた。リンゴはミーニンの鼻先をかすめて飛び、慌てて両手を挙げたコマロフの手にすっぽりと収まった。

「中佐」ミーニンは気色ばむ。

 リュビモフは黙って相手を見た。白い顔に水色の瞳が浮かんでいる。表情は無かった。気圧されたミーニンは言葉が喉に詰まるのを感じた。

「私としては、基地の秩序を―」

 ミーニンはようやく言葉を押し出した。額から噴き出した汗がこめから頬に流れ落ちる。リュビモフは完全に表情を消している。ミーニンの背後でマリノフスキー、ラスキン、ユーシチェンコがニヤニヤしている。

「とんだ誤解をいたしまして、大変失礼しました」

 ミーニンは顔を伏せて足早に去って行った。リュビモフはテーブルの指定席に腰を下ろした。四人の大尉も席に着いた。マリノフスキーが口を開きかける。

「いやあ、隊長。ありが―」

 リュビモフは眼だけで相手を睨みつける。マリノフスキーは息を呑んだように絶句した。

「つまらないことをさせるな」

 大尉たちは足許に眼を向けた。リュビモフはコマロフに視線を投げる。

「燃料の手配は済んでるな?」

 コマロフは押し殺した声で答える。

「はい、隊長」

「ご苦労」

 リュビモフは3人の戦闘機パイロットを見渡してから付け加えた。

「ルビコン作戦の実行時間が繰り上がった。さっさと食事を終わらせろ」

 大尉たちは一瞬で口許を引き締めてからうなづいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る