[8]

 2月21日。

 はるか彼方にうっすらと茶色い山並み―ススナイ山脈が見える。眼の前に広がる大地に4000メートル級の滑走路が2本、敷かれていた。80度で交差した滑走路を風向きによって使い分けている。

 滑走路の南側に兵舎と格納庫が建っていた。格納庫は全部で8棟。かまぼこ型の屋根は1メートル近い厚みのあるコンクリート製で掩体になっている。

《スホーイなら2機入るぐらいだな》

 ジルの後部座席から格納庫を一瞥したエゴロフはそんなことを思った。

 格納庫は2棟ずつ並べて造られており、中心が四角い建物につながっている。緊急発進に備えるパイロットや整備兵の待機所だろう。格納庫と待機所の上は土盛りがしてある。滑走路に続くタクシーウェイは赤土に似た迷彩塗装が施されていた。上空から見ても、4つの小山が並んでいるようにしか見えないだろう。アメリカの偵察衛星から擬装するための措置だろうが、効果はいかほどのものか。エゴロフは想像できなかった。

 エゴロフとアルマンを乗せたジルが兵舎の玄関前で停まる。2人は衛兵に案内され、応接室とおぼしき一室に通された。木造2階建ての兵舎は粗末な造りで、板張りの床に足音が虚ろに響いた。

 2人は古びたソファに腰を下ろした。しばらくして、黒いベストを着たウェイターが応接室に戻って来た。

「お二方の朝食になります。《キキモラ》様からです」

 紅茶と黒パン、バターをテーブルに出して給仕を始める。エゴロフは紅茶だけ頼んだ。食欲があまり無かった。アルマンは1斤ほどの分量がある黒パンをぺろりと平らげた。指に付いたバターを舐めながら、悠然と構えるアルマンをエゴロフは苦笑交じりに見やる。この基地に到着する直前、アルマンはジルの車内でエゴロフにこう忠告した。

『態度や口の利き方は気を付けろ。あの方は本作戦のスポンサーでもあるんだから』

『どういう人物なんだ?』

 アルマンは質問に答えなかった。

『相手から聞かれたことは、何でも正直に答えろ。いいな』

 約1時間後、再び応接室のドアを開いた。2人はソファから立ち上がった。部屋にスーツ姿の若い男が入って来る。

「お二方、ようこそいらっしゃいました。私が《キキモラ》です」

《キキモラ》は自信たっぷりな様子で言ってから、2人と向かい合う格好でソファに腰を下ろした。ドアの側にレスラーまがいの屈強な男が黒スーツ姿で立っている。《キキモラ》の護衛だろう。テーブルを一瞥した後、《キキモラ》はボディガードに英語で何か命じる。ボディガードは黙って部屋を出て行った。

「長旅でお疲れでしょう。簡単なお食事を用意しました。いかがでしたか」

 会合場所はサハリン島、サハリン州ドリンスクのロシア空軍基地だった。東京から関西国際空港に向かい、プライベートジェットでサハリン島の玄関口であるユジノサハリンスク空港まで飛んだ。空港から年代物のリムジンに揺られ、今朝ようやくドリンスク空軍基地に到着した。輸送手段は全て《キキモラ》が手はずを整えていた。

「まずは、急にお呼び立てする結果になったことをお詫びしなくては」

《キキモラ》は2人に軽く頭を下げた。

「何しろ予定が変わりましたので」

「とんでもありません」

 アルマンは顔の前で手を振る。《キキモラ》は穏やかな微笑みを口許に浮かべながらアルマンに尋ねる。

「それで、問題の《シェル》は?」

「航空自衛隊がアメリカに空輸する手はずを整えている。すでに、千歳基地で政府専用機に搭載されたようだ。形式はB777-300ER。明日、1130に千歳を離陸。目的地はテキサス州ランドルフ戦略空軍基地。12時間の飛行を予定してる」

「無論、《シェル》はアメリカにたどり着きません。我々が再び取り戻すからです」

 綺麗な顔立ちをしている。

 エゴロフは眼の前に座っている《キキモラ》の顔を一瞥してそう思った。やや面長で真っすぐに鼻筋が通り、柔らかい曲線で描かれた顎が尖っている。高級ブランドのスーツに包んだ長身にすんなりと伸びた手足。柔らかそうな黒髪。黒く澄んだ瞳は大きい。もし自分が女だったらメロメロになっていただろう。エゴロフはそんなことを考えた。

「ぼくの顔に何かついてますか?」

 エゴロフは我に返る。

「いえ、ヤネセヴォに保管されてたファイルの顔写真とは似ても似つかないので」

《キキモラ》はうなづいた。

「ああ、おそらく貴方が見た写真は父の顔でしょう」

 エゴロフが眼にした《キキモラ》ことミハイル・シドレンコは空軍中将の制服に身を固めた五十絡みの中年男だった。色付き眼鏡をかけ、口許に白髪交じりの髭を生やした風貌はどれをとっても眼の前の若い男とは結びつかない。

「本物の《キキモラ》、すなわち貴方の父君はどうされたんですか?」

「2年前に亡くなりました。ソチの別荘でね。アメリカの帝国主義と衰弱し続ける自国の現状に怨嗟の言葉を吐き続けながら」

 肉親の死を話している間も表情は微塵も変わらなかった。アルマンは横目でエゴロフを睨みつける。エゴロフは頭を下げた。

「立ち入ったことを聞き、申し訳ありません。まだ質問したいことがありますが」

「どうぞ」

「先ほど《シェル》を取り戻すとおっしゃいましたね。具体的には、どうやって?」

《キキモラ》は微笑を浮かべる。

「ロシア空軍の有志たち、別の基地にいる1個飛行隊が手立てを考えてくれてます。日本政府は私たちと交渉し、《シェル》を手放すしかない状況に追い込むんです」

「有志たちは《シェル》を取り戻したとして、その後どうするつもりなんです?」

「崑崙に運びます」

 エゴロフは眉をひそめる。崑崙とは、古代中国の伝説に登場する聖地である。

「世界中から反米の旗印の下に戦士たちが集まる聖地。北朝鮮、中国、ロシアに国境を接する三角地帯トライアングル。そこが私たちの崑崙です」

 外から轟音が響いた。エゴロフは窓から滑走路に眼を向ける。2機のSu-27がエンジンランナップしているところだった。途端にターボジェットエンジンを噴き上げ、蹴飛ばされるように加速を開始して飛び立っていった。訓練か。緊急発進か。《キキモラ》は手をパンと叩いた。

「少し早いですが、祝杯を上げましょう」

《キキモラ》はウェイターに合図を送る。3人分の氷が入ったグラスとボトルがテーブルに置かれた。エゴロフはボトルの銘柄を訝しげに見る。ワイルドターキー。エゴロフの表情に気づいた《キキモラ》は言った。

「父は根っからのアメリカ嫌いでしたが、このバーボンは良く飲んでたんです。元戦闘機パイロットのゲン担ぎです。この酒だけは母なるロシアでも作れないと笑ってました」

 ウェイターはグラスに洋酒を注いだ。《キキモラ》はエゴロフに眼を向ける。

「私は貴方に感謝しているんです。貴方には日本で《シェル》の所在を追ってもらい、なにより《シェル》を見つけ出してくれました。あれが無ければ、私はルビコン作戦をやろうとは思いませんでした」

「ルビコン、ですか?」エゴロフは言った。

 アルマンは顔に苦笑を浮かべる。

「彼は最近、古代ローマの衰亡史に入れあげてるらしい」

 3人はグラスを宙に掲げる。《キキモラ》はキッパリと言った。

「では、乾杯」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る